第40話 キメラの森
「……グルルルルルッ!」
腐臭を放つ異形の怪物が、私に向かって跳躍した。
複数の兵士の死体と獣の肉を繋ぎ合わせたキメラ。巨体から放たれる質量と、理性を失った暴力が、私を圧殺しようと迫る。
「まあ。随分と乱暴な患者ですこと」
私は完璧な聖女の微笑みを浮かべたまま、その場から一歩も動かなかった。
(——体重はおよそ一トン。跳躍の軌道は直線的で、全く工夫がない。ただの力任せね。なら、カウンターの的としては最適だわ)
怪物の巨大な前足が、私の頭上から振り下ろされる。
その瞬間。
私は足元から聖光魔法の推進力を爆発させ、一気に怪物の懐へと潜り込んだ。
「治癒の光よ、深き傷を塞ぎたまえ!」
大声で祈りの言葉を紡ぎながら、私は右手に限界まで圧縮した光の魔力を纏わせる。
そして、怪物の胸元——複数の死体が雑に縫い合わされている急所へと、その右手を深々と突き立てた。
「ガアアァァッ!?」
怪物が絶叫を上げる。
当然だ。私の放ったのは、回復魔法の過剰投与による「細胞の強制暴走」。
死体をつなぎ止めていた術式が、光の魔力によって内側から破壊され、怪物の肉体がドロドロと崩壊し始めた。
「あらあら。お薬が効きすぎたかしら?」
私は崩れ落ちる怪物の肉片を優雅に避けながら、法衣の裾を軽く払った。
だが、安心するのはまだ早い。
(……一つだけじゃないわね)
森の奥から、ガサガサと木々を揺らす音が響く。
月明かりに照らされた闇の中から、同じようなキメラがさらに五体、姿を現したのだ。
どうやら、皇帝はこの第三の起点を守るために、相当な数の兵士を犠牲にしてこの化け物を作り出していたらしい。
「本当に……どこまでも胸糞の悪い男」
私の声から、聖女の甘い響きが消え去った。
前世で、組織に使い捨てられた子供たち。
そして今世で、皇帝の野望のために死体すら冒涜される兵士たち。
権力者の欲望のために、名もなき命が消費される構造。
(——許さない。この歪んだ病巣は、私が今夜ここで完全に断ち切る)
私は両手に隠し持っていた暗器——細いワイヤーのついた特殊な投擲剣を構えた。
前世で「ファントム」と呼ばれた私が、多人数を相手にする時に愛用していた武装だ。
「さあ、おいでなさい。……まとめて"治療"してあげるわ」
五体のキメラが一斉に私に襲いかかる。
私はワイヤーを操り、森の木々を立体的に使って高速で移動した。
まるで夜の闇を舞う銀色の蝶のように。
キメラの突進を躱し、ワイヤーで足を絡め取り、聖光魔法を込めた刃で急所を確実に削り取っていく。
「ギャアアアッ!」
「グルルルルッ!」
森に響き渡る異形の断末魔。
私は一切の容赦なく、そして一切の無駄なく、怪物の命を刈り取っていった。
それはまさに、熟練の外科医が病巣を切り開くような、冷徹で完璧な「切除手術」だった。
数分の後。
私の足元には、五体のキメラの残骸が転がっていた。
息一つ乱さず、私は赤黒く光る魔石の前に立つ。
「これで、最後よ」
私は魔石に右手を当て、限界まで圧縮した光の魔力を流し込んだ。
ピキィィィンッ! という甲高い音とともに、第三の起点が粉々に砕け散る。
(……終わったわ。これで、皇帝の不老不死の儀式は不完全なものになる)
私は冷たい夜風に銀髪を揺らしながら、小さく息を吐いた。
夜明けが近づいている。早く野営地に戻らなければ、クロードが心配するだろう。
その時だった。
「——素晴らしい。実に素晴らしい舞踏だったぞ、小娘」
頭上から、地の底から響くような重低音が降ってきた。
私は咄嗟に後方へ跳躍し、声のした方向を睨みつける。
枯れ木の上に立っていたのは、一人の男。
燃えるような赤髪。隻眼。そして、圧倒的な暴力の気配。
皇帝ルドヴィーク。彼自身の「幻影」が、そこに立っていた。
「あら、皇帝陛下。……わざわざ幻影でのお出ましとは、随分と暇を持て余しておいでなのね」
私は聖女の微笑みを浮かべ、彼を真っ向から見据えた。
「フン。余の庭を荒らしたネズミの顔を、拝んでおこうと思ってな」
皇帝の幻影が、残酷に口角を吊り上げる。
「貴様が潰した三つの起点は、確かに余の儀式を遅らせるだろう。……だが、無意味だ。貴様が野営地を空けている間に、余の本隊が動き出しているのだからな」
「……何ですって?」
私は表情を崩さなかったが、内心で舌打ちをした。
(しまった。起点を潰されることを囮にして、本隊を夜襲に回したのね)
「貴様が戻る頃には、あの青臭い騎士も、王国の兵どもも、すべて灰になっているだろうよ」
皇帝の幻影が、嘲笑うように消え去っていく。
(……やらせないわよ)
私は踵を返し、全速力で野営地へ向かって駆け出した。
クロード。メル。
私の大切な「居場所」を、あんな狂人に奪わせるわけにはいかない。
「お願い、無事でいて……!」
私は初めて、聖女の仮面ではなく、私自身としての切実な祈りを口にしながら、夜明けの荒野を疾走した。




