一輪の青い薔薇
2人の前に現れた、異形の生物‥‥‥ゴブリン。
「っ‥‥‥!!」
アベルは息を呑み、無意識に身体が硬直する。だが、悲鳴は上げなかった。
(セリカを守らないとっ‥‥‥!!)
そう、自分の中で何かが訴えていた。
「美味そうなだナぁ。特に雌の方は髪まで味わえそうだァ〜」
ゴブリンが目を細め、舌なめずりをする。
アベルは必死に湧き上がる恐怖を抑え込み、セリカを自分の背中に回す。
「セリカっ、後ろにっ」
「あ、アベルっ」
「勇敢な雄だなぁ〜。雌の方はぁ、こんなにも可愛く震え上がっているのにナァ〜?」
アベルは無意識に、セリカを守ろうと警戒を強めた。その反応に、ゴブリンが煽るような笑みを浮かべている。
今のアベルたちに取れる行動は‥‥‥限られていた。
「セリカ‥‥‥先に逃げるんだ」
背中にしがみ付き、身体を震わせているセリカに‥‥‥アベルは小声で話す。
「ここから街まで、そう遠くない。街に着いたら、助けを呼んできてほしい」
「ぇ‥‥‥? あ、アベルはっ‥‥‥?」
涙を溜めて震え声を出すセリカ。そんな彼女は儚く、脆い。
アベルは後ろ手で、彼女の背中を優しく撫でる。
「‥‥‥ぼくはあいつの注意を引くっ」
だが、アベルは声が上擦ってしまう。必死に平静を装い、ゴブリンを睨み付ける。
「な、なんでっ! 一緒に逃げよっ‥‥‥!?」
セリカが必死に声を出した涙を流す。
「セリカっ‥‥‥」
1人で逃げ出すのは、怖い。一緒じゃないと嫌だ。
彼女の顔に、そう書いてあるようだった。
「‥‥‥セリカ、よく聞いてくれ」
アベルは、魔物の様子を伺いながら話す。逃げ出したい気持ちが、意思とは無関係に沸き上がっていく。
「このまま逃げても、たぶん2人とも捕まるだけだ‥‥‥でもぼくが少しでも注意を引けば、セリカは絶対に逃げられる」
だが、セリカの事が最優先だった。
アベルは恐怖を抑え込んで、彼女を逃がすべく心を奮い立たせる。
「い、いやっ。アベルを置いてっ、私だけ逃げるなんてっ」
「逃げるだけじゃないっ。助けを呼んできてもらう役目もあるから。気にしなくていいんだよ!」
2人が小声でやりとりしている間も、時間は進む。
ゴブリンが涎を垂らして、一歩ずつ歩いてくる。
「ーーーセリカっ、早く行けっ!!」
「イヤッ!! 一緒に逃げよっ!!? 私っ、あなたと一緒なら死んだっていいッ!!」
「バカっ、生きなきゃ意味ないだろっ!?」
アベルとセリカは話す事に夢中で‥‥‥肝心な事を見落としていた。
「おでも混ぜろヨォォォ〜!!!」
ゴブリンが近づき、一足飛びで襲いかかってきた事に。人外の化け物は、身体能力も化け物じみていた。
「っ!?」
「きゃぁッ!!」
2人が咄嗟に動き出そうとした時には、もう目前にまで迫っていた。
「ーーー!!」
アベルは咄嗟に、セリカを後ろへ突き飛ばす。
「きゃッ!?」
押されたセリカが勢いよく尻餅を付くが、すぐに顔を上げる。
「アベ、ルっーーーきゃぁぁぁぁッ!!!」
そして、セリカが叫んでいた。
「にげろっ、セリカっ‥‥‥!!」
必死に声を出すアベルは、歯を食いしばって仰向けに倒れている。
そして左腕には‥‥‥ゴブリンの牙が食い込んでいた。血が溢れ出し、地面に滴り落ちている。
「ぅっ‥‥‥!?」
鋭い激痛が走った後、じわじわと広がっていく鈍い痛み。だがアベルは歯を食いしばるだけで、涙は流さない。
「アベルっ‥‥‥!!」
一方、セリカは大粒の涙を流し、顔を真っ青にしてその光景を凝視していた。
「‥‥‥やめてっ」
セリカが両手を震わせて、小さく呟く。当然、ゴブリンには聞こえていない。
「にげ、ろ‥‥‥!!」
だが、アベルは彼女の声が聞こえていた。両手を、いや全身を小刻みに震わせ‥‥‥キッと睨む彼女を見つめる。
「セリ、カっ‥‥‥逃げろッ!!」
ただ、セリカの無事だけを願って。彼女のためなら、自分はなんだってーーー。
「やめてェェェェェッ!!!!!」
ーーー突然、響き渡った大声。
アベルは目を見開いて困惑した。自分を襲うゴブリンの事など、どうでもよかった。
「っ!?」
走り出したセリカが‥‥‥瞬く間にゴブリンとの距離を詰めている。
「アベルから離れてッ!!!!」
そして彼女が、ゴブリンを両手で突き飛ばす。
当然、6歳の少女の腕力では何も起こらない‥‥‥はずだった。
「ーーーグボェッ!?」
ゴブリンの身体が、吹き飛ぶのではなく破裂した。噴出した黒い血飛沫が花を濡らす。
「ガ、ァ‥‥‥」
呻き声を出したゴブリンは、目を見開いたまま倒れ込む。明らかに、呼吸をしていない。
