第39話 闇夜の切除手術
「……メル、起きていますか」
私が音もなく自陣の天幕に戻り、声をかけると、毛布の山がもぞりと動いた。
「はいっ、聖女様……。いかがなさいましたか?」
目をこすりながら起き上がるメル。彼女は侍女でありながら、今や私がいちばん信頼を置く裏の相棒だ。
「少し、夜回りに行ってきますわ」
私はヴィクトルから受け取った羊皮紙の配置図をテーブルに広げた。
「皇帝が明日の正午に発動しようとしている禁術。その魔力を供給するための『起点』が、この荒野に三箇所設置されています。……これを、夜明けまでに全て物理的に破壊します」
私の言葉に、メルは一瞬で眠気を吹き飛ばし、真剣な表情で配置図を覗き込んだ。
「護衛は、帝国暗部の精鋭たちですね。私もお供します!」
「いいえ、メルにはここでお留守番をお願いしたいのです」
私は彼女の赤い髪を優しく撫でた。
「私が三つの起点を潰して回る間、天幕に私がいるように偽装してほしいの。クロードが不審に思ったら『聖女様は明日のために深い瞑想に入られている』と伝えてちょうだい」
あの真面目で不器用な騎士のことだ。私が単独で敵陣の奥深くへ潜入したと知れば、血相を変えて飛び出してくるだろう。
彼の剣は表の戦場でこそ輝く。血と泥にまみれた暗殺行は、私一人で十分だ。
「わかりました……。どうか、ご無事で」
「ええ。すぐに終わらせて戻りますわ。……ただの『お掃除』ですもの」
聖女の微笑みを残し、私は再び気配遮断のスキルを全開にして夜の荒野へと溶け込んだ。
*
第一の起点は、帝国軍の本陣から少し離れた岩山の洞窟にあった。
(——見張りは外に四人。中に十五人ってところね。全員、帝国暗部「黒牙」の狂信者)
岩肌に張り付きながら、私は冷徹に敵の戦力を分析する。
彼らの目つきは尋常ではない。皇帝の狂った儀式のために、自らの命すら喜んで投げ出すような、濁りきった目をしている。
「おい、異常はないか」
「ああ。こんな岩山に、王国の連中が近づけるはずもない」
油断しきった見張りたちの会話。
私は無音のまま、彼らの頭上、高さ五メートルほどの岩棚から飛び降りた。
ヒュッ——。
落下しながら、両手の指の間に挟んだ計四本の麻痺毒針を投擲する。
針は一切の軌道を見せず、四人の首筋にある急所へ正確に突き刺さった。
「がっ……!?」
「な、に……」
声を出させる隙も与えない。四人が糸の切れた操り人形のように崩れ落ちる前に、私は着地の勢いを利用して地面を蹴り、彼らの体を優しく受け止めて音を殺した。
(さて、残りは洞窟の中ね)
私は聖光魔法を微かに指先に灯し、洞窟の入り口に見えない「光の膜」を張った。
これは防壁としての結界ではない。「内側の音を外に漏らさない」ための、特殊な防音結界だ。
「……ん? 外の見張りが静かすぎないか?」
洞窟の奥で、巨大な赤い魔石を守っていた黒牙のリーダー格が怪訝な声を上げる。
その時、彼らの視界の端に、純白の法衣が揺れた。
「こんばんは。こんな深夜までお仕事なんて、不健康ですわね」
「なっ!? 聖女……!? なぜ、こんな所に!」
驚愕に目を見開く暗殺者たち。
「ええ。皆様がひどい熱病にうなされているようでしたから。永遠の眠りを処方して差し上げようと思いまして」
私が極上の微笑みを浮かべた瞬間、十五人の暗殺者が一斉に武器を抜いた。
だが、遅い。
「殺せ! 生け捕りにする必要はない!」
リーダーの号令とともに、数人が私に向かって飛びかかってくる。
私は一切の表情を崩さず、足元の砂を軽く蹴り上げた。
ただの砂ではない。魔力を込めて蹴り上げられた砂礫は、散弾銃のような威力を持って彼らの顔面を直撃した。
「ぐああッ! 目が……!」
怯んだ隙を見逃さず、私は彼らの死角へと滑り込む。
手刀で頸動脈を打ち据え、顎を正確に蹴り上げ、隠し持った暗器で手首の腱を切り裂く。
まるで流れるような、血の舞踏。
「光の御加護がありますように」と慈愛の言葉を口にしながら、私は一切の容赦なく彼らを無力化していく。
「ば、馬鹿な……これが、聖女の動きだと……!?」
