第41話 暁の帰還
「——くっ、押し返せ! 陣形を崩すな!」
火の粉が舞い散る王国軍の野営地に、クロードの悲痛な号令が響き渡っていた。
静寂に包まれていた夜は、突如として地獄へと変わった。
皇帝ルドヴィークが放った夜襲部隊。
それは単なる先遣隊ではなく、帝国の本隊から切り離された精鋭と、暗部「黒牙」の混成部隊だった。
「聖女様の天幕を死守しろ! 奴らの狙いはそこだ!」
クロードは白銀の鎧を黒い血で汚しながら、最前線で剣を振るい続けていた。
彼の周囲には、すでに数十の帝国兵の屍が山を築いている。
だが、敵の数は圧倒的だった。
倒しても倒しても、闇の奥から新たな兵士が湧き出してくる。
「ハァッ……!」
天幕のすぐ入り口では、メルが短剣を両手に構えて立ち塞がっていた。
彼女はリーゼから教わった隠密歩法を駆使し、死角から迫る暗殺者たちの首を次々と刈り取っていく。
かつてのドジな侍女の面影はない。今の彼女は、聖女を守る立派な「刃」だった。
「小賢しい小娘が……! 邪魔だ、退け!」
重装甲に身を包んだ巨漢の帝国将校が、メルに向かって巨大な戦斧を振り下ろす。
「きゃあっ!」
メルは間一髪で避けたものの、その風圧で弾き飛ばされ、地面を転がった。
「メル!」
クロードが助けに入ろうとするが、五人の暗部が彼に纏わりつき、足止めを食らってしまう。
「これで終わりだ、王国軍! 聖女の首は我らがいただく!」
将校が勝ち誇ったように笑い、メルの頭上へ再び戦斧を振り上げる。
クロードの悲痛な叫びが、夜空に空しく響いた。
(——やらせるもんですか)
その瞬間。
野営地の入り口から、一条の純白の閃光が放たれた。
「光よ、我が大切な者たちを守る絶対の盾となれ! 絶対防壁!!」
メルの頭上に、分厚い光の結界が展開される。
将校の振り下ろした戦斧は、結界に触れた瞬間に「ギィィィンッ!」という甲高い音を立てて弾き飛ばされ、その衝撃で将校自身の腕の骨が砕け散った。
「ぐああああッ!?」
悲鳴を上げて後ずさる将校。
「——夜分遅くに騒がしいですわね。患者の皆様の睡眠を妨げるのは、感心いたしませんわ」
静まり返った戦場に、冷たく、そしてどこまでも透き通った少女の声が響いた。
闇の中からゆっくりと歩み出てきたのは、銀髪を夜風に揺らす、純白の法衣の聖女。
私だった。
「リーゼ様……!」
メルが涙ぐみながら私の名前を呼ぶ。
「遅くなってごめんなさいね、メル。……クロードも、よく持ち堪えてくれましたわ」
私は彼らに向かって慈愛の微笑みを向けた後、ぐるりと周囲の帝国兵たちを見渡した。
「せ、聖女だ……! なぜこんな所に!」
「別働隊が仕留めたはずでは……!?」
動揺する帝国兵たち。
私は彼らに向かって、ゆっくりと右手を掲げた。
(——私の居場所を、私の大切な人たちを、よくも傷つけてくれたわね)
聖女の微笑みの下で、私の内奥にある暗殺者としての「殺意」が、かつてないほど冷たく、鋭く研ぎ澄まされていく。
「癒しの光よ、迷える魂を導きたまえ」
私が祈りの言葉を紡ぐと同時、戦場全体を覆うほどの強烈な閃光が炸裂した。
「目眩まし」の光魔法。
帝国兵たちが一斉に視界を奪われ、苦悶の声を上げる。
その光の洪水の中で、私だけが音もなく動いた。
(——右前方に三人、左の天幕の陰に四人、クロードの周囲に五人)
私は気配遮断のスキルを全開にし、戦場を滑るように駆け抜ける。
手には、ガレノス様特製の即効性麻痺毒を塗った無数の隠し針。
手首のスナップだけで、次々と針を投擲していく。
