第5話 死神庁、監査に入る
鐘が鳴った。
一度目。
二度目。
三度目。
砦の鐘ではない。
もっと遠く、もっと深い場所から、事務的な音が届いていた。
ミエルは、折れた黒い羽根ペンを見つめたまま、両手で顔を覆っている。
「やだ」
鐘が鳴る。
「やだやだ」
また鳴る。
「僕は何も見てない。折れた羽根なんて見てない。終幕印っぽいものなんて見てない。だから呼ばれてない」
鐘が、もう一度鳴った。
今度は少し強い。
「……呼ばれてる」
ロイドは剣を収め、ミエルを見下ろした。
「行くのか」
「行きたくない」
「だが、呼ばれている」
「そこを正論で殴らないで!」
ミエルは床に倒れ込みかけた。
だが、途中でぴたりと止まる。
「でも、逆らうと書類が増える」
「そうなのか」
「そうなの!」
ミエルは涙目で叫んだ。
「呼び出しを無視した理由を書かされるんだよ! 行かなかった理由を説明するために、結局行く羽目になるんだよ! 意味分かる!?」
「……分からん」
「僕にも分かんないよ!」
鐘が、五度目を鳴らした。
ミエルの足元に、黒い丸が開く。
影が、床に穴をあけたようだった。
ミエルは折れた羽根ペンを拾い、鎌を引きずって黒い丸の上に立つ。
「すぐ戻る」
言ってから、自分で口を押さえた。
「今のは大丈夫。たぶん」
「たぶんか」
「この世に絶対安全な言葉なんてないんだよ!」
黒い影が巻き上がる。
ミエルの金色のツインテールが、影の中へ沈んでいく。
「ロイド!」
「何だ」
「誰も一人にするな! 誰かが変なことを言いかけたら口を塞いで! 特に補給官! あの人、言い切る才能がある!」
廊下で押さえられていた補給官が、びくりと肩を跳ねさせた。
「私は何も」
「何も言うな!」
ミエルは叫んだ。
そのまま、影に飲み込まれる。
最後に鎌だけが床の縁へ引っかかった。
「ちょ、待って、鎌、鎌が」
影が閉じた。
声も消えた。
ロイドは、しばらく床を見ていた。
それから騎士たちへ振り返る。
「補給官から目を離すな」
「はい」
「一人にするな」
「はい」
「余計なことも言わせるな」
廊下で、補給官が青い顔をした。
ミエルが落ちた先は、死神庁だった。
壁には銀の札が掛かっている。
『予定外死亡撲滅月間』
ミエルはそれを見上げた。
「毎月じゃん」
「ミエルさん」
受付台の上から声がした。
黒猫が座っている。
艶のある黒い毛並み。
鼻先に乗った丸眼鏡。
前足の横には、書類の束。
黒猫は、眼鏡の奥からミエルを見た。
「また緊急出勤ですが」
「僕だって、したくてしてるんじゃないんだよ」
「はい。存じています」
黒猫――クロムは、書類を一枚、前足でずらした。
「ですが、届け出は書いていただかないと」
「後日じゃ駄目? 今日はもう帰りたい」
「後日ですと、私が管理部に怒られます」
「クロムも怒られるの?」
「怒られます」
クロムは淡々と言った。
「そのうえ、別の書類も増えます」
「何で?」
「緊急出勤届の提出遅延届です」
ミエルは両手で顔を覆った。
「死神庁ほんと嫌い!」
「お気持ちは承りました。では、こちらに署名を」
「承るな! 慰めて!」
「慰める権限はありません」
「上司でしょ!」
「上司なので、書類を通します」
ミエルはぶつぶつ言いながら羽根ペンを取った。
書く欄は多かった。出勤理由、発生場所、予定外死亡の種類、現場対応内容、備考欄。
ミエルは備考欄に大きく書いた。
『人間が悪い』
クロムは、それを前足で自分の方へ寄せた。
「備考になっていません」
「事実だよ」
「事実でも、備考にはなりません」
「じゃあ何て書けばいいの」
「発言由来の死の筋を確認。現場判断により介入。対象者は生存。関連物品として黒い羽根ペンを回収、です」
「クロムが書いてよ」
「代筆申請が必要です」
「もうやだ!」
ミエルは机に突っ伏した。
クロムは、しばらく黙って書類を整えていた。
それから、ぽつりと言った。
「ミエルさん。知っていますか」
「何」
「管理職って、残業代が出ないんですよ」
ミエルは顔を上げた。
「……え」
「いい言葉ですよね。管理監督責任」
クロムは遠い目をした。
猫の顔なのに、ひどく疲れて見えた。
「何か起きるたびに、現場確認だの上への報告だの管理部への説明だの、あとからあとから増えるんですよ」
「ク、クロムも苦労してるんだね」
「はい。していますよ」
クロムの尻尾が、ゆっくりと揺れた。
「皆さんが頑張ってくれているのは、よく存じています。ミエルさんも、現場で走り回ってくれている。そこはちゃんと分かっています」
「クロム……」
「私もね、頑張ってるんですよ。人知れず」
ミエルの顔が、少しだけしゅんとした。
「そ、そんなこと言わないでよ。僕も頑張るから」
クロムの目が、きらりと光った。
「言いましたね?」
「へ?」
