第38話 禁術の狂気
「——な、なんだあれは!?」
防衛線の最前列で大盾を構えていた王国軍の兵士が、恐怖に引き攣った悲鳴を上げた。
地平線の彼方、十万の帝国軍の中央に鎮座する巨大な装甲馬車から、天を衝くほどのドス黒い瘴気が噴き上がっている。
ただの煙ではない。魔力そのものが腐敗したような、吐き気を催すほどの濃密な死の気配。
その瘴気はまるで意思を持つ生き物のように地を這い、周囲に展開していた帝国軍の前衛部隊を瞬く間に飲み込んでいった。
「ぎ、ぎゃあああッ!?」
「体が……力が吸われ——」
瘴気に触れた帝国兵たちが、次々と干からびたように倒れ伏す。
だが、真の恐怖はそこからだった。
倒れたはずの兵士たちが、虚ろな目のまま、ゆらり、ゆらりと不気味な動作で立ち上がったのだ。
彼らの肌はどす黒く変色し、口からは獣のような唸り声を漏らしている。生者の気配はない。命の力を強制的に魔力として吸い上げられ、残った肉体だけが「呪われた操り人形」として動かされている。
(……ヴィクトルの伝文通りね。味方の命すら電池にする禁術。どこまでも胸糞の悪い独裁者だわ)
私は内心で強烈な殺意を煮えたぎらせながら、表面上は悲痛な表情で両手を胸の前で組んだ。
「……ああ。なんて痛ましい。自らの国の兵を、あのような姿に変えるなんて」
「リーゼ、下がって! あれはもう人間じゃない。痛覚を持たない屍の軍勢だ!」
クロードが血相を変え、白銀の剣を抜いて私を庇う。
屍となった数千の帝国兵が、武器をデタラメに振り回しながら防衛線へと突き進んでくる。彼らは王国軍が放つ矢を何本身体に受けようが、槍で腹を貫かれようが、一切の歩みを止めない。
恐怖と混乱に呑まれかける王国軍。
私はクロードの横をすり抜け、最前線へと静かに歩み出た。
「リーゼ!?」
「大丈夫ですわ、クロード。彼らも元は、心ある人間。……せめて、安らかに眠らせてあげましょう」
私は空高く両手を掲げ、私の持つ最大級の「浄化」の魔力を解放した。
「光よ、縛られた魂を解き放ちたまえ! 聖光浄化!!」
私の全身から放たれた純白の光の波動が、荒野を扇状に薙ぎ払う。
それは本来、アンデッドや不浄なる呪いを打ち払うための神聖魔法の極致。
光の波に飲み込まれた屍の兵士たちは、苦悶の声を上げることもなく、サラサラと美しい光の粒子に変わって崩れ落ちていく。
(——実際は、魂の浄化なんてロマンチックなものじゃないわ。術者の魔力の結び目を探り当てて、光属性の魔力で強制的に物理切断しているだけ。……面倒なゾンビ戦法、これで終わりよ)
瞬く間に数千の屍が光となって消え去り、帝国軍の不気味な進軍がピタリと止まった。
「おおおっ! 聖女様の奇跡だ!」
「死者の魂が、天へ昇っていく……!」
歓声を上げる王国軍の兵士たち。
遠く離れた馬車の上で、皇帝ルドヴィークが忌々しげに舌打ちをする気配が、風に乗って微かに伝わってきた。
第一波の激突は、私の光魔法の前に、帝国の術式が打ち破られる形で幕を閉じた。
*
激戦の疲労が色濃く残る夜。
王国軍の野営地には、一時的な安堵の空気が漂いつつも、得体の知れない皇帝の術に対する緊張感が張り詰めている。
私は負傷兵たちのテントを回り、一人ひとりに回復魔法をかけていた。
「聖女様、ありがとうございます……」
「無理をしないでくださいね。あなたの命あっての国ですわ」
慈愛の微笑みを振りまきながら最後のテントを出ると、冷たい夜風に吹かれながらクロードが立っていた。
