第42話 偽りの聖女と最悪の怪物
「——消し飛べ、羽虫ども」
地平線の彼方から、地鳴りのような重低音が響き渡った。
次の瞬間、朝焼けの空がドス黒い赤に染まる。
皇帝ルドヴィークの全身から放たれた異常な魔力が、巨大な濁流となって、私たちの防衛線へと真っ直ぐにうねり迫ってきたのだ。
「全軍、伏せろォォッ!」
クロードの絶叫が響く中、私は前に進み出て、両手を大きく広げた。
「大結界!!」
純白の光の壁が、野営地全体を覆い隠すように展開される。
直後、赤黒い魔力の濁流が結界に激突した。
ギィィィィィンッ!!
ガラスを爪で引っ掻くような、耳を劈く不快な轟音。
私の張った光の壁にヒビが入り、凄まじい衝撃波が王国軍の兵士たちを地面に叩きつけた。
「くっ……!」
私は足を踏ん張り、結界の維持に全魔力を注ぎ込む。
なんという暴力的な質量。
これが、自らの親衛隊数千名の命を魔力に変換し、強引に取り込んだ「偽りの聖女」の力。
(——でも、ただの破壊魔法じゃないわね。この魔力の性質は……)
結界越しに伝わってくる魔力の波長を、私は暗殺者としての冷徹な思考で分析していた。
燃やし尽くすような炎でも、切り裂く風でもない。
それは、細胞を強制的に増殖させ、生命の形を歪める「呪われた治癒」だった。
「……耐え凌いだか。小賢しい聖女め」
濁流が晴れた後、荒野の向こうから皇帝ルドヴィークが悠然と歩みを進めてくるのが見えた。
彼の足元では、赤黒い魔力に当てられた大地が異様に隆起し、枯れた木々が不気味な形に捻じ曲がりながら急成長を遂げている。
「聖女様、あれを……!」
メルが震える声で指差した。
皇帝の背後から、数千の兵士たちが姿を現す。
だが、彼らはもはや人間ではなかった。
皇帝の放った「呪われた治癒」の魔力を浴び、肉体が異常に膨張し、鎧を突き破って醜悪な筋肉の塊と化した異形の怪物たち。
命を限界まで暴走させられた、痛覚を持たない生体兵器。
それが、ルドヴィークの創り出した新しい軍団だった。
「さあ、蹂躙の時間だ。余の不死の軍勢よ、あの目障りな光を喰らい尽くせ」
皇帝が手を振ると、異形の軍団が獣のような咆哮を上げて一斉に突撃してきた。
「ひ、ひぃぃっ……!」
「あんなバケモノ、剣が通用するのか……!?」
王国軍の兵士たちが、恐怖に後ずさる。
無理もない。相手は人間の形をした悪夢だ。
だが、王国最強の騎士は、決して絶望に呑まれたりはしなかった。
「退くな!! ここを突破されれば、背後の王都が火の海になるぞ!」
クロードが、白銀の剣を天高く掲げた。
その背中は、誰よりも大きく、そして頼もしかった。
「俺が道を切り拓く! 続けェェェッ!!」
クロードが単騎で異形の群れへと突撃する。
彼の剣閃が光を帯び、最前列の怪物の巨体を真っ二つに両断した。
「グルァァァッ!?」
両断された怪物が崩れ落ちる。
だが、傷口から赤黒い肉芽が蠢き、瞬く間に再生を始めようとしていた。
「——治癒の光よ、不浄なる再生を浄化したまえ!」
私が後方から放った光の矢が、再生しかけた怪物の傷口を正確に射抜く。
「聖光魔法」による、魔力結合の強制切断。
皇帝の歪んだ治癒能力を、私の純粋な回復魔法で相殺し、再生を完全に封じたのだ。
「お見事です、リーゼ!」
「クロードこそ! そのまま押し込んでくださいな!」
クロードが肉体を斬り裂き、私がその再生を封じる。
私たちの連携は、戦場という極限状態の中で、かつてなく完璧に噛み合っていた。
(——怪物の再生能力の起点は、心臓と延髄の二箇所。皇帝から伸びている魔力の供給線を断ち切れば、ただの脆い肉塊よ)
私は戦場全体を俯瞰し、指揮を執った。
「弓兵部隊! 敵の首の後ろ、赤い斑点がある場所を一斉射撃!」
