第3話 様子を見に行くな!
「隊長。少し、様子を見て――」
「行くなあああああああ!」
ミエルが兵士の腰にしがみついた。
「ぐっ!?」
「様子は一人で見に行くんじゃない! 最低二人! 人数は多ければ多いほどいいの!」
「大勢で行けば音が立つ」
「音を立てていいの! こそこそ一人で消えるよりずっといい!」
「すぐ戻る」
「すぐ戻るは禁止! どうせすぐには戻らないし、よしんば戻っても喋れないことの方が多いの!」
兵士は、助けを求めるようにロイドを見た。
ロイドは砦を見上げていた。
前線砦、カルデア。
門の上に弓兵がいない。
炊事場の煙もない。
負傷兵の呻きも、馬の鼻息も聞こえなかった。
だが、門は開いている。
松明は燃えている。
王国旗も揺れている。
それなのに、声だけがない。
風が、門の奥を抜ける。
木戸が小さく軋んだ。
「全員、固まって入る」
ロイドが言った。
「二人一組。互いの位置を見失うな」
「よし!」
ミエルが兵士の腰から手を離した。
「やればできるじゃん、人間!」
「ミエルの指示を聞け」
ロイドは騎士たちを見た。
「こいつを無視した時だけ、毎回ろくなことになっていない」
「彼女じゃない。死神」
ミエルが胸を張る。
「二百年働いてる死神」
騎士たちの視線が少し下がった。
「背丈を見るな!」
ミエルは地団駄を踏んだ。
ぽふ、と土が跳ねる。
ロイドは剣を抜いた。
「入るぞ」
門番の槍が、壁に立てかけられていた。
柄には、まだ手の脂が残っている。
門の内側に、倒れた椅子が一つ。
血はない。
争った跡もない。
ただ、椅子の脚だけが、嫌な角度で空を向いていた。
中庭の端では、鍋が火にかかったままだった。
豆のスープが、小さく泡を立てている。
誰かがさっきまで混ぜていたように、木べらが鍋の縁に立てかけられていた。
「誰もいない……?」
「状況をまとめるな!」
ミエルが即座に振り向いた。
「そういうの、言い方が詩っぽくなると来るから!」
「詩っぽく」
「しんみりするな! 冷静に報告して!」
騎士は咳払いした。
「中庭、無人。血痕なし。火は残っています」
「よし。そういうのでいいの」
ミエルはうなずいた。
「感想はいらない。情緒もいらない。生きて帰ってから日記に書いて」
「日記は書いていません」
「じゃあ書かなくていい!」
ロイドが中庭の奥を指した。
「兵舎、武器庫、礼拝室。順に確認する」
「確認する、はいい」
ミエルが懐をまさぐった。
出てきたのは、細い縄だった。
黒い。
やけに長い。
しかも絡まっていない。
「全員、これ持って」
騎士たちが固まった。
「何だ、それは」
「命綱」
「我々は山登りに来たのではない」
「山登りも異変調査も命の危険は一緒なの! 物見遊山が気に入らないなら手綱だと思ってなよ」
「犬扱いされる方がよほど嫌なんだが」
ミエルは縄の端をロイドに押しつけた。
「二人一組。腰に結ぶ。角を曲がる時は声をかける。扉は一人で開けない。暗いところに話しかけない。返事があった時の方が大変でしょ!」
「返事がなければ?」
「警戒で済む!」
「返事があれば?」
「面倒になる!」
騎士たちは顔を見合わせた。
軽口を返す者は、もういなかった。
「結べ」
ロイドが言う。
騎士たちは黙って縄を受け取った。
ミエルは満足げに頷き、それから自分の腰にも縄を巻こうとして、長さが余りすぎた。
「……誰か結んで」
若い騎士が膝をついた。
「失礼します」
「子供扱いするなよ」
「していません」
「手つきが子供に外套を着せる時のやつ!」
「慣れているもので」
「何に!?」
縄が結ばれる。
ミエルはむすっとした顔で、鎌を引きずった。
石畳に刃先が擦れる。
きい、と細い音がした。
兵舎へ向かう廊下は、暗かった。
松明は壁にある。
火も消えていない。
だが、灯りが奥まで届いていなかった。
