第36話 宣戦布告
馬車を降りた私の頬を、鉄の匂いが混じった乾いた風が撫でた。
「……これが、帝国の『軍』」
国境沿いに広がる荒野。
そこに展開されていたのは、私の想像を遥かに超える絶望的な光景だった。
地平線の彼方まで、視界のすべてを黒と赤の軍装が埋め尽くしている。
カルバニア帝国、十万の軍勢。
兵士たちが一歩踏み出すたびに地鳴りが起き、掲げられた無数の軍旗が、天を覆い隠す暗雲のように揺らめいていた。
前世で、裏社会の抗争や紛争地帯をいくつも見てきた私でさえ、これほどまでに巨大で、一方的な「暴力の塊」を前にしたのは初めてだった。
暗殺者という生き物は、基本的に一対一、あるいは少数を相手にする。十万という数字は、もはや生物ではなく災害に近い。
「リーゼ、下がっていてください。ここから先は、風に乗って敵の殺気が直接届きます」
白銀の鎧に身を包んだクロードが、私の前に庇うように立ち塞がった。
彼の背中越しに見える王国軍の兵士たちは、精々が二万。
かき集められた彼らの顔には、隠しきれない恐怖と絶望が色濃く浮かんでいる。無理もない。どう見ても勝算のある戦いではないのだから。
だが、私が最も警戒していたのは、十万の兵士そのものではなかった。
(……いたわね)
帝国軍の中央。
一際巨大な、要塞のように装甲で覆われた騎馬車が鎮座している。
その最上段に、燃え盛るような赤髪を持つ巨漢が立っていた。
距離は遠く離れているはずなのに、その男の姿だけが異常に鮮明に脳裏に焼き付いてくる。
隻眼の奥に宿る、この世のすべてを自分の所有物だと疑わない、極限の傲慢さ。
カルバニア帝国皇帝、ルドヴィーク。
彼から放たれるプレッシャーは、鍛え抜かれた武人のそれとは全く異なっていた。
吐き気を催すほどの、濃密な血の匂い。
前世で独裁者として君臨し、数え切れぬ命を紙屑のように使い潰してきた「大量虐殺者」だけが持つ、魂の澱みだ。
「……よくぞ逃げずに出向いたな。王国の小娘。いや——"聖女"よ」
戦場全体を震わせるような、重く低い声が響き渡った。
風の魔術を応用した拡声魔法だろう。彼の声は、十万の自軍だけでなく、こちらの王国軍の最後尾にまでビリビリと空気を震わせて届いた。
「貴様の持つ『聖女の力』……そしてその心臓は、余が不老不死の超越者となるための最後の鍵だ」
皇帝ルドヴィークが、傲慢に腕を広げる。
その声には、一切の躊躇も罪悪感もない。ただ、道端の石を拾うような感覚で、一国の聖女の命を要求している。
「大人しくその身を差し出せば、この国の民の半分は生かしてやろう。だが抵抗するならば、王都の赤子に至るまで、すべてを灰燼に帰す」
あまりにも残酷で、独善的な要求。
その言葉を聞いた王国軍の兵士たちの間に、動揺がさざ波のように広がっていく。
「聖女様を差し出せば、助かるのか……?」と、心が折れかける音が聞こえるようだった。
(……ふふっ。本当に、下品でつまらない男ね)
私は内心で冷たく毒づきながら、ゆっくりと一歩、前へ出た。
「リーゼ!」と止めるクロードの腕を、ふわりとした柔らかな手で優しく押しとどめる。
「大丈夫ですわ、クロード。私、少しだけお説教をしたくなりましたの」
私は完璧な、慈愛に満ちた聖女の微笑みを顔に貼り付けた。
そして、自分の中に眠る圧倒的な「光の魔力」を喉に集中させ、皇帝への返答を紡ぐ。
「まあ。皇帝陛下ともあろうお方が、随分と欲張りなことですわね」
私の凛とした声が、光の魔力に乗って戦場全体へと響き渡る。
皇帝の重低音とは真逆の、冷たい泉のように澄み切った声。だが、その言葉に込められた毒は、暗殺者の猛毒そのものだった。
「他人の心臓を欲しがって国を焼くなど、まるで駄々をこねる子供のようですわ。ご自身の薄汚れた『魂』を治療なさるのが先ではありませんこと?」
荒野に、一瞬の静寂が落ちた。
十万の軍勢を前にして、華奢な少女が、絶対的な独裁者を真っ向から嘲笑ったのだ。
王国軍の兵士たちが、信じられないものを見る目で私を見つめる。
「……あいにく、私の心臓は、あなたのような不誠実で下品な方へ差し上げるようにはできておりませんの」
私は首を傾げ、この世で最も美しい笑みを浮かべてみせた。
遥か遠く、馬車の上に立つルドヴィークの隻眼が、不快げに、そして残酷に細められたのがわかった。
「……ふん。口の減らぬ女だ。いいだろう。その小生意気な喉が、絶望と恐怖で悲鳴すら上げられなくなるまで、徹底的に蹂躙してやる」
皇帝ルドヴィークが、右手を高く天へと掲げた。
それが、終末の合図だった。
「全軍、突撃!!」
地平線を埋め尽くす十万の兵が、一斉に武器を掲げて野獣のような咆哮を上げた。
大地を抉るような進軍の足音。
空を黒く覆い尽くすほどの、無数の矢の雨。
そして、防衛線ごと私たちを吹き飛ばそうとする、巨大な魔導砲の灼熱の閃光。
「全軍、構え! 聖女様とこの国を、何としても守り抜けェェェッ!!」
クロードの裂帛の気合とともに、王国軍の兵士たちが恐怖を振り払い、大盾を天へと掲げる。
(——さて。ここからが本番ね)
私は迫り来る絶望的な光景を前に、瞬き一つしなかった。
極限の集中状態。
暗殺者としての「闘気」が、血管の中で静かに、しかし最高密度で沸騰していく。
「それでは、大規模な"治療"を始めましょうか。——皆様、覚悟はよろしいかしら?」
爆炎と土煙が舞い上がる戦場のど真ん中で、私の視線はただ一点、あの傲慢な皇帝の首筋だけを、冷徹に捉え続けていた。




