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第34話 嵐の前の静けさ

「——こちらが、先夜の被害状況と復旧の進捗報告書になります」


焦げ臭い匂いがまだ微かに残る王宮の一室。

私は山積みになった書類に目を通しながら、静かに頷いた。


「怪我人の治療はほぼ終わりましたわね。家屋を焼かれた民への支援も、王家の手配で迅速に進んでいるようで安心いたしましたわ」


「ええ。聖女様のご尽力と、迅速な避難誘導のおかげで、死者の数は奇跡的に最小限に抑えられました」


書類を差し出した文官が、深い敬意を込めて一礼し、部屋を退出していく。


宰相マルクスのクーデター未遂と、帝国軍先遣隊による王都襲撃から数日が経過していた。

王都は今、懸命に復興の槌音を響かせている。

宰相派の貴族たちは一網打尽にされ、王宮はかつてないほど風通しが良くなっていた。


「……お疲れではありませんか、リーゼ」


部屋に二人きりになると、扉の脇に立っていたクロードが、柔らかな声で私を呼んだ。


「大丈夫ですわ、クロード。私の『治療』のおかげで、今は皆様とても元気ですもの」

私は伸びをして、彼に向かって微笑んだ。


「でも……少しだけ、肩が凝ってしまいましたわ」


私が冗談めかして肩をトントンと叩くと、クロードは少し戸惑ったように視線を彷徨わせた後、ゆっくりと私の背後に回った。

そして、鎧を外した彼の大きくて温かい手が、私の華奢な肩にそっと置かれた。


「……少し、力を入れますよ」

「ええ、お願いしますわ」


クロードの手が、私の凝り固まった肩の筋肉を的確に揉みほぐしていく。

不器用な彼らしい、けれどとても丁寧で優しい手つき。


(——王国最強の騎士に肩揉みをさせるなんて、他の貴族令嬢が見たら嫉妬で卒倒しそうね)

内心でくすりと笑いながら、私は心地よい温もりに目を閉じた。


「リーゼ」

マッサージを続けながら、クロードが低い声で問いかけてくる。

「……あの夜、帝国の暗殺者と相対した時。あなたは、彼に『私の空気が気に入っている』と言いましたね」


「ええ。言いましたわ」

「……それは、本当ですか」


クロードの指先が、微かに震えているように感じた。

彼はずっと不安だったのだ。私の規格外の力と、得体の知れない裏の顔。

いつか私が、彼の手の届かないどこか遠くへ行ってしまうのではないかと。


私は振り返らずに、自分の肩にある彼の手の上に、そっと自分の手を重ねた。


「本当ですわ、クロード。……私、この国が、そしてあなたが守ろうとしているこの場所が、とても好きですの」


嘘ではない。

前世では血と硝煙の匂いしかしなかった私の人生に、初めて「守りたい」と思える温かな居場所ができたのだから。


「……ありがとうございます」

クロードの声が、微かに湿りを帯びていた。

「俺は、必ずあなたを……帝国から、お守りします」


言葉には出さなくとも、二人の間にある絆が、かつてなく強固に結びついたのを感じた。

(——でもね、クロード。守られるだけじゃないわ。私に手を出した連中には、相応の『治療費』を払ってもらうんだから)

私は聖女の微笑みの下で、暗殺者としての冷たい殺意を研ぎ澄ましていた。


その時だった。


「聖女殿! ……少々よろしいかな」

バンッ、と勢いよく扉が開かれ、ガレノス様が血相を変えて飛び込んできた。


「あら、ガレノス様。どうなさいましたの?」

私が慌てて立ち上がると、老医師は息を切らしながら、一冊の古ぼけた手記をテーブルに叩きつけるように置いた。


「宰相の隠し部屋から押収された資料の中に……とんでもないものがありましたぞ」


ガレノス様が震える指で、手記のページをめくる。

そこには、以前彼が見せてくれた『聖女の秘儀』——聖女の力を抽出する禁術についての、より詳細な実験記録が記されていた。


「マルクスは……この禁術の『完成版』を、帝国に売り渡していたのです」


「……なんですって?」

私の声が、スッと冷たくなる。


「帝国皇帝ルドヴィーク。彼は転生者としての己の魂に、この禁術を用いて『聖女の力』を人工的に移植しようとしている。……つまり、彼自身が『偽りの聖女』と同等の回復力と不死性を得ようとしているのです」


ガレノス様の言葉に、クロードが息を呑む。

「そんな馬鹿な……。聖光魔法は、神に選ばれた器にしか使えないはずだ!」


「理論上は可能です」

私は極めて冷静に、暗殺者の思考で即答した。

「他者の魔力器官を物理的に切り取り、自らの体に接続すれば。……適合率の壁はありますが、不可能ではない」


(——最悪ね。あんな狂人が、私と同じ回復魔法と不死性を手に入れたら、どうなるか)

前世の独裁者。圧倒的な武力と、尽きることのない命。

それはもはや、人間ではなく「災厄」そのものだ。


「そして、もう一つ……」

ガレノス様が、ひどく苦しげに顔を歪める。


「この術式を完全に定着させるには、『生きたオリジナルの聖女』……つまり、リーゼ殿の心臓が必要だと記されているのです」


部屋の空気が、完全に凍りついた。

クロードが弾かれたように剣の柄に手をかけ、怒りに満ちた目で手記を睨みつける。


「心臓……だと。ふざけるな。絶対に、指一本触れさせはしない!」


(——なるほどね。だからヴィクトルは『生きたまま』私を連れ帰ろうとしていたのか)

私の命そのものが、皇帝の不老不死の最後のピース。


「まあ。私の心臓だなんて、少し悪趣味な皇帝陛下ですわね」

私はあえて、ふわりと聖女の微笑みを浮かべた。


「でも、心配いりませんわ。……私の心臓は、そう簡単には止まりませんもの」


私が優雅に微笑んだ、その時だった。


「報告いたします!!」

一人の伝令の騎士が、顔面を蒼白にして部屋に飛び込んできた。


「カルバニア帝国より……正式な『宣戦布告』の親書が届きました!!」


伝令の悲痛な叫び声が、王宮の壁に木霊する。


「帝国軍本隊、十万の兵が国境を突破! 先頭には——皇帝ルドヴィーク自らが陣頭指揮を執っているとのことです!!」


いよいよだ。

私の命と、この国を懸けた、狂気の皇帝との最終戦争。

(——受けて立つわ。最強の暗殺者と最強の独裁者、どちらの『前世のスキル』が上か、教えてあげる)


私は窓の外、遠く広がる国境の空を見据え、氷のように冷たく笑った。



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