第23話 黒牙との邂逅
「——素晴らしい陽気ですな、聖女様。このような日は、少し体を動かしたくなりませんか?」
聖域の中庭。
色とりどりの花が咲き乱れるその場所で、私に優雅に声をかけてきたのは、灰色の髪を持つ帝国暗部の男——ヴィクトルだった。
彼の背後には、数人の帝国使節団の武官たちが控えている。
「まあ、ヴィクトル様」
私は花壇の手入れの手を止め、完璧な聖女スマイルで振り返った。
「体を動かす、とは?」
「我がカルバニア帝国で流行している、貴婦人向けの『護身術』がありましてね。よろしければ、私が手ほどきをいたしましょう」
ヴィクトルの紫色の瞳が、蛇のように細められる。
表向きは親善交流の一環。周囲の目がある手前、無碍に断ることは難しい。
少し離れた場所で警護に当たっていたクロードが、険しい顔でこちらへ歩み寄ろうとするのを、私は目で制した。
「ええ、喜んで。……お手柔らかにお願いいたしますわね」
私は法衣の袖を軽くまくり、彼に向かい合った。
「では、遠慮なく」
次の瞬間。
ヴィクトルの姿が、ブレた。
——速い。
彼が踏み込んだのは、護身術の指導などという生易しい間合いではない。
瞬きする間に私の懐に潜り込み、その手刀が私の喉元——頸動脈を正確に狙って突き出される。
殺気はゼロ。呼吸音すら無い。
ただ純粋な「殺害の技術」だけが、無音で私に迫っていた。
(……ッ! やはり、ただの暗殺者じゃないわね!)
私の暗殺者としての本能が、警鐘を鳴らす。
今の私の華奢な体では、正面から受け止めれば骨が砕ける。
「きゃっ……!?」
私は怯えた少女のような悲鳴を上げながら、"偶然"足を滑らせたように重心を落とした。
ヴィクトルの手刀が、私の銀髪を数ミリかすめて空を切る。
同時に、私は倒れ込む勢いを利用して、法衣の裾で彼の視界を一瞬だけ遮り、死角から彼の手首を弾き飛ばした。
パァンッ! と、乾いた音が響く。
「……ほう」
ヴィクトルが、目を丸くしてわずかに後退した。
周囲の人間には、私がバランスを崩して倒れそうになり、偶然彼の手を弾いたようにしか見えなかっただろう。
「あ、危ないところでしたわ……。足元が少し、滑ってしまって」
「……お見事です、聖女様。まさか、私の"指導"をこうも簡単に躱されるとは」
ヴィクトルの声が、一段と低く、ねっとりとした熱を帯びる。
「では、次は少しだけ速度を上げますよ」
そこからは、文字通りの「裏の殺し合い」だった。
ヴィクトルは笑顔のまま、見えない角度から急所への打撃を連発してくる。
鳩尾、目、関節。どれも一撃で人間を機能停止させるプロの技。
対する私は、ひたすら「逃げるか弱い聖女」を演じ続けた。
恐怖で後ずさるフリをしながら、ミリ単位で打撃を躱す。
偶然を装って肘を突き出し、彼の攻撃の軌道を逸らす。
「光の御加護が……!」などと適当なセリフを叫びながら、体術の防御の型を連続で発動させる。
(面倒ね。いっそこの場で、喉仏を砕いてしまいたいわ)
内心で毒づきながら、私は必死に殺意を抑え込んでいた。
ここで私が彼に有効打を入れてしまえば、それは「聖女が戦闘技術を持っている」という決定的な証拠になってしまう。
「……素晴らしい」
数分間の攻防の後。
ヴィクトルが不意に攻撃を止め、大きく息を吐いた。
「いやはや、驚きました。聖女様は本当に『神の御加護』を持っておられるようだ」
「はぁ、はぁ……。もう、ヴィクトル様ったら、少し乱暴ですわ」
私はわざと息を乱し、涙目で彼を睨みつけてみせた。
だが、ヴィクトルは周囲の目を盗み、私にだけ聞こえるほどの至近距離に顔を寄せてきた。
その紫色の瞳には、狂気じみた歓喜の色が浮かんでいる。
「……気づかないとでも思いましたか?」
「何がですの?」
「あなたのその防御。重心の移動。……それは、我が帝国はおろか、この世界のどこにも存在しない歩法だ」
心臓が、冷水を浴びたように縮み上がった。
この男、私の体術の源流が「この世界の魔法や武術ではない」ことまで見抜いたというのか。
「やはり。あなたは"この世界"で作られた戦士ではない。——別の世界の技ですね」
ヴィクトルの唇が、私の耳元で残酷な弧を描く。
——転生。
その事実を、帝国の暗殺者が完全に突き止めた。
「あなたのような極上の存在に出会えたこと……我が皇帝陛下に感謝しなければなりません」
ヴィクトルが、恭しく頭を下げる。
「皇帝陛下……?」
私が絞り出すように問うと、ヴィクトルは毒蛇のように微笑んだ。
「ええ。……我が皇帝も——あなたと同じ"来訪者"ですよ」
その言葉は、爆弾のように私の思考を吹き飛ばした。
カルバニア帝国の、皇帝。
この大陸の半分を支配する絶対的な独裁者が、私と同じ転生者。
それが意味する脅威の大きさに、私は初めて、聖女の仮面の下で背筋が凍るのを感じていた。
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