第19話 新たな脅威
「聖女様! 大変でございますっ!」
バンッ、と勢いよく扉が開かれ、メルが血相を変えて飛び込んできた。
王都へ帰還し、ようやく一息つけると思っていた矢先の騒ぎだ。
「どうしましたの、メル。そんなに慌てて」
私は読みかけの祈祷書を閉じ、優雅に微笑んだ。
「て、帝国から……カルバニア帝国から、特使の皆様がいらっしゃったんです! 王宮中がてんやわんやで……!」
カルバニア帝国。
その名を聞いた瞬間、私の脳裏に「黒い鷲の紋章」が刻まれた短剣がフラッシュバックした。
辺境エルドラークで疫病を撒き散らした、あの軍事大国。
宰相マルクスと裏で繋がり、この国を虎視眈々と狙っている巨大な脅威だ。
——なるほど。辺境での工作が失敗したから、今度は堂々と表玄関から攻めてきたというわけね。
「聖女様。国王陛下に代わり、宰相閣下が謁見の間にて使節団をお迎えしております。聖女様にもご同席を、とのことです」
背後に控えていたクロードが、険しい表情で告げた。
彼の金の瞳には、明らかな警戒の色が浮かんでいる。
「わかりましたわ。すぐに向かいましょう」
私は法衣の裾を整え、完璧な「慈愛の聖女」の仮面を被り直して部屋を出た。
謁見の間は、異様な緊張感に包まれていた。
王国の貴族たちが居並ぶ中、中央には黒と赤を基調とした豪奢な軍服に身を包んだ帝国の使節団が立っている。
「——というわけで、我がカルバニア帝国は、聖レティシア王国との恒久的な友好を願っております」
使節団の代表である初老の外交官が、仰々しく一礼した。
「つきましては、偉大なる『聖女様の力』について、我が国の魔導士たちと"共同研究"を行いたいのです」
共同研究。
その言葉に、王国の貴族たちがざわめいた。
表向きは平和的な学術交流の提案だ。
しかし、本音は誰の目にも明らかだった。聖女というこの国最大の防衛力であり精神的支柱を、帝国が合法的に「調査」し、あわよくばその力を奪い取ろうという腹だ。
——ふん。図々しいにも程があるわね。
「それは素晴らしいご提案ですな。我が国としても、大国カルバニアとの交流は喜ばしい限り」
宰相マルクスが、胡散臭い笑顔で応じる。
彼は内心で歓喜しているはずだ。自分の失態をカバーするために、帝国という強大な後ろ盾を公の場に引きずり出したのだから。
「聖女リーゼロッテ様。あなたはいかがお考えですか?」
代表の外交官が、私に向かって恭しく尋ねた。
全ての視線が私に突き刺さる。ここで拒絶すれば「聖女が友好を拒んだ」と帝国の侵略の口実にされる。外交のセオリー通り、退路を断たれた盤面だ。
「……光栄なお話ですわ」
私はゆっくりと立ち上がり、両手を胸の前で組んだ。
「癒しの光は、国境を越えてすべての人々を照らすもの。皆様との学び合いが、両国のより良い未来へ繋がることを祈っております」
完璧な優等生めいた回答に、使節団の代表は満足げに頷いた。
だが。
私の「目」は、外交官の後ろに控えている護衛の一人に釘付けになっていた。
——なんだ、こいつ。
身長は百八十センチ台半ば。細身だが、軍服の上からでも無駄のない筋肉の付き方がわかる。
灰色の髪に、蛇のように細められた紫色の瞳。
一見すれば、ただの優秀な護衛だ。呼吸も静かで、殺気など微塵も発していない。
しかし、だからこそ「異常」だった。
気配が、不自然なほどに「無い」のだ。
そこに存在しているはずなのに、意識を少しでも逸らせば風景に溶け込んで消えてしまいそうな、極限まで研ぎ澄まされた虚無。
(……この気配、知っている)
(人間の急所を熟知し、いかに音を立てず、血を流させずに命を刈り取るか。それだけを何万回も反復してきた人間の、すり減った魂の形)
背筋に、氷を当てられたような悪寒が走る。
こいつは、ただの騎士や兵士じゃない。
——血の匂いだ。私と同じ、裏社会の……「同類」の匂い。
帝国使節団の中に、プロの暗殺者が紛れ込んでいる。
私が彼を観察しているのと同時に、灰色の髪の男もまた、私をじっと見つめ返していた。
紫色の瞳が、面白そうに細められる。
彼は私の「聖女の仮面」など最初から見ていない。私の奥底に潜む、冷たい殺意の気配を的確に嗅ぎ取っている。
「聖女様。よろしければ、我が使節団の者たちから直接ご挨拶を」
外交官の言葉に従い、使節団のメンバーが一人ずつ私の前に進み出て、恭しく騎士の礼をとる。
そして、あの灰色の髪の男の番になった。
「カルバニア帝国特務部隊所属、ヴィクトルと申します」
ヴィクトルと名乗った男は、私の前で優雅に片膝をつき、私の右手をそっと取った。
手の甲に口付けを落とす、形式的な挨拶。
しかし、その顔が近づいた瞬間。
彼は私の耳元で、誰にも聞こえないほどの微かな声で、こう囁いた。
「初めまして、聖女様。——"同業者"としてお目にかかれて、光栄です」
ドクン、と。
私の心臓が、大きく跳ねた。
見抜かれている。
この男は、私が「ただの聖女ではない」というレベルではなく、明確に「人殺しのプロ」であることまで察知している。
「……!」
私は咄嗟に手を引き抜こうとしたが、ヴィクトルの指の力がそれを許さない。
彼は顔を上げ、魅入られたような、ねっとりとした紫色の瞳で私を見つめた。
「あなたの"聖女"の演技は、とても素晴らしい。でも……」
ヴィクトルの唇が、残酷に歪む。
「あなたの奥底にある"殺し屋"のほうが、ずっと美しい」
王宮の華やかな謁見の間。
その光のど真ん中で、私は前世の亡霊を突きつけられたような錯覚に陥った。
帝国という強大な国家。そして、私の本質を完全に理解する最悪の暗殺者。
真の脅威が、今、私の眼前に立ちはだかっていた。
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