「では、この件はミエルさんに任せます」
「え」
クロムは机の上から、別の書類を前足で押し出した。
『臨時調査担当任命通知』
銀の文字が、やけに冷たく光っている。
ミエルは固まった。
「え、ちょ、待って。あれ? 話が違うよ?」
「何のことでしょう」
クロムは丸眼鏡を直した。
「ミエルさんが自ら動いてくださるなんて、なんとありがたい」
「待って! 待ってよぉ。違うよぉ。そうじゃなくてぇ」
「第一発見者が持った方が早いんですよ。余計な報告も増えません」
「第一発見者って、だいたい一番損する人の名前だよね!?」
「現場理解が深い、と言ってください」
「嫌だ!」
「辞退しますか」
「する!」
「では、辞退届と、辞退理由補足書と、引き継ぎ先選定依頼書を」
「やっぱりしない!」
「賢明です」
クロムは小さくうなずいた。
ミエルは机に額を押しつけた。
クロムは、そこで机の端を見た。
ミエルが持ち帰った、折れた黒い羽根ペン。
その根元に焼きついた印。
開いた本。
その上に置かれた、笑う仮面。
クロムの尻尾が止まった。
「ミエルさん」
「何。もうこれ以上の書類は聞きたくない」
「これを、どこで」
声が変わっていた。
ミエルも顔を上げる。
「砦。補給官の部屋。勝手に言葉を書いてた」
「対象者は」
「生きてる。僕が転ばせた」
「部屋は」
「壊した。壁から入った」
「扉は」
「正面に短剣が落ちてた。開けてたら刺さってた」
クロムは、黒い羽根ペンを見つめた。
「終幕印です」
「やっぱり?」
「見なかったことにしたい顔ですね」
「したい」
「見ています」
「だよね」
クロムは、折れた羽根ペンを透明の箱に入れた。
箱の内側で、黒い煙が細く暴れる。
「終幕の語り部」
クロムが言った。
「死に、意味のある終わり方を押しつけるものです」
ミエルの眉間にしわが寄る。
「死を飾りにするやつか」
「はい」
「最悪じゃん」
「最悪です」
クロムは静かにうなずいた。
「今回の件は、自然発生ではありません。誰かが言葉を誘導しています」
「誰か、って」
「本体か、残り香か、誰かの真似事か」
「一番面倒な言い方やめて」
「どれであっても、面倒です」
「もっとやめて」
クロムは任命通知に前足を置いた。
銀の文字が光る。
『担当者 ミエル・ザ・リッパー』
ミエルは両手を伸ばした。
「待って! まだ押さないで!」
クロムの肉球が、ぽん、と紙を押した。
通知に、黒い印が刻まれる。
「確定しました」
「ぽん、じゃない!」
「正式任務です」
「僕の意思は!?」
「先ほど確認しました」
「僕も頑張るって言っただけだよ!」
「十分です」
「十分じゃない!」
ミエルはじたばたした。
クロムは書類をきれいに揃える。
「ミエルさん」
「何」
「無理はしないでください」
ミエルの動きが止まった。
クロムは、いつもの顔でこちらを見ている。
けれど、声は少しだけ柔らかかった。
「終幕印が出た以上、現場は荒れます。あなた一人で抱える必要はありません」
「……クロム」
「ただし、報告は毎回ください」
「そこで終われば優しかったのに!」
「上に出す必要がありますので」
「管理職!」
「はい。管理職です」
クロムは、また遠い目をした。
ミエルは小さくため息をつく。
それから、鎌を掴んだ。
「分かった。やるよ。やればいいんでしょ」
「助かります」
「でも僕は働き者じゃないからね」
「はい」
「帰りたいし、寝たいし、今日はもう何も見たくない」
「存じています」
「存じてるなら帰して」
「任務後に」
「死神庁ほんと嫌い!」
ミエルの足元に、黒い丸が開いた。
クロムは机の上で、前足をそろえる。
「ミエルさん」
「今度は何」
「ご安全に」
ミエルは少しだけ口を尖らせた。
「……クロムもね」
黒い影が巻き上がった。
ミエルが戻った時、補給官室はさらに散らかっていた。
壁には穴。
床には油。
扉の正面には短剣。
机の上には紙片。
補給官は廊下で騎士二人に挟まれ、毛布でぐるぐる巻きにされている。
「何これ」
ロイドが振り返った。
「一人にしない方がいいと言われたので」
「うん」
「動くと危ないとも判断した」
「うん」
「縛った」
「えらい」
補給官が毛布の中でもがいた。
「私は補給責任者だぞ!」
「責任者が生きてるだけで偉い!」
ミエルは即答した。
補給官は黙った。
ロイドがミエルの顔を見る。
「何が分かった」
ミエルは死んだ目で紙片をくしゃりと握った。
「誰かが、君たちに言わせようとしてる」
ロイドの目が鋭くなる。
砦の外から騎士の声がした。
「隊長! 敵将の部隊が崩れています!」
別の声が続く。
「このまま押せば、勝っ――」
ミエルの首が、ぎぎ、と音を立てそうなほどゆっくり動いた。
蜂蜜色の目が細くなる。
「今」
ミエルは鎌を握った。
「何て言いかけた?」




