第28話 目覚め
「……んっ」
微かなうめき声とともに、私は重い瞼を押し上げた。
鼻腔をくすぐる薬草の匂い。
視界に入ってきたのは、見慣れた王宮医務室の白い天井だった。
「聖女様……! ああ、よかった、お目覚めになられたのですね!」
横から飛びついてきたのは、目を真っ赤に腫らしたメルだった。
その背後には、ひどく憔悴した顔のクロードと、静かに頷くガレノスの姿がある。
——やってしまった。
私の暗殺者としてのプライドが、小さく舌打ちをする。
神殿長の失脚という最大の目的は達成したものの、公衆の面前で限界を迎えて気絶するなど、プロの殺し屋として三流以下の失態だ。
体力配分を誤った。十五歳の華奢な体を、前世の感覚のまま酷使しすぎたのだ。
「ごめんなさい、皆様。ご心配をおかけしましたわね」
私はゆっくりと上体を起こし、いつもの完璧な聖女スマイルを顔に貼り付けた。
「……本当に、生きた心地がしませんでした」
クロードが一歩進み出た。
白銀の鎧を纏った彼の顔には深い安堵と、そして痛々しいほどの自責の色が浮かんでいる。
「それに……大衆の面前で、聖女様の御名を気安く呼んでしまったこと。護衛として、あるまじき失態です。どうか、いかなる罰でも……」
クロードが深く頭を下げる。
大祭典の場で、彼は確かに「リーゼ!」と絶叫した。
「罰、ですの?」
私は小首を傾げ、彼の言葉を優しく遮った。
「倒れる私を必死に助けてくださったのに、罰などあるはずがありませんわ。それに……」
私はふわりと微笑み、彼の金色の瞳を真っ直ぐに見つめ返した。
「私としては……とても嬉しかったですわ。私の騎士様が、ただの『リーゼ』として私を呼んでくださったこと」
「リーゼ、様……」
クロードの顔が、微かに朱に染まる。
前世で誰かに名前を呼ばれて、胸の奥が温かくなることなど、一度もなかった。
暗殺組織で与えられたコードネーム「ファントム」。それは恐怖の象徴でしかなかったからだ。
でも今は、この不器用な騎士が呼んでくれる私の名前の響きが、不思議と心地よい。
「公の場では困りますけれど……二人きりの時や、仲間といる時は、これからもそう呼んでくださる?」
「……はい。謹んで」
クロードが、今度は騎士としてではなく、一人の青年としての笑みを浮かべた。
——おっと。いけないいけない。
暗殺者が、特定の誰かに情を移すのは命取りだ。
私は内心で自戒しつつ、少しだけ熱くなった頬を隠すように咳払いをした。
「さて。ガレノス様、私の『診断』はいかがでしたか?」
「ええ。単なる魔力枯渇と過労……表向きは、ですな」
ガレノスが丸眼鏡の位置を直し、ベッドの脇に立った。
そして、メルやクロードには聞こえないほど小さな声で、私にだけ囁いた。
「……無茶をしすぎですぞ。極大の聖光魔法と……"もう一つの体術"の同時使用など。この華奢な体に、どれほどの負荷がかかっているか」
ドキン、と心臓が鳴る。
やはり、この老医師の目は誤魔化せない。
私が祭壇の裏で、帝国のヴィクトルと激しい近接戦闘を行っていたこと。
魔法の放出と同時に極限の身体操作を行っていたことによる「異常な筋肉の疲労と断裂」を、脈拍と触診から完璧に看破している。
「……ふふっ。ご心配をおかけしましたわ」
私は観念し、彼にだけわかるように暗殺者の冷たい笑みを返した。
「医者として、患者の個人的な秘密を暴く趣味はありません。……ですが、どうかご自愛を。我々には、あなたの光が必要なのですから」
ガレノスは深く頭を下げる。
全てを知った上で、沈黙で私を守ってくれる。
何もかも一人で背負っていた前世とは違う。今の私には、背中を任せられる頼もしい共犯者たちがいる。
「フェリクス神殿長は、地下牢へ投獄されました。これで、敵の一角は崩れましたわね」
私が言うと、クロードが力強く頷いた。
「はい。民衆も、聖女様が長年の悪事を暴いたと歓喜しています。……ですが、宰相マルクスは未だ健在です。彼がこのまま引き下がるとは思えません」
「ええ、わかっていますわ」
私は冷たい笑みを深めた。
手負いの獣が一番危険だ。自分の右腕をもがれ、窮地に立たされた宰相が、次にどんなカードを切ってくるか。
——受けて立つわよ、白髪狐。
私はベッドの上で、次の"治療"のシミュレーションを開始した。
【一方、王宮の地下深くでは——】
光の届かない冷たい石造りの地下牢。
カビと湿気の匂いが漂う暗闇の中で、松明の炎が揺れていた。
「……忌々しい小娘め」
宰相マルクスが、ギリッと奥歯を鳴らす。
表向きはフェリクスを切り捨てて難を逃れた彼だったが、その権力基盤は今や崩壊寸前だった。
彼の目の前には、帝国の使節である暗殺者ヴィクトルが、気配もなく静かに佇んでいた。
「神殿長が落ちた今、あなたも危うい立場ですね、宰相閣下。……これ以上、我が帝国がお力添えするメリットが薄れてきているのですが?」
ヴィクトルが嘲笑うように告げる。
「黙れ。私を誰だと思っている」
マルクスは血走った目で、闇の奥を睨みつけた。
「こうなれば、もはや小細工は不要だ」
マルクスは、ヴィクトルに向かって狂気じみた笑みを浮かべた。
「計画を……前倒しにする。帝国軍を動かせ。あの憎き聖女を、力尽くで引き摺り下ろしてやる」
王国の暗雲は、いよいよ国家間の戦争という最悪の嵐へと変わろうとしていた。
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