仲間が次々と床に沈んでいく光景に、リーダーの男が恐怖に顔を引き攣らせた。
「バケモノめ……! ならば、この魔石ごと貴様を——」
男がヤケになり、背後の巨大な魔石に爆炎の魔法を放とうとする。
「——手元が、狂っておりますわよ」
私の声は、男の背後から響いた。
「なっ……」
彼が振り向くより早く、私の手刀が彼の延髄を正確に叩いていた。
白目を剥いて崩れ落ちるリーダー。
わずか数分。
洞窟の中は、完全に静まり返った。
私は赤い光を脈打たせる巨大な魔石に手を触れ、光の魔力を一点に極限まで圧縮して流し込んだ。
ピキッ、と音を立てて、魔力供給の起点が粉々に砕け散る。
(これで一つ目。大ざまぁ、というほどの相手でもなかったわね。……ただの害虫駆除だわ)
私は法衣の裾を払い、次の目的地へと向かうため、再び闇の中へ駆け出した。
*
第二の起点も、同じような手際で容易く沈黙させた。
皇帝は自身の兵力を過信しすぎている。十万の軍勢で囲んでいるからといって、個々の拠点の守りが完璧になるわけではない。
むしろ、大軍であるほど連携には隙が生まれる。その隙間を縫って内側から喰い破るのが、暗殺者の最も得意とする戦術だ。
(残る起点は、あと一つ。皇帝の本陣に最も近い場所ね)
私は息を一つ吐き、気配を限界まで薄くして荒野を進む。
その頃、王国軍の野営地では。
クロードが、私の天幕の前に立っていた。
「……聖女様は、まだ瞑想中か?」
「はいっ。明日の決戦に備え、深い祈りを捧げておられます。誰も中に入れてはならないと」
メルが、引きつった作り笑いで必死に立ち塞がっている。
クロードは鋭い金色の瞳で、天幕をじっと見つめた。
王国最高の騎士である彼には、幕の向こう側にリーゼの気配が「全く無い」ことなど、とうに気づいていた。
(リーゼ。……あなたはまた、一人でこの国の重荷を背負いに行ったのですね)
クロードは剣の柄を強く握りしめ、目を伏せた。
追いかけることはできる。だが、彼女が自分に嘘をついてまで一人で行くことを選んだのなら、それには必ず意味がある。
不器用な騎士は、愛する少女の強さと覚悟を信じ、ただその帰りを待つことしかできない己を歯痒く思った。
「……メル。もし聖女様が『祈り』から戻られたら、温かいお茶を用意して差し上げてください」
「え……? あ、はいっ!」
クロードはそれだけ言うと、自らの持ち場へと戻っていった。
どうか、ご無事で。その切実な祈りだけを、夜風に乗せて。
*
そして、第三の起点。
枯れ果てた森の奥深く。
私は木々の枝を飛び移りながら、目標の場所へと接近していた。
だが、目的地に近づくにつれ、私の暗殺者としての本能が、けたたましい警鐘を鳴らし始めた。
(……おかしいわね。気配がない)
第一、第二の起点には、間違いなく数十人の伏兵がいた。
だが、最後の拠点であるはずのこの場所には、人の気配が全く無いのだ。
代わりに、空気が異様に重い。肌を刺すような、粘り気のある魔力の渦。
私は枝の上に身を潜め、眼下にある開けた場所を見下ろした。
そこには、赤黒い光を放つ巨大な魔石が存在していた。
だが、その魔石を守っているのは「人間」ではなかった。
「……グルルルルッ」
魔石の周囲を徘徊していたのは、全身が腐肉で覆われ、複数の獣を無理やり繋ぎ合わせたような、巨大な異形の怪物だった。
(キメラ……。しかも、帝国の兵士の死体を素材にして作られている)
ヴィクトルの情報にはなかった存在。
あるいは、ヴィクトルすら知らされていなかった「皇帝の罠」か。
「あら……どうやら、面倒な合併症を引き起こしているようですわね」
私は聖光魔法を右手に集中させながら、冷たく目を細めた。
皇帝ルドヴィーク。あの男は、決して甘い相手ではない。
だが、私の前世のプライドに懸けて、この程度の番犬に足止めを食うわけにはいかない。
「さて、"治療"の時間ですわね。……少し、荒療治になりますけれど」
私は銀髪を夜風に靡かせながら、異形の怪物へと向かって真っ直ぐに跳躍した。




