第43話 決戦前夜
「皆様、本日は本当にお疲れ様でしたわ。どうか、今はゆっくりとお休みになって」
血と泥と硝煙の匂いが立ち込める野営地。
仮設の治療用天幕の中で、私は最後の負傷兵に癒しの光を施し終えた。
淡く温かな聖光魔法の輝きが、兵士の深くえぐられた傷を塞ぎ、痛みを拭い去っていく。
痛みに呻いていた兵士の顔に安堵の色が浮かび、やがて静かな寝息へと変わった。
「聖女様……。ご自身もお疲れでしょうに、本当にありがとうございます」
「もったいないお言葉です。聖女様の奇跡があれば、我らは明日も戦えます」
周囲で休む兵士たちが、私に向かって深く祈りを捧げる。
私は彼らに完璧な慈愛の微笑みを向け、静かに天幕を後にした。
(——よし。これで重篤な患者の処置はすべて完了ね。魔力の消費量は予想の範囲内。明日の決戦に向けてのストックは十分に確保できているわ)
私は顔の筋肉を緩め、暗殺者としての冷徹な思考へと切り替える。
外に出ると、荒野の空はすでに深い夕闇に包まれていた。
地平線の彼方には、皇帝ルドヴィークが創り出した赤黒い巨大な城塞が、不気味なシルエットとなってそびえ立っている。
「リーゼ様!」
パタパタと軽い足音を立てて、メルが駆け寄ってきた。
彼女の服もあちこちが汚れ、小さな擦り傷ができているが、その表情はかつてなく引き締まっている。
「メル。見張りの任務、ご苦労様でしたわ」
「はいっ! 帝国軍の残党が近づかないよう、周囲の警戒は万全です。……あの、リーゼ様のお怪我はありませんか?」
心配そうに見上げてくる彼女の頭を、私は優しく撫でた。
「ええ、私は無傷ですわ。メルこそ、今日の戦いぶりは本当に見事でしたよ。私の誇りです」
「……っ! ありがとうございます!」
メルは顔を真っ赤にして、照れくさそうに笑った。
(——隠密歩法からの急所攻撃、すっかり板についてきたわね。私が教え込んだとはいえ、あの純朴だった侍女がここまで立派な『ナイフ』に育つとは。……少しだけ、罪悪感がないわけじゃないけれど)
彼女には、血塗られた道を歩ませたくなかった。
だが、この狂った戦争の中では、自分の身を守る術を持つことが何よりの救いになる。
「メル、今夜は少し休んで頂戴。明日は一番過酷な戦いになりますから」
「はい。リーゼ様も、どうかご無理をなさらないでくださいね」
メルが自分の天幕へと戻っていくのを見届けた後、私は野営地の外れにある岩陰へと歩を進めた。
見張りの視界から完全に外れた死角。
そこには、闇に溶け込むようにして立つ灰色の髪の男がいた。
「——ずいぶんと侍女に慕われているのですね、極上の殺し屋殿」
帝国暗部「黒牙」のヴィクトル。
彼は腕を組み、紫の瞳で私を見下ろしていた。
「あら。立ち聞きとは趣味が悪いですわよ、ヴィクトル様」
「暗殺者にとって、情報収集は息をするのと同じですからね」
ヴィクトルは皮肉げに笑い、懐から丸めた羊皮紙を取り出して私に投げ渡した。
「明日の舞台……あの悪趣味な城塞の内部構造図です。皇帝の側近から引き出した情報をもとに、私が加筆しておきました」
私は羊皮紙を受け取り、月明かりを頼りに素早く目を走らせる。
「……なるほど。土塊と死体で強引に構築されただけあって、魔力回路の配置がひどく歪ね。これなら、外壁を破るよりも地下の通気穴から侵入した方が早そうだわ」
「ご名答。ですが、玉座の間へ至る経路には、濃密な瘴気が充満しています。普通の人間なら数分で肺が腐り落ちるでしょう」
「私の聖光魔法で中和しながら進めば問題ないわ。……それより、皇帝の状態は?」
私の問いに、ヴィクトルの声が一段と低くなった。
「最悪ですよ。不老不死の儀式は不完全だったとはいえ、数千の命を取り込んだ肉体は、もはや人間という枠組みを超えている。物理的な攻撃で首を落としても、即座に再生するはずです」
「厄介ね。燃費の悪いバケモノとはいえ、正面から削り合うのは得策じゃない」