音もなく放たれた死の針は、光に目を眩ませている帝国兵たちの首筋や関節の隙間に、寸分の狂いもなく吸い込まれていった。
「がっ……」
「な、にが……体が……」
瞬く間に、二十人近い帝国兵が糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる。
光が収まった時、そこに立っていたのは、返り血一つ浴びていない私の姿と、地面に転がる無数の敵兵だけだった。
「ば、化け物……! 撤退だ! 態勢を立て直せ!!」
生き残った帝国兵の指揮官が、恐怖に顔を引き攣らせて叫んだ。
その声に従い、夜襲部隊は蜘蛛の子を散らすように闇の中へと逃げ去っていく。
「追わなくて結構ですわ! 負傷者の治療を最優先に!」
私の凛とした声が響き、王国軍の兵士たちは我に返ったように歓声を上げた。
「聖女様が、お戻りになられたぞ!」
「我らの勝利だ! 奇跡の光が敵を打ち払った!」
安堵と歓喜の声が野営地を包み込む。
私は小さく息を吐き、法衣の袖口に隠し針を仕舞い込んだ。
「……遅いですよ、リーゼ」
血濡れの剣を鞘に収めながら、クロードが私のもとへ歩み寄ってくる。
その顔は疲労で蒼白だったが、金色の瞳には安堵の光が宿っていた。
「ごめんなさい、クロード。少し、お散歩が長引いてしまって」
私が小首を傾げて微笑むと、彼は力強く私を抱き寄せた。
「……無事で、本当によかった」
「クロード……」
鎧越しの温もり。
前世では決して知ることのなかった、誰かに心から心配され、帰りを待ってもらえるという幸福感。
「リーゼ様ぁぁっ!」
そこへメルも泣きながら飛び込んできて、私たちは三人で抱き合った。
(——勝ったわ。起点を潰し、夜襲も退けた)
だが、完全に安心することはできない。
空が白み始め、夜明けの光が荒野を照らし始めたその時だった。
「……感動の再会に水を差して申し訳ないが」
野営地の外れ、岩の陰からスッと現れたのは、灰色の髪の暗殺者。
帝国暗部「黒牙」のヴィクトルだった。
クロードが即座に剣の柄に手をかけるが、私は彼を制した。
「大丈夫ですわ。彼は、今は『こちら側』の人間ですの」
私の言葉に、ヴィクトルは自嘲するように肩をすくめた。
「見事な手際でしたよ、聖女様。あなたが三つの起点を潰してくれたおかげで、皇帝の不老不死の儀式は不完全なものになった」
「でしょうね。……で、本題は?」
私が冷たく促すと、ヴィクトルは紫の瞳を細め、かつてなく険しい表情を浮かべた。
「皇帝ルドヴィークは、不完全ながらも術式を強制的に起動しました」
ヴィクトルの言葉に、周囲の空気が凍りつく。
「十万の兵の命を全て吸い上げることはできなかった。だが……自身の親衛隊数千名の命を魔力に変換し、己の肉体に取り込んだのです」
「……数千人の命を、自分のためだけに?」
クロードが信じられないというように呟く。
「ええ。今の皇帝は、人間ではありません。無尽蔵の魔力と、決して死なない肉体を持った……『偽りの聖女』にして、最悪のバケモノです」
ヴィクトルはそう言って、地平線の彼方を指差した。
朝焼けに染まる空の下。
土煙を上げて、巨大な軍勢がこちらに向かって進軍してくるのが見えた。
先頭を歩くのは、もはや騎馬車にすら乗っていない。
自らの足で大地を踏み鳴らし、全身から赤黒い魔力のオーラを立ち昇らせている、巨大な赤い髪の男。
「さあ、最終決戦の始まりですわ」
私は聖女の微笑みを完全に捨て去り、前世の「ファントム」としての冷徹な眼差しで、迫り来る皇帝を睨みつけた。




