第7話 神殿長フェリクスの誘い
「聖女リーゼロッテ様。神殿長フェリクス様がお見えでございます」
メルの少し緊張した声が、自室の扉越しに響いた。
「ええ、すぐにお通しして」
鏡の前で前髪を整え、完璧な「慈愛の微笑み」を顔に貼り付ける。
扉が開き、優雅な足取りで入ってきたのは、金髪の美しい青年だった。
大神殿の最高位聖職者、フェリクス・ヴォルフガング。
豪奢な法衣に身を包んだ彼は、神の使いのように清らかな笑顔を浮かべている。
「リーゼロッテ様。本日はあなたに、特別な祝福をお授けしたく参りました」
柔らかく、甘い声。
普通の十五歳の少女なら、この顔と声だけで頬を赤らめるだろう。
だが、私の内心の警報器は、彼が部屋に入ってきた瞬間から鳴りっぱなしだった。
——蛇だ。
——美しい鱗で着飾っているが、中身は獲物を丸呑みにしようとする大蛇。
「まあ、特別な祝福……? 光栄ですわ、フェリクス様」
私は両手を胸の前で組み、純真無垢な少女を演じ切る。
案内されたのは、聖域の最奥にある豪奢な祈祷室だった。
色鮮やかなステンドグラスから、午後の光が差し込んでいる。
護衛のクロードやメルの立ち入りは許されず、部屋には私とフェリクスの二人きりだ。
「さあ、祭壇の前へ」
促されるままに進み出ると、ふわりと甘い香りが鼻をくすぐった。
香炉から立ち昇る煙。
ただの香木ではない。微かにだが、精神を弛緩させる作用のある薬草がブレンドされている。
——なるほど。そういうことか。
フェリクスが私の背後に立ち、そっと両肩に手を置いた。
「リーゼロッテ様。王宮での生活はいかがですか?」
「皆様とても親切で、毎日が充実しておりますわ」
「それは重畳。しかし……宰相マルクスにはお気をつけなさい。彼は神を畏れぬ俗物。あなたの神聖な力を、政治の道具として利用しようと企んでいます」
耳元で、甘く、しかし強い暗示をかけるように囁かれる。
「あなたを本当に理解し、お守りできるのは、神の僕である我々神殿だけなのです」
——この手口は前世で何度も見た。
——洗脳の初期段階だ。
孤立感を煽り、特定の相手を「敵」だと認識させる。
そして自分だけが「絶対的な味方」であると思い込ませ、精神的に依存させる。
カルト宗教や、前世の裏社会の組織が若者を支配する時によく使う、古典的だが極めて有効な手法だ。
「フェリクス様……」
私は少しだけ不安そうな顔を作り、肩を震わせた。
「私、どうすればいいのでしょう。ただ祈るだけの私に、何ができるのか……」
「ご安心なさい。あなたはただ、私を——神の導きを信じればいい」
フェリクスの手が、私の髪を優しく撫でる。
ぞわり、と肌が粟立つが、それを「感動の震え」に見せかける。
「あなたは特別な存在です、リーゼロッテ様。歴代のどの聖女よりも美しく、素晴らしい器をお持ちだ」
「そんな……私なんて、まだまだ未熟ですわ」
私は上目遣いで、純真な瞳を彼に向けた。
「前代の聖女様は、とても素晴らしい方だったと聞いておりますのよ? 私がその代わりを務められるかどうか……」
その瞬間だった。
フェリクスの優しげな瞳の奥に、一瞬だけ泥のような暗い感情がよぎった。
私を撫でていた指先が、ピクリと止まる。
「……いいえ」
フェリクスの声が、わずかに冷たさを帯びた。
「あなたは前代の聖女などとは比べ物にならない。彼女は……『不適格』でしたから」
——不適格。
私の脳内で、その言葉が鋭く反響した。
公の記録では、前代の聖女は「不治の病で倒れた悲劇の聖女」として扱われている。
それなのに、大神殿のトップである彼が、前任者を「不適格」と切り捨てた。
「不適格……なのですか?」
私は怯えた小鳥のような声で問い返した。
「お気になさらず。彼女は神の意志を完全に体現するには、少々心が弱かったのです」
フェリクスはすぐにいつもの温和な笑顔を取り戻し、私の肩から手を離した。
「しかし、あなたは違う。あなたは必ずや、神の奇跡をこの国に……いや、世界に示されるお方だ」
「はい……! 私、フェリクス様のお言葉を信じますわ!」
私は目を輝かせ、深い信仰心に満ちた聖女を完璧に演じきった。
フェリクスは満足そうに頷き、祈祷室を出ていく。
——チョロい。
——完全に私が依存し始めたと、勘違いしてくれたようだ。
一人残された祈祷室で、私はゆっくりと表情を消した。
ステンドグラスの光が、私の銀髪を冷たく照らしている。
「不適格」か。
宰相派が暗殺を企てたのかと思っていたが、神殿側も一枚岩ではないらしい。
いや、むしろ神殿こそが、前代聖女の「処分」に深く関わっている可能性が高い。
——『不適格』——お前たちが殺したのか? それとも、殺させたのか?
どちらにせよ、私の命を狙う理由としては十分すぎる。
私が彼らの思い通りに動く「都合のいい操り人形」でなくなった瞬間、私も『不適格』の烙印を押されるわけだ。
「ふふっ」
誰もいない祈祷室で、私は小さく笑い声を漏らした。
腹の探り合い。騙し合い。背後からの刃。
前世で嫌というほど味わってきた、血生臭い世界。
——上等だ。
私の命を狙うというのなら、容赦はしない。
表向きは可愛らしい聖女のまま、裏で全員の首を刎ねてやる。
そのためにも。
「……少し、体が鈍っているわね」
私は自分の細い腕を見つめた。
平和な王宮生活で、前世の暗殺者としての「勘」がわずかに眠りつつある。
いざという時に動けなければ、この伏魔殿では生き残れない。
——今夜あたり、少し汗を流すとするか。
私は確かな情報を手に入れた余裕とともに、新たな計画を胸に秘めた。
その夜、月明かりの下で誰かに見られることになるとも知らずに。
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