「ぇ‥‥‥」
そして仰向けのアベルは、黒い血を浴びる。驚いているのは、自分に降り注ぐ血なんかではない。
「セリ、カ‥‥‥?」
アベルは目を見開いて、彼女を見つめ続けていた。
左腕の怪我なんてどうでもよかった。ゴブリンの生死なんて、どうでもよかった。
それよりも‥‥‥アベルには、恐ろしい事があった。
「よかったッ‥‥‥アベルが無事で本当に良かった!!」
涙を流して、抱きついてくるセリカ。
彼女の身体から‥‥‥得体の知れない気配を感じる事だった。
「セリ、カ‥‥‥?」
まるで‥‥‥彼女の体内で何かが生きているような。何かが、彼女の中で揺らめいている。
アベルは名前を呼んで、ただ見つめることしかできない。
「あぁっ、その腕をなんとかしないと!!」
するとセリカが、躊躇なくスカートの一部を破り‥‥‥アベルの左腕へ巻き付ける。
「今はこんな布しかないけど、何も無いよりはマシだと思うからっ‥‥‥」
「っ‥‥‥セリカ」
涙を溜める彼女を見て、アベルは自分を恥じた。
彼女に恐怖を感じた、自分自身に。
「‥‥‥ううん、ありがとう。セリカも無事で、本当に良かったっ」
アベルは笑顔で話しかける。
たとえ、どんな異質な力を持っていても‥‥‥自分の大好きなセリカであることは、変わらないと。
セリカが涙を流しながら微笑む。だが、彼女はすぐに目線を落として俯く。
「ねぇアベル。お花畑‥‥‥もうなくなっちゃったね」
彼女の視線の先には‥‥‥花畑。
大部分が荒らされてしまい、無惨にも風に飛ばされていく、無数の花弁。
「‥‥‥せめて埋めてあげよう」
そう決心しながら、アベルは荒らされた花畑を見つめる。セリカが大好きだった、花畑を。
「アベル‥‥‥でも、あなたの腕を‥‥‥」
セリカが戸惑いの声を漏らす。彼女の視線が、アベルの左腕に向く。
「セリカに布を巻いてもらったし、大丈夫。それに綺麗なお花畑をまた見たいんだ‥‥‥2人で」
アベルは荒れた花畑を見続け、笑顔を向けた。
野原を駆け回り、花畑を見るために足を運ぶ。
そんな幸せな日常が、まだ戻ってくる事を信じて。
「アベルっ‥‥‥やっぱり私、あなたが大好きっ」
セリカが勢いよく抱き着く。アベルは顔を真っ赤にしながら、優しく抱擁した。
「ぼくも好きだよ」
「‥‥‥‥‥‥うん。知ってる」
そう言って物憂げに佇むセリカが、アベルの目には何よりも美しく見えた。
「セリカには敵わないよ‥‥‥」
アベルたちは顔を真っ赤にしながら、千切れた花たちを土へ埋めていく。既に日が暮れ始めているが、全く気にせずに。
「アベル〜! こっち来て〜!」
アベルは千切れた花たちを全て埋めた時、セリカから呼ばれる。
彼女の元へ向かうと、セリカの方も花は埋め終えていた。だが彼女の人差し指は、とある花へと向いている。
「ーーーこの花が、どうしたの?」
アベルは素直な気持ちを呟いた。すると、セリカが頬を膨らませる。
「これは青薔薇なの! 世界中でも滅多に咲かない、ほんとに貴重な花だって本に載ってた!」
「青薔薇‥‥‥これが青の、薔薇? そんなにすごい花なの?」
「すごい花だよ!!」
彼女の剣幕に、アベルは後退りしながら両手を振る。するとセリカが目を細め、青薔薇の前でしゃがみ込んだ。
「でも既に咲き終わって、根が枯れてるの‥‥‥せっかく見つけたのに」
青薔薇の根は少し変色していて、細々としている。
「‥‥‥じゃあさ」
アベルは彼女の隣にしゃがみ込むと、青薔薇を見つめる。
「本の栞にしよう。セリカは前にもしてたから、長く保管できるよね」
「‥‥‥いいのかな、こんな貴重な花を」
セリカが少し目を細め、小さく息を吐く。
「セリカなら、この花の状態も‥‥‥わかってるんだよね」
「うん‥‥‥数時間経ったら、たぶん‥‥‥」
俯く彼女の言葉を聞き、アベルは決心した。
「生き物の命は有限なんでしょ? だから終わりを見届けるのも‥‥‥大事なことなんじゃないかな」
たった一輪の青い薔薇の、最期を。
「ぼくも、一緒に見届けるよ」
「アベル‥‥‥」
目を見開いたセリカが、口に力を入れて頷く。
そして2人は、青薔薇の根を掘り当て‥‥‥優しく抜いた。
「引き抜いて、ごめんね‥‥‥でも、絶対枯れさせないからね」
そう呟いた彼女は両手で優しく包み、歩き出す。本の栞にして、綺麗な青い薔薇を維持するべく。
「‥‥‥帰ろう、セリカ」
こうしてアベルは、セリカと共に‥‥‥花畑を去る。
再び、花たちが満開に咲き誇ることを祈りながら。
だが、それは叶わない夢物語。