「ええ。だからこそ、夜明け前です。太陽が昇りきり、あの狂った魔力が完全に肉体に定着してしまえば、もはや誰にも止められなくなる。……仕掛けるなら、皇帝の魔力回路が最も不安定になる『夜明けの直前』しかありません」
ヴィクトルの言葉に、私は静かに頷いた。
「わかったわ。玉座への道案内、ご苦労様。……あなたはどうするの?」
「私は帝国へ戻り、皇帝不在の後の混乱を収める準備をします。……帝国を立て直すためにも、あの狂人はここで排除されなければならない。私の仕事はここまでです」
ヴィクトルは恭しく一礼し、闇の中へ一歩後退した。
「武運を祈りますよ。最強の同業者殿」
その言葉を残し、彼の気配は完全に夜の荒野へと消え去った。
(——さて。侵入ルートとタイムリミットは確定したわね。あとは、私自身の準備だけだわ)
私は野営地の中央、赤々と燃える大きな焚火の前へと戻った。
揺らめく炎を見つめながら、私は一人、丸太の上に腰を下ろす。
前世の記憶が、不意に脳裏をよぎる。
「ファントム」と呼ばれ、誰にも心を許さず、ただ任務のためだけに命を奪い続けた日々。
血の匂いと、冷たい銃鉄の感触。
あの頃の私には、守りたいものなど何一つなかった。誰かのために自分の命を懸けるなんて、馬鹿げているとすら思っていた。
だが、今は違う。
この手には、奪うための技術だけでなく、癒すための光がある。
そして何より、この背中を預けられる、不器用で真っ直ぐな騎士がいる。
「……リーゼ」
不意に、背後から低く穏やかな声がかけられた。
振り返ると、鎧を脱いで軽装になったクロードが、温かいお茶の入った木のマグカップを二つ持って立っていた。
「起きていらっしゃったのですか、クロード」
「ええ。あなたがまだ休んでいない気がして」
彼は私の隣に腰を下ろし、マグカップの一つをそっと手渡してくれた。
湯気から、仄かに甘い薬草の香りが漂う。
「ありがとうございます。……とても温かいですわ」
「夜は冷えますからね。少しでも、疲れが取れればいいのですが」
クロードの金色の瞳が、焚火の光を反射して優しく揺れている。
彼の大きな手には、今日の激戦でできた新しい切り傷や、無数の豆があった。
私を守るため、そしてこの国を守るために、彼がどれほどの死線を潜り抜けてきたか、その手がすべてを物語っていた。
「クロード。少し、手を見せてくださいな」
「え? いや、こんな些細な傷、放っておいても……」
遠慮する彼の手を強引に引き寄せ、私は淡い光の魔力を流し込んだ。
傷口がみるみるうちに塞がり、荒れていた肌が綺麗になっていく。
「あなたはいつも、私の盾になって無茶ばかりします。……もっと自分を大切にしてくださいな」
「俺の命は、あなたを守るためにあります。それに……あなたが隣にいてくれるなら、どんな傷も痛みも感じません」
クロードは私の手から自分の手を離さず、逆に私の小さな手を、両手で大切そうに包み込んだ。
ドクン、と心臓が跳ねる。
彼の体温が、真っ直ぐすぎる思いが、私の内側にある分厚い氷の壁をゆっくりと溶かしていくのを感じた。
(——ああ。やっぱり、ずるい人)
この温もりを知ってしまったら、もう後戻りはできない。
明日は、皇帝との最終決戦。
私が生きて帰れる保証はどこにもないし、私が「暗殺者」としての本性を完全に解放すれば、彼がどう思うかはわからない。
だからこそ、今、伝えておかなければならない。
私が何者で、どんな業を背負っているのかを。
「……クロード」
私は彼の金色の瞳を、誤魔化すことなく真っ直ぐに見つめ返した。
聖女としての柔らかな微笑みでも、暗殺者としての冷徹な眼差しでもない。
ただの一人の人間としての、ありのままの表情で。
「ねえ、クロード。……今夜、私の本当の話を、聞いてくださる?」
静寂に包まれた夜の荒野。
焚火の爆ぜる音だけが響く中、私は、かつて一度も口にしたことのない「告白」の扉を開いた。