闇が、廊下の途中で固まっている。
「俺が先に――」
斥候役の騎士が一歩出た。
ミエルが縄を投げた。
黒い縄が騎士の胴に絡む。
「なっ」
床が抜けた。
足元が、音もなく消えた。
騎士の体が落ちる。
ロイドと二人の騎士が縄を掴んだ。
ぎしり、と縄が鳴る。
「引け!」
騎士が戻ってきた。
床の穴は、黒かった。
底がない。
松明を近づけても、光が落ちていかない。
底から、風だけが上がってきた。
「……今の床、さっきまで」
「ほら!」
ミエルが怒鳴った。
「“俺が先に”は落ちるの! だいたい落ちるの!」
斥候役の騎士は、床に座り込んだまま息を荒げていた。
「礼を言う」
「あとで! 礼も謝罪も後悔も全部あと!」
ミエルは穴の縁を覗いた。
蜂蜜色の瞳が、少し細くなる。
「……やだな」
ロイドが膝をつく。
「何が見える」
「見えるっていうか、残ってる」
ミエルは穴の縁に鎌の柄を当てた。
黒い線が、石の継ぎ目からうっすらと伸びている。
普通の兵士には見えない。
ロイドにも、はっきりとは見えなかった。
ただ、そこだけ影が張りついているように見えた。
「誰かがここで言った」
ミエルの声が低くなる。
「“先に見てくる”とか。“すぐ戻る”とか。そういうの」
「それで、落ちたのか」
「たぶん」
ミエルは顔をしかめた。
「たぶん、何人も」
廊下の奥で、何かが軋んだ。
木が撓む音。
それとも、爪が石を擦る音。
騎士が槍を向ける。
「誰かいるのか」
「暗い廊下に話しかけるな!」
ミエルが横から口をふさいだ。
「むぐっ!?」
「返事があった時の方が大変でしょ!」
廊下の奥。
何かが止まった。
しばらくして、ずる、と音がした。
ロイドが剣を構える。
「盾、前」
騎士たちが盾を並べた。
ミエルは小さく息を吸う。
「こっちから行くよ。全員で。じわじわ」
廊下を進む。
一歩。
二歩。
床の穴を避ける。
崩れた石を跨ぐ。
壁には、爪痕のようなものが残っていた。
だが、血はない。
廊下の奥から出てきたのは、鎧だった。
中身のない鎧。
王国騎士団のものだった。
胸当てがひしゃげ、兜が斜めにずれている。
鎧は立っていた。
人の形をしている。
ただ、中に人はいない。
「……」
騎士たちが息を呑む。
ロイドが剣を上げた。
「動くぞ」
鎧の中から、黒い糸のようなものが垂れた。
足元へ伸びる。
石床に触れた瞬間、鎧が動いた。
速かった。
中身がないぶん、重さを感じさせない。
剣が振り下ろされる。
ロイドが受ける。
火花。
別の騎士が横から槍を突く。
鎧はねじれ、槍を避けた。
「前へ出すぎない!」
ミエルが叫ぶ。
「ひとりで決めようとするな!」
「はい!」
盾が重なる。
槍が伸びる。
ロイドの剣が、鎧の膝を打った。
鎧が崩れる。
すかさず二人が押さえ込む。
ミエルが鎌を振った。
大きな鎌の刃は、鎧そのものではなく、鎧の中に垂れていた黒い糸を切った。
ぷつん。
音がした。
鎧が、ばらばらと床に落ちる。
兜が転がった。
中は空だった。
「……死体は」
「ない」
ミエルは鎌を肩に担ごうとして、重くてやめた。
「だから嫌なんだよ」
「何が起きている」
「分からない」
ミエルは廊下の奥を見た。
「言葉だけじゃ、こうはならない。言った後に、何か残ってる」
ロイドは何も言わなかった。
先を促すように、ただミエルを見ていた。
ミエルは床を見た。
石の継ぎ目。
倒れた椅子の脚。
消えかけた松明。
黒いものが、薄く残っている。
線みたいに細い。
でも、影にしては真っ直ぐすぎた。
「まだ、言ってないはずなのに」
ミエルの声が低くなった。
「なんなんだよ、この砦」
兵舎には、誰もいなかった。
寝台は乱れていない。
毛布は畳まれているものもあれば、床に落ちているものもある。
机の上には、書きかけの手紙があった。
インクは乾いている。
文字は途中で途切れていた。