「メル! 倒れた敵の関節に、私が渡した痺れ薬を打ち込みなさい!」
「はいっ!」
私の的確な指示と、クロードの圧倒的な突破力。
それに呼応するように、恐怖に怯えていた王国軍の兵士たちも息を吹き返し、陣形を立て直して反撃を開始した。
「おおおぉぉぉッ!」
激しい乱戦。
私は前線で回復魔法を振りまきながら、法衣の袖から無数の隠し針を放ち、怪物の魔力供給線を次々と切断していく。
(……皇帝の力は圧倒的だけど、燃費が悪すぎるわね。数千の命を取り込んだとはいえ、コントロールが全く追いついていない)
暗殺者としての私の目は、皇帝の力の「底」を完全に見透かしていた。
不老不死などと嘯いているが、所詮は他人の命を無理やり詰め込んだだけのハリボテだ。
私の「心臓」というオリジナルのコアがなければ、あの力はいずれ自壊する。
「……小癪な真似を」
戦場の奥深くで、皇帝ルドヴィークが忌々しげに顔を歪めた。
彼の創り出した不死の軍団が、王国軍の連携と私の魔法によって、確実に数を減らしているからだ。
「ならば、余自らが貴様の首を刎ねてやろう」
ルドヴィークが大地を蹴った。
その瞬間、彼の巨体が砲弾のような速度で戦場を駆け抜け、真っ直ぐに私のもとへ迫ってきた。
「リーゼ! 危ないッ!」
クロードが私の前に飛び出し、大剣で皇帝の拳を受け止める。
ドゴォォォォンッ!!
鋼と鋼が激突したような凄まじい衝撃音。
クロードの足元の地面がクレーターのように陥没し、彼が苦悶の声を漏らす。
「がはっ……!」
「ほう。余のの一撃を防ぐとは。王国にも少しは骨のある騎士がいるらしいな」
皇帝が残酷に笑い、さらに力を込める。
クロードの白銀の鎧が軋み、彼の口から一筋の血が流れた。
「クロード!!」
私は咄嗟に彼の背中に手を当て、限界まで練り上げた聖光魔法を流し込んだ。
身体強化と治癒の同時展開。
私の魔力によって底上げされたクロードが、雄叫びを上げて皇帝の拳を弾き返した。
「おおおおぉぉぉッ!!」
「チッ……!」
弾き飛ばされた皇帝が、空中で体勢を立て直して距離を取る。
「……どうやら、少し時間をかけすぎたようだな」
皇帝が忌々しげに空を見上げた。
太陽が真上に差し掛かろうとしている。
本来なら、正午に儀式を完了させて完全な不老不死となるはずだった彼にとって、私たちが三つの起点を潰したことによる魔力の「歪み」が、限界に達しつつあるのだ。
「今日のところは、この辺りにしておいてやろう。……だが、明日の夜明け、余は完全な力を取り戻す」
ルドヴィークが右手を掲げると、彼と残存する異形の軍勢の足元から、巨大な赤黒い壁がせり上がってきた。
それは周囲の土や岩、さらには死体をも巻き込んで構築された、グロテスクな巨大な城塞。
「さあ、来るがいい聖女よ。我が玉座へ。貴様の心臓を、自ら余に捧げに来るが良い」
巨大な城塞の門が閉じられ、皇帝の姿が闇の中へと消えていく。
静寂が戻った荒野。
残されたのは、血と硝煙の匂い、そして不気味にそびえ立つ皇帝の城塞だけだった。
「……退けましたわね」
私が小さく息を吐くと、クロードが安堵したようにその場に膝をついた。
「はい。……ですが、これは明日の決戦への猶予に過ぎない」
「ええ。わかっていますわ」
私は城塞を見据え、静かに決意を固めた。
明日の夜明け。皇帝の力が完全に定着する前に、あの城塞に乗り込み、ルドヴィークの首を刎ねる。
それが、私の最後の暗殺任務。
(……その前に。クロードには、ちゃんと話しておかないといけないわね)
私は彼の方を振り返り、夕闇が迫る空の下で、小さく微笑んだ。
今夜、私は彼に、私の抱える最も深い闇を明かすつもりだった。




