間違った呪文と、赤き竜の刻印
ユウトやリカとのあの賑やかなお出かけから、早くも三日の月日が流れていた。
ヒロトは自宅の自室で、いつものようにライトノベルを読んでいたが、その意識は完全に上の空だった。彼の脳内を占領していたのは、ここ三日間のうちに浮上した、ある深刻な問題への対策――すなわち、シルヴィアについてだった。
というのも、この三日間のうちに、シルヴィアの本来の力が徐々に目覚め始めていたのだ。彼女が怒ったり、あるいはイライラして緊張が高まったりするたびに、その魔力が現実世界に漏れ出してくる。
ヒロトは頭を抱え、髪をぐしゃぐしゃとかきむしりながら心の中で悲鳴を上げた。
(ああ、クソッ! 一体どうすりゃいいんだよ……。シルヴィアのやつ、完全に危険人物になってきやがった。これじゃあ、俺が一歩言動を間違えただけで、今度は俺自身が異世界に強制転移(物理)させられちまうぞ!)
彼は重いため息をつく。
(誰かに相談して助けを求めたいところだけど、一体誰に言えばいいんだ? 『俺の最推しゲームのヒロインが俺の部屋に転移してきて、言う通りにしなきゃ俺を殺そうとしてくるんだ』なんて言って、信じてくれる奴がこの世にいるかよ!?)
まさにその瞬間、部屋のドアがガラリと開き、シルヴィアが姿を現した。彼女はゆったりとした部屋着姿で、口にスプーンを咥え、カップアイスを美味しそうに頬張っていた。そして、テレビの前に立つと、もぐもぐと口を動かしながら傲慢な口調で言い放った。
「ヒロ、そこを退け。私はテレビが見たいのだ」
ヒロトは眉をひそめてツッコミを入れる。
「食べるか喋るかどっちかにしろよ!」
シルヴィアは口からスプーンをぽんと抜くと、さらに鋭い視線で繰り返した。
「退けと言っている。テレビを見るのだ」
「だけどお前、午前中もずっと見てただろ!」ヒロトが抗議する。
すると、シルヴィアはあからさまに不機嫌そうな表情を浮かべ、冷たい瞳で彼を睨みつけた。
「……何が不満なのだ?」
「大ありだよ! ここをどこだと思ってんだ、電気代を払ってるのは俺なんだぞ!」
その言葉が引き金となった。
突如としてシルヴィアの周囲に怪しげな魔方陣の光が浮かび上がり、彼女の掌の上に、小さな、しかし確実に燃え盛る『火炎球』が生成されたのだ!
ヒロトは本能的な恐怖で2歩後退し、一瞬で引きつった営業スマイルを浮かべた。
「へ、へへ……冗談だって、ただのジョークだよ。さあどうぞ、テレビは君のものだ!」
彼は脱兎のごとく自分の部屋へと逃げ帰り、ドアをバタンと閉めると、悔しそうに床をドンと踏みつけた。
「クソッ! マジで何とかしねえと命が足りん……!」
彼は学習机の回転椅子に飛び乗り、ぐるぐると回りながら必死に脳細胞を回転させる。
「考えろヒロト……考えるんだ……!」
その時、脳裏に一筋の電撃が走った。
彼は立ち上がると、本棚へ突進し、シルヴィアが元いた原作小説の『第5巻』を引っ掴んだ。猛烈な勢いでページをめくりながら独り言を溢す。
「確か、俺の記憶が正しければ……あった、これだ!」
開いたのは第130ページ。そこには、あるキャラクターがシルヴィアに対して使用し、見事に彼女の力を封じ込めることに成功した『魔力封印の結界陣』の挿絵と解説が載っていた。
「ダメ元だ、やってみない手はねえ!」
ヒロトは裏紙を取り出し、ペンを握って必死にその魔方陣を模倣し始めた。呪文を唱え、発動を試みる。
1回目……失敗。
2回目……やはり失敗。
3回目、4回目、5回目……気がつけば30回も挑戦していたが、その全てが虚しく不発に終わった。
「あーっ、クソ、これ難しすぎるだろ!」
彼が頭を抱えたその時、部屋のドアをトントンと叩く音が響いた。ヒロトはビクッと身体を震わせ、慌てて描きかけの魔方陣を隠してからドアを開けた。
ドアの向こうにはシルヴィアが立っており、ぶっきらぼうに言った。
「風呂に入りたい。湯を沸かせ」
「あ、ああ、分かったよ」
ヒロトはホッと胸を撫で下ろし、急いで浴室に向かって給湯器のスイッチを入れた。シルヴィアはそのまま浴室へと消えていく。
自室に戻ったヒロトは、首を傾げた。
「一体なんで呪文が発動しないんだ?」
彼は再び第5巻を開き、今度は隅々まで、穴が開くほど解説テキストを読み込んだ。すると、小さな注釈に目が留まった。
【※なお、この術式を完全に発動させるには、術の対象者の『身体の一部(媒介)』と、術者自身の媒介が不可欠である】
「身体の一部……? ――髪の毛か!」
ヒロトは自分の頭から髪の毛を1本引き抜くと、足音を忍ばせてシルヴィアの部屋へと向かった。そっとドアを開けると、室内からは彼女特有の、バニラのような甘く心地よい香りが漂ってきた。いつもと違って、部屋は綺麗に整理整頓されている。
彼はそっとドレッサーに近づき、彼女が使っているヘアブラシを発見した。それを手に取って目を凝らすと、狙い通り、鮮やかな赤色の美しい髪の毛が数本絡みついている。それを慎重に回収すると、彼は自分の部屋へと全力で引き返した。
机の上に広げた魔方陣の紙。その中央に、自分の髪の毛とシルヴィアの赤い髪の毛を並べて置いた。
その瞬間――魔方陣がブワッと怪しい光を放ち、まばゆく輝き始めた!