『母上へ。任務が終われば――』
ミエルが無言で手紙を伏せた。
「読むな」
ロイドが短く言った。
騎士たちは頷いた。
武器庫には、剣も槍も残っていた。
持ち出された様子は少ない。
壁に掛かった弓が一本、床に落ちている。
弦は切れていた。
倉庫には、麦袋が積まれていた。
一つだけ破れている。
床にこぼれた麦が、誰かの足跡のように廊下へ続いていた。
「追うか」
騎士が言いかけて、ミエルを見た。
ミエルも見返す。
「二人以上で」
「二人以上で追います」
「よし」
麦の跡は、礼拝室へ続いていた。
扉は半開き。
中から、押し殺したような息が聞こえた。
ロイドが手を上げる。
騎士たちが左右に分かれた。
ミエルが小声で言う。
「扉に話しかけない」
ロイドは頷き、二人で扉を押した。
礼拝室の中は荒れていた。
椅子が壁際に積まれ、祭壇の布が落ちている。
蝋燭は溶け切り、銀の杯が床に転がっていた。
祭壇の裏から、すすり泣く声がした。
「出てきてください」
ロイドの声は静かだった。
「王国騎士団、ロイド・ハーゼンです」
しばらくして、男が顔を出した。
兵士だった。
年は若い。
頬はこけ、目の下が黒い。
手には短剣を握っているが、震えすぎて刃先が床を向いていた。
「隊長……?」
「ここで何があった」
兵士はロイドの顔を見た。
それから、ミエルを見た。
黒フード。
金色の短いツインテール。
大きな鎌。
兵士の顔がさらに青くなる。
「死神……」
「そう! 分かる!? 分かる人いた!」
ミエルがぱっと顔を上げた。
兵士は震えたまま言う。
「迎えに、来たんですか」
「違う!」
ミエルは即座に叫んだ。
「君はまだじゃない! たぶん!」
「たぶん」
「今、確認するから余計なこと言わないで!」
ミエルは帳簿を開いた。
ぱらぱらと紙がめくれる。
兵士はその音だけで肩を震わせた。
「ええと……ユード・マルク。三十一歳。死亡予定、七十九歳。畑で転んで腰を打って寝込み、そのまま」
「俺、農家に戻れるんですか」
「戻れる予定だったの! ちゃんと黙って生きて帰ればね!」
ユードは短剣を落とした。
金属音が礼拝室に響く。
ロイドが膝をつく。
「ユード。砦の者たちはどこへ行った」
「分かりません」
ユードは唇を噛んだ。
「消えました」
ミエルが眉を寄せる。
「消えた?」
「最初は、見張りでした。門の外で音がしたと。少し、様子を見てくるって」
ミエルの肩が跳ねた。
「そのあと、戻ってこなくて」
ユードは壁を見た。
そこには、爪で引っ掻いたような跡が何本も残っている。
「次に料理番が、鍋を火にかけたまま、音を確かめてくるって」
ミエルの口元が引きつる。
「そのあと、副長が、見ていられないから自分が行くって」
「やめて」
ミエルが小さく言った。
ユードは止まらなかった。
「最後に補給官様が怒鳴りました。こんなところにいられるか、私は部屋に戻る、と」
誰も、すぐには息をしなかった。
騎士たちが、誰からともなくミエルを見る。
蜂蜜色の目が、祭壇の奥を見ている。
そこには壁しかない。
それでもミエルは、壁の向こうを見るみたいな目をしていた。
「補給官は」
ロイドが聞いた。
「奥の部屋に」
ユードが震える手で指した。
「鍵をかけて。誰も入れるなと」
「まだ生きているのか」
「声は、します」
その時。
礼拝室の奥。
廊下の向こうから、低い声が聞こえた。
「出ていけ……」
騎士たちが振り向く。
声は、石壁を這うように近づいてくる。
「私は……こんなところにいられるか……」
ミエルの顔が、すん、と暗くなった。
「最悪」
扉の隙間から、細くねじれた黒い線が何本も伸びていた。
扉が開くのを待つみたいに。
「最悪。一本じゃない」
ミエルは鎌を握り直した。
「僕、今日帰れるかな」
答えるより先に、奥の部屋で鍵がかちゃりと鳴った。




