第8話 月夜の鍛錬
シュッ、と鋭い風切り音が静寂を裂いた。
深夜の王宮、人影のない中庭。
私は月明かりの下、独り舞うように体を動かしていた。
銀色の髪が夜風に揺れ、法衣の白い裾がひらりと翻る。
——重い。
一連の動作を終え、私は小さく息を吐いた。
十五歳の少女の体。華奢で、どこまでも無垢なこの肉体は、前世の「ファントム」と呼ばれた頃の私とはあまりにかけ離れている。
筋力も、リーチも、反射速度も、今の私には足りないものばかりだ。
——だが、悪くない。
私は再び低く構え、音もなく踏み出した。
足音を消す「隠密歩法」。
重心を常に中心に保ち、あらゆる方向への攻撃と回避を可能にする暗殺者の構えだ。
指の間には、医務室から密かに持ち出した数本の「鍼」が挟まれている。
(……一、二、三)
脳内で仮想の敵を配置する。
正面に大男、背後に二人。
私は視線を動かさず、気配だけで敵の動きを察知し、最短距離でその「急所」を突く。
手首のスナップだけで鍼を投擲し、同時に身を翻して背後の敵の喉元を指先でなぞる。
——技術は、魂に刻まれている。
反復練習を繰り返すうちに、鈍っていた感覚が徐々に研ぎ澄まされていく。
血液の温度が上がり、視界がクリアになる。
聖女として振る舞う昼間の窮屈な時間から解放され、ようやく「自分」を取り戻したような感覚。
そう、私は癒しの聖女などではない。
命を奪うことこそが、私の本質。
「……見事な身のこなしだ」
突如として背後からかけられた声に、私の心臓が跳ねた。
——気配に気づかなかった?
否。相手が一切の殺気を持たず、あまりに「自然」にそこにいたからだ。
私は瞬時に指の間の鍼を袖口に隠し、表情を「聖女」へと切り替える。
「あら……クロード様。こんな時間に、どうなさいましたの?」
振り返ると、そこには白銀の鎧を脱ぎ、軽装の訓練着を纏ったクロードが立っていた。
金の瞳が、月光の下で怪しく光っている。
「見回りの最中、中庭に人影が見えたものでな。……まさか、聖女様だとは思わなかった」
クロードがゆっくりと歩み寄ってくる。
その歩幅、重心の移動。
やはりこの男、ただの騎士ではない。
戦士としての本能が、彼を警戒対象として再認識させる。
「夜風がとても気持ちよかったですから。つい、少しだけ体を動かしたくなってしまいましたの。……変でしたかしら?」
私は少しだけ困ったように眉を下げ、首を傾げて見せた。
無垢な少女が、夜中にこっそり踊っていただけ。
そういう「体」で、私は微笑みかける。
だが、クロードの瞳は笑っていなかった。
彼は私が先ほどまで立っていた場所、そして私の足跡をじっと見つめている。
「……あれは、"踊り"なんかじゃない」
クロードが低く呟いた。
その声には、隠しきれない困惑と、鋭い追及の響きがあった。
「聖女様の動きには、無駄が一切なかった。まるで、獲物の喉元を狙う……」
「まあ、クロード様ったら」
私は鈴を転がすような声で笑い、彼の言葉を遮った。
これ以上、踏み込ませるわけにはいかない。
「本の挿絵にあった、昔の舞踏のステップを真似てみただけですわ。やはり、騎士様から見れば滑稽に見えてしまいましたのね。お恥ずかしい……」
顔を赤らめ、俯いて見せる。
「秘密の練習を見られて恥ずかしがる少女」という完璧な演技。
クロードは何かを言いかけ、しかし唇を噛んで黙り込んだ。
「……失礼いたしました。余計なことを申しました」
クロードは深く頭を下げた。
「ですが聖女様。夜は冷えます。それに、何が起きるかわかりません。……今後は、外へ出られる際は私に一声かけてください。あなたの身に何かあっては、取り返しがつかない」
「ええ。お気遣い、感謝いたしますわ」
私は優しく頷き、彼の横を通り過ぎて王宮へと戻り始めた。
背中に、クロードの熱い視線が刺さっているのがわかる。
——危なかった。
——あの一瞬の動きだけで、ここまで察してくるとは。
やはり、この男は危険だ。
私の「正体」に最も近い場所にいる、鋭利な刃。
だが同時に、彼は私の護衛として、この上なく頼もしい存在でもある。
部屋に戻り、一人になった私は窓から月を見上げた。
——聖女様、あなたは一体、何者だ?
クロードが最後に心の中で呟いたであろうその問いが、静寂の中に響いている気がした。
私の仮面が剥がれるのが先か、それとも私がこの国を救うのが先か。
「……ふふっ。さて、明日は誰を"治療"しましょうか」
銀髪の聖女は、暗闇の中でそっと唇の端を吊り上げた。
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