第44話 告白
パチッ、と。
赤々と燃える焚火の爆ぜる音が、夜の荒野に静かに響いた。
冷たい夜風が吹き抜ける中、私とクロードは丸太の上に並んで腰を下ろしていた。
周囲の天幕からは、手当てを終えて眠りについた王国軍の兵士たちの、静かな寝息だけが聞こえてくる。
私の手は、クロードの大きく温かい両手で、大切に包み込まれたままだった。
その心地よい温もりに、少しだけ泣きたくなるような感情を覚えながら、私はゆっくりと彼の拘束から自分の手を引き抜いた。
「……リーゼ?」
空になった手のひらを見て、クロードが不思議そうに私を見つめる。
その真っ直ぐで濁りのない金色の瞳を見返すのは、今の私には酷く勇気がいることだった。
「クロード。……あなたは、私を『神に選ばれた無垢な聖女』だと思って、ずっと命懸けで守ってきてくれましたね」
私は膝の上で両手をきつく握りしめ、ぽつり、ぽつりと語り始めた。
「でも、それは違います。私は、あなたやメル、この国の人々が信じているような、清らかな存在ではありません」
私の言葉に、クロードは何も言わず、ただ静かに耳を傾けている。
私は一度深く息を吸い込み、決して開けてはならなかった、私自身の過去の扉を開け放った。
「私は——前の世界で、人を殺すことを生業にしていた女です」
静寂。
焚火の炎が、風に揺れて影を落とす。
「私は幼い頃に裏社会の組織に拾われ、感情を殺し、ただ命令に従って標的を始末するだけの『道具』として育てられました」
「……」
「この世界に転生してからも、同じです。私の本質は、癒し手なんかじゃない」
私は自嘲するように、薄く笑った。
「初めて私が暗殺未遂を受けた夜、毒を仕込んだ下女の腕を折ったのは私です」
「辺境への道中で襲ってきた暗殺者を始末したのも、森の奥で魔獣の急所を射抜いたのも……」
「そして今日、帝国の指揮官たちを毒針で殺したのも、すべて私ですわ」
言葉にするたびに、自分の手がどれほど血に塗れているかを突きつけられるようだった。
聖女の仮面の下に隠していた、醜く、残酷な真実。
私は神の代弁者などではない。ただの、冷酷な人殺しだ。
「私の治癒魔法は、人の体を治すためだけにあるわけじゃない。……命を奪うための構造を知り尽くしているからこそ、それを逆算して治せるだけ」
震える声で、私は最後に決定的な言葉を口にした。
「私の手は、たくさんの命を奪ってきた、汚れた手です。……あなたのような誇り高い騎士が、守る価値などない女なの」
すべてを話し終え、私はぎゅっと目を閉じた。
彼が私を突き飛ばすか、あるいは軽蔑の言葉を吐き捨てるのを待った。
「騙していたのか」と、あの温かかった瞳に嫌悪の色が浮かぶのが、何よりも怖かった。
だが。
長い、長い沈黙の後。
「……知っていましたよ」
静かな声が、頭上から降ってきた。
「え……?」
恐る恐る目を開けると、そこには、いつものように穏やかで、ただひたすらに優しいクロードの顔があった。
「……ずっと前から、気づいていました。あなたが、ただの聖女ではないことに」
クロードは再び私の手を引き寄せ、今度は先ほどよりも強く、しっかりと握りしめた。
「死角を全く作らない、洗練された立ち姿。辺境の森で見せた、あの恐るべき暗器の投擲。……剣を振るう者なら、あなたの動きがどれほどの死線を潜り抜けてきた『戦士』のものか、わからないはずがない」
「なら、どうして……!」
私が問い返すと、クロードは私の冷たい指先を、自分の頬にそっと押し当てた。
「あなたの手は、確かに人を殺してきた手なのかもしれない」
彼の言葉に、私の肩がビクッと跳ねる。
だが、彼が紡いだ次の言葉は、私の心を縛り付けていた鎖を、粉々に打ち砕くものだった。
「でも——その手が俺を、メルを、この国を守ってくれた。……俺には、それだけで十分です」
「……っ」
「あなたが前の世界でどんな罪を背負っていたとしても、俺が出会ったリーゼという女性は、誰よりも深く傷つきながら、それでも誰かを守るために戦う、強くて優しい人でした」
クロードの金色の瞳が、真っ直ぐに私の魂の奥底を射抜く。
「俺は、過去の幻影ではなく、今目の前にいるあなたを愛しています。……あなたの抱える闇ごと、すべてを俺に背負わせてください」
その瞬間。
私の中で、絶対に崩れることのないと思っていた『ファントム』としての氷の壁が、音を立てて崩れ去った。
ああ、私は。
この人に、見つけてほしかったんだ。
聖女という綺麗な仮面ではなく、血に塗れた醜い私自身を。
それでも「守りたい」と、言ってほしかったんだ。
「……っ、う……ぁ……」
視界が、急激にぼやけていく。
前世でどんな過酷な拷問を受けても、仲間が目の前で死んでも、決して流すことのなかった涙。
暗殺者には不要だと切り捨てていたその雫が、とめどなく溢れ出し、私の頬を伝って零れ落ちた。
「クロード……わたしっ……!」
私は子供のように声を上げて泣きじゃくりながら、彼の広い胸に顔を埋めた。
クロードは何も言わず、私の震える背中を、大きな手で何度も、何度も優しく撫でてくれた。
前世で抱えたすべての罪と孤独が、彼の温もりの中で溶けていく。
初めて、私は「殺し屋としての自分」を許された気がした。
*
どれくらいの時間が経っただろうか。
私がようやく涙を止め、彼の腕の中で小さく息をついた時。
「——ブォォォォォォ……!!」
地平線の彼方から、腹の底を震わせるような重く悍ましい角笛の音が鳴り響いた。
ハッとして空を見上げると、夜の闇が白み始め、東の空が紫色に染まりかけている。
夜明けだ。
皇帝ルドヴィークの魔力が、完全に定着する「その時」が来てしまったのだ。
「……始まりますね」
クロードが立ち上がり、腰の剣に手をかけた。
周囲の天幕から、角笛の音で跳ね起きた王国軍の兵士たちが次々と飛び出してくる。
誰もが、遠く地平線にそびえ立つ、赤黒い瘴気を放つ巨大な城塞を見て、息を呑んでいた。
「リーゼ様!」
メルも武装を整え、私たちの元へと駆け寄ってくる。
私は、自分の頬に残っていた涙の跡を袖で乱暴に拭い去った。
(——もう、迷いはない)
私は殺し屋だ。
でも、同時にこの国を守る「聖女」でもある。
私の愛する人たちを、私の居場所を理不尽に奪おうとする病巣は、私のすべてを懸けて根こそぎ切除する。
私はクロードの方を向き、彼に向けて、かつてなく美しく、そして不敵な笑みを浮かべた。
「クロード、メル。……行きましょう」
私は純白の法衣を翻し、朝日が昇り始めた荒野の先——最悪の怪物(皇帝)が待つ玉座へと視線を向けた。
「——これが、私たちの最後の戦いですわ」