「お疲れ様です、リーゼ。……少し、休みませんか」
彼が差し出してきた水筒を受け取る。
「ありがとう、クロード。あなたも、お怪我はありませんか?」
「ええ。俺の剣は、あなたを守るためにありますから。……ですが、あの皇帝の力は異常だ。明日、本格的な衝突になれば、どれほどの犠牲が出るか」
月明かりの下、彼の金色の瞳が深い憂いを帯びている。
その不器用で真っ直ぐな責任感に、胸の奥がチクッと痛む。
(本当に、いい騎士になったわね。……だからこそ、明日の被害を減らすための汚い仕事は、私が裏で片付ける)
「クロードがいてくだされば、私は何も恐れませんわ。少し、テントで休ませていただきますね」
私は彼に微笑みかけ、自分の陣幕へと戻った。
深夜。
陣幕の中で寝息を立てるメルの横を抜け、私は『気配遮断』のスキルを全開にして野営地を抜け出した。
見張りの騎士たちの視界の死角を縫い、音もなく荒野を駆ける。
向かったのは、両軍の陣地の中間にある、岩肌の露出した枯れ谷。昼間の戦闘中に、ヴィクトルから受け取った暗号の指定場所だ。
谷底へ降り立つと、岩の影からスッと人影が現れた。
灰色の髪と紫の瞳。帝国暗部「黒牙」の最高幹部、ヴィクトルだ。
「……相変わらず、幽霊のような足運びだ。我らが帝国の監視網を完全にすり抜けてくるとは」
「ごきげんよう、ヴィクトル様。寝首を掻きに来たわけではありませんのよ?」
私は完璧な聖女の微笑みを浮かべたまま、一切の隙を見せずに彼と対峙した。
「それで? 皇帝への忠誠を誓う狂犬が、どうして私に情報を流したりしたのかしら」
私の問いに、ヴィクトルは自嘲するように肩をすくめた。
「狂犬にも、仕える主を選ぶ権利はありますよ。……昼間の惨状を見たでしょう。陛下は、不老不死の術式を完成させるため、自軍の兵士を『魔力タンク』として使い潰し始めた」
ヴィクトルの瞳に、暗殺者としての冷徹な怒りが宿っている。
「私たちは帝国のために汚れ仕事をしてきた。だが、あんな狂った儀式の生贄になるために命を張っているわけじゃない。自らの手駒を無意味に殺すボスなど、ビジネスの相手として一線を越えすぎている」
(なるほど。暗殺者なりの矜持と損得勘定ってわけね。裏切りの動機としては十分、信用できるわ)
「それで、私に何をさせたいの?」
「利害の一致です。あなたが皇帝を殺すための、手引きをしましょう」
ヴィクトルは懐から一枚の羊皮紙を取り出し、私に向かって投げ渡した。
「それは?」
「陛下が陣取っている本陣……十万の兵を触媒にする『特大の魔方陣』の設計図と、魔力供給の起点の配置図です。……明日の正午、太陽が最も高くなった時、陛下は全軍の命を完全に吸い上げて、真の不老不死となる」
私は羊皮紙に描かれたおぞましい術式を一瞥し、鼻で笑った。
「つまり、その儀式が完了する前に、この起点を潰せばいいのね?」
「ええ。ですが、起点は三箇所。それぞれに、未だ皇帝に狂信的な『黒牙』の精鋭が数十人規模で護衛についています。……聖女様お一人で、夜明けまでに全てを潰せますか?」
ヴィクトルの挑発的な視線。
私は聖女の仮面を完全に外し、極上の殺し屋としての凄惨な笑みを浮かべた。
「なめないで。私の"治療"は、迅速かつ正確よ」
(——さて、忙しい夜になりそうね。皇帝の狂信者どもごと、まとめて切除してあげるわ)
暗闇の谷底で。
私と裏切りの暗殺者の、皇帝暗殺に向けた密約が静かに交わされた。




