第20話 帝国の影
「——お顔を上げてくださいな、ヴィクトル様」
謁見の間を辞した後。王宮の中庭に続く回廊で、私は再び彼と対峙していた。
使節団の歓迎行事の合間、ほんの僅かな隙。
護衛のクロードは、他の帝国騎士たちの応対で少し離れた位置にいる。
「そんなに私の手を見つめて、何かついておりましたかしら?」
私は鈴を転がすような声で笑い、彼に取られていた右手を優雅に引き戻した。
周囲には数人の神官や貴族がいるが、私たちの会話に耳を立てている者はいない。
「いえ。あまりに白く、清らかな手だったものでな。つい見惚れてしまいましたよ、聖女様」
ヴィクトルは膝をついたまま、不敵な笑みを浮かべて見上げた。
蛇のような紫色の瞳が、私の全身を舐めるように観察している。
——この男、確信しているわね。
——私の指先の微かなタコ、重心の移動、そして「同類」にしかわからない独特の空気感。
私の暗殺者としての本能が、彼という存在を再定義する。
帝国暗部「黒牙」のエージェント。
人殺しを芸術の域まで高めた、血を吸うことに特化した道具。
おそらく、これまでに葬ってきた命の数は三桁を下らないだろう。
「まあ、お上手ですこと」
私は扇子で口元を隠し、目を細めて微笑んだ。
「でも、あまり見つめられると困ってしまいますわ。私は神に仕える身……皆様に癒しを与えることだけが、私の役割ですもの」
——という、聖女らしい台詞を吐きながら。
私の脳内は、彼を「排除」するためのシミュレーションを高速で繰り返していた。
(左腰の短剣。抜刀速度はコンマ二秒。袖口の重さからして、暗器は毒針か。……面倒ね。今の私の筋力では、正面からの力押しは分が悪い)
「癒し、ですか。……ククッ、それは素晴らしい」
ヴィクトルはゆっくりと立ち上がり、私の耳元に顔を近づけた。
人には聞こえない、しかし鋭利な刃物のように冷たい囁き。
「だが、残念ながら我が皇帝陛下が求めているのは、あなたのその『癒し』ではない。……もっと、根源的な『力』だ」
「帝国の皇帝陛下が……?」
「ああ。陛下は、聖女の魂に宿る『転生者の輝き』を欲しておられる。……あなたを、帝国の最高の武器として迎え入れるためにね」
——転生者の輝き。
心臓が、一瞬だけ不規則なリズムを刻んだ。
やはり、帝国側には転生に関する具体的な知識がある。
そして、彼らの目的は友好などではなく、私という「兵器」の強奪だ。
「聖女様!」
遠くからクロードが声を上げ、こちらへ駆け寄ってくる。
異様な空気を感じ取ったのだろう。
ヴィクトルは素早く身を引き、何事もなかったかのようにいつもの無機質な護衛の顔に戻った。
「失礼いたしました、聖女様。少しばかり、故郷の母に面影が重なってしまったもので」
白々しい嘘を吐き、ヴィクトルは優雅に一礼して去っていった。
「……聖女様、大丈夫ですか? あの男、何か不穏なことを……」
駆けつけたクロードが、私の肩を支え、険しい顔でヴィクトルの背中を睨みつける。
「いいえ。少しだけ、帝国のお話を聞かせていただいただけですわ。……優しいお方ですわね、ヴィクトル様は」
私は震える少女を演じながら、クロードの腕にすがった。
しかし、私の内心は極北の風のように冷え切っていた。
——見られたわね。
——あの男は、私の「仮面」を剥がすことを楽しんでいる。
だが、甘く見ないでほしい。
私は一度死に、地獄の淵から這い上がってきた暗殺者だ。
正体がバレるのが先か、あるいは私が帝国の喉笛を掻き切るのが先か。
「ふふっ……」
「聖女様?」
「いいえ。……とても楽しみですわ、帝国の方々との『共同研究』が」
私はクロードの腕の中で、そっと唇の端を吊り上げた。
さて。獲物が向こうから歩いてきてくれたのなら、喜んで迎撃してあげましょう。
遠ざかるヴィクトルの背中を見送りながら、私は確信した。
この王宮は、間もなくプロの殺し屋たちの「狩り場」へと変貌する。
その日の別れ際。
最後にもう一度だけ振り返ったヴィクトルが、口の動きだけでこう告げたのを、私は見逃さなかった。
(あなたの"聖女"は、とても上手い。でも——)
冷たい紫の瞳が、私の奥底を射抜く。
(——"殺し屋"のほうが、ずっと美しい)
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