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第29話 見えざる手

「……本当に、もうお体を動かされてもよろしいのですか?」


心配そうなメルの声に、私は苦笑しながら寝台から身を起こした。

大祭典での昏倒から二日。ガレノス様の特別製の薬湯と、私自身の回復魔法の甲斐あって、切れていた筋繊維は完全に修復されている。


「ええ。すっかり癒えましたわ。それに、寝てばかりはいられませんもの」


私は純白の法衣を羽織り、自室のテーブルに広げられた王都の地図を見下ろした。

扉の前に立つクロードが、厳しい表情で口を開く。


「……宰相マルクスは、邸宅に引きこもったままです。表向きは『神殿長の不祥事に心を痛め、謹慎している』とのことですが」

「建前ですわね。彼は今、必死で次の手を打っているはずですわ」


私は地図上の宰相邸を、トントンと指先で叩いた。

神殿長フェリクスが失脚した今、宰相の政治的立場は非常に脆い。

しかし、あの白髪の狐がこのまま大人しく首を洗って待つはずがない。彼にはまだ、「帝国」という最悪のジョーカーが残されている。


「彼が帝国と完全に結託する前に、引導を渡す決定的な証拠が必要ですわ」


(——さて。前世なら、今夜あたり私が邸宅に忍び込んで、物理的に首を刎ねて終わらせるところだけど)


今の私は「大祭典で倒れて療養中の、か弱き聖女」という建前がある。

私が直接動けば、帝国のヴィクトルに隙を突かれる可能性が高かった。


「聖女様。……私に、行かせてください」


不意に、メルが凛とした声で一歩前に出た。


「メル?」

「私、知っているんです。宰相の邸宅にある『隠し金庫』の場所を。……私の父が、没落する前にあの邸宅の設計に関わっていましたから」


メルの瞳には、静かだが確かな決意の炎が灯っていた。

家族を奪った仇への復讐。

しかしそれは、暗い憎悪ではなく、私やこの国を守りたいという「騎士」としての誇り高い光だった。


「……危険ですわ、メル。宰相の邸宅は、今や要塞も同然のはず」

クロードが止めに入るが、私は彼を片手で制した。


私はメルの目を見つめ、彼女の重心、呼吸、そして「気配」を推し量る。


(……悪くない。私が仕込んだ隠密歩法が、完全に体に馴染んでいる。今のメルなら、城の一層や二層、音も立てずに突破できるわね)


「わかりましたわ。メル、あなたに託します」

「リーゼ様! しかし……!」

「大丈夫ですわ、クロード。光の導きが、彼女を守ってくれますから」


私は聖女の微笑みを浮かべつつ、袖口から小さな皮袋を取り出し、メルに握らせた。


「メル。もし見回りに見つかりそうになったら、これを足元に叩きつけなさい。……神聖な煙が、あなたを隠してくれますわ」


「神聖な煙、ですね! ありがとうございます!」


メルは皮袋を大切そうに胸に抱き、深く一礼して部屋を出て行った。

(※神聖な煙=ガレノス様と共同開発した、即効性の強力な睡眠ガス弾。吸い込めば屈強な騎士でも三秒で意識が飛ぶ、暗殺者の必須アイテムだ)


夜の静寂が、部屋を包み込む。

メルを送り出した後、私とクロードは二人きりで彼女の帰還を待っていた。


「……心配ですか、クロード」

「ええ。彼女はまだ、戦いを知らないただの少女です。万が一のことがあれば……」


クロードが、窓の外の暗闇を不安げに見つめる。

私はそっと彼に近づき、その大きな背中に手を添えた。


「信じましょう。彼女はもう、立派な『剣』ですわ。……それに、あなたと同じように、守りたいもののために戦う強さを持っています」


私の言葉に、クロードが振り返る。

金色の瞳が、真っ直ぐに私を捉えた。


「リーゼ。……あなたは、強すぎます」

「あら。私はただの、か弱い聖女ですのに?」

「いいえ。あなたは誰よりも深く傷つき、それでも誰かを守ろうとしている。……俺は、そんなあなたを……」


彼が何かを言いかけた、その時だった。


コンコン、コンッ。

微かな、しかし規則正しいノックの音が響いた。私がメルに教えた暗号だ。


「メル!」


クロードが素早く扉を開けると、そこには黒い夜会服に身を包んだメルが立っていた。

息は切れているが、怪我はない。

その手には、革表紙の分厚い『裏帳簿』がしっかりと握りしめられていた。


「聖女様……! やりました! 宰相が帝国と交わした密約の証拠、それに横領の記録です!」

「素晴らしいわ、メル! 見事です!」


私はメルを強く抱きしめた。

これでついに、宰相マルクスを法的に完全に追い詰める決定的な剣(証拠)が手に入ったのだ。私たちの完全勝利だ。


「でも、聖女様……」


私に抱きしめられたまま、メルが青ざめた顔で震える声を絞り出した。


「邸宅を脱出する時、宰相と帝国の使節が話しているのを……聞いてしまったんです」

「話?」


「宰相は、もう裁判なんて受ける気はありません。……今夜、王都の北門を内側から開け放ち、国境に待機させていた『帝国軍』を、王都へ引き入れるつもりです……!」


——なっ。

私の背筋に、氷のような悪寒が走った。


「帝国軍を、直接王都へ……!?」

クロードが愕然と呟く。


(保身のために、国を売り渡したというの……!? あのクソタヌキ!!)


私の内心で、最悪の警鐘が鳴り響いた。

政治的な失脚などという生ぬるい盤面は、たった今、ひっくり返された。


静寂を引き裂くように。

王都の北の方角から、重い地鳴りのような軍馬の蹄の音が、夜空に響き渡り始めていた。



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