ヒロトは「よっしゃあ!」と部屋の中で小躍りし、勝利を確信してガッツポーズを決めた。
「これで勝つる! ついに俺がこの家主としての主導権を取り戻す時が来たんだ!」
まさにその時、運悪く部屋のドアが勢いよく開いた。
そこには、頭に白いバスタオルを巻いた、風呂上がりのシルヴィアが立っていた。彼女は鋭い視線をヒロトに据え、低い声音で怒りを露わにする。
「ヒロト……お前、さっき私の部屋に入っただろう? 明かりがついたままだったし、私のヘアブラシの位置が変わっていたぞ」
彼女が本格的に激怒するよりも早く、ヒロトは光り輝く魔方陣の紙をバッと彼女の目の前に突き出し、邪悪な高笑いを上げた。
「ハハハ! 遅いんだよシルヴィア! お前の奴隷生活もここまでだ。今度は俺が仕返し(リベンジ)してやる番だからな!」
シルヴィアの視線が、彼の持つ発動寸前の魔方陣へと注がれた。その瞬間、彼女の顔から血の気が引き、身体がガタガタと震え始めた。それは紛れもない、本物の恐怖の表情だった。
「待て……お前、狂ったか!? どこからその悍ましい術式を手に入れた!?」
彼女は術を阻止しようと、紙をひったくるために鋭い跳躍を見せた。しかし、ヒロトの方が一瞬早かった。彼は全力の声で叫んだ。
「――『封印』!!」
刹那、視界が真っ赤な閃光で埋め尽くされた。部屋全体を包み込むような眩い烈光に、シルヴィアは2歩後退し、顔を覆って目を細める。
同時に、ヒロトは首筋にゾクッとするような、強烈な灼熱感を覚えた。まるで熱した焼きごてを肌に押し当てられたかのような痛みが走る。
やがて、部屋を遮っていた赤光がゆっくりと収束していった。
ヒロトがハァハァと息を荒くしながら、恐る恐る室内の姿見(鏡)に首筋を映し出すと――そこには、不気味に赤く浮かび上がる『一頭の小さな竜の紋章』が、まるでタトゥーのように刻まれていた。
彼が視線を床へ戻すと、そこにはシルヴィアが両膝をつき、激しく息を切らして蹲っていた。そして驚くべきことに、彼女の白く細い首筋にも、全く同じ『赤き竜の紋章』が刻印されていたのだ。
ヒロトは唖然として声を漏らす。
「え……? 何が起きたんだ?」
シルヴィアは猛然と立ち上がると、凄まじい形相でヒロトの胸ぐらを掴み、思いきり揺さぶりながら絶叫した。
「この大馬鹿者がぁぁぁぁぁっ!!! 一体何をしてくれたのだ!? これは魔力封印の呪文などではない! 高位の禁術――『隷属の刻印』ではないか!!」
ヒロトは完全にパニックになり、間抜けな顔でパチクリと目を瞬かせた。
「……は?」
シルヴィアは悔し涙を浮かべながら怒鳴る。
「これで私は……完全にお前の『従者』になってしまったのだぞ!」
「えええええええええええっっ!?」ヒロトの悲鳴が響き渡る。
慌ててヒロトが机の上の第5巻に飛びつき、開いていたページの『次のページ』に目を落とすと、そこには恐るべき真実が書かれていた。完全にページを読み間違えていたのだ。そのページに記載されていたのは、対象者を絶対的な奴隷とする暗黒魔法。術を掛けられた者は術者の「奴隷」となり、決して逆らうことも離れることもできず、さらに術者の身に何かが起きれば、そのダメージがそのまま連動して従者側にも突き刺さるという代物だった。
シルヴィアは完全に精神的崩壊を起こし、頭を抱えて絶望していた。
「終わった……。これではもう、お前をいつでも好きな時に『浄化(物理)』することができないではないか……っ!」
その姿を見て、ヒロトは頬をポリポリと掻きながら、現実に思考を戻した。
(いや、待てよ? ってことは……少なくとも、これでもう命の危険に怯えたり、殺害予告の脅しを受けたりすることはなくなるってことか?)
シルヴィアが、怨念の籠もった真っ赤な瞳をゆっくりとヒロトに向けた。その凄まじい殺気に、ヒロトの背筋が再び凍りつく。
彼女は一瞬にして、あの愛用の『聖剣』を虚空から呼び出し、手の中に握りしめた。
「ヒロト……この、世界一の大馬鹿者がァ!!」
彼女は怒りのままに、聖剣を大上段からヒロトめがけて振り下ろした。
だが――刃がヒロトの身体に接触する寸前、彼の周囲に半透明の強固な『魔力の障壁』が自動的に展開され、カンッ!という高い金属音とともに、聖剣の痛烈な一撃を完全に弾き返したのだ!
強烈な反動により、シルヴィアの身体は後ろへとよろめき、聖剣を持つ手が大きく震えた。
彼女は自分の手と、守られたヒロトの姿を交互に見つめ、信じられないといった様子で目を見開いた。
「なっ……何なのだこれは!? 通常の隷属魔術に、このような自動防御の機能など備わっているはずがないぞ……っ!?」




