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第2話 侍女メルと、不穏な歓迎

「聖女様、朝でございます! お目覚めの時間ですっ!」


バンッ! と勢いよく扉が開く音で、私は意識を浮上させた。

……いや、実は扉の外に足音が近づいてきた時点で、すでに目は覚めていたのだが。

前世の職業病というやつだ。睡眠は常に浅く、不審な気配があれば即座に跳ね起きる。


「おはようございます、聖女様! 本日から専属の侍女を務めさせていただきます、メルと申します!」


元気いっぱいに挨拶をしたのは、赤毛のポニーテールとそばかすが特徴的な少女だった。

手には洗面用の水の入った真鍮のたらいを持っている。

年齢は十六歳くらい。今の私と大して変わらない。


「おはようございます、メル。よろしくおね——」


言いかけた瞬間。

メルが、ふかふかの絨毯のわずかな段差に見事に躓いた。


「きゃあっ!?」


たらいが宙を舞う。水が盛大にこぼれそうになる。

——重心がブレすぎだ。歩法が全くなっていない。


私は内心でため息をつきながら、ベッドから滑り降りた。

常人には見えない速度で踏み込み、空中でたらいの縁を掴んでキャッチ。

さらに、こぼれそうになった水も、絶妙な手首の角度調整で一滴もこぼさずに受け止める。


「……へ?」

床に転がったメルが、目を丸くして私を見上げていた。


「まあ、お怪我はありませんでしたか? 足元には気をつけてくださいね」


私は完璧な聖女スマイルを浮かべ、たらいをサイドテーブルに置いた。


「あ、ありがとうございます……! 聖女様、ものすごい運動神経ですね!?」

「神のお導きですわ。不思議と、体が軽く動いたのです」

「ははぁーっ! さすが奇跡の力ですっ!」


純真な子だ。一切の疑いを持たずに拝んでくる。

——悪意はない。ただのドジっ子か。扱いやすくて助かる。


こうして、私の王宮での新しい生活が始まった。


神殿の「聖域」から王宮へと移った私だが、与えられた部屋は眩暈がするほど豪華だった。

天蓋付きのベッドに、最高級のアンティーク家具。

だが、私は浮かれることなどできなかった。


「聖女様、こちらが中庭でございます」

「素晴らしい景色ですわね。心が洗われるようです」


にっこりとメルに微笑みかけながら、私は周囲の気配を静かに探る。

——監視が多い。多すぎる。


中庭を歩いているだけなのに、常に複数の視線を感じる。

渡り廊下の陰に一人。庭師を装っているのが一人。さらに遠くの塔の上から望遠鏡らしき光の反射。

護衛、という生易しいものではない。

私の行動を事細かに記録し、監視し、あわよくば弱みを握ろうとする「値踏み」の気配だ。


——息が詰まるな。まあ、裏社会の連中よりは隠れるのが下手だが。


夜。

私のお披露目となる歓迎の宴が開かれた。

王宮の大広間には、豪華絢爛なドレスや礼服に身を包んだ貴族たちが集結している。

シャンデリアの光が眩しい。


私が会場に足を踏み入れると、一斉に視線が突き刺さった。


「おお……なんと神々しい」

「見事な銀髪だ。前代の聖女様にも劣らぬ美しさ」

「病に伏せられた国王陛下も、これでお喜びになられるだろう」


口々に称賛の言葉が囁かれる。

だが、私は騙されない。

グラスを傾ける貴族たちの目の奥にあるのは、純粋な信仰心などではない。


——ふん。こういう視線は前世で嫌というほど知っている。


暗殺対象を物色する目と、本質的に同じだ。

この新しい聖女は、自分たちの派閥に引き込めるか。

政治の道具として、どれほどの利用価値があるか。

そうやって計算高さを隠し持った、貪欲な獣たちの目。


「皆様、温かい歓迎をありがとうございますわ。神の祝福が、皆様と共にありますように」


私は内心の冷ややかな分析を完璧に隠し、慈愛に満ちた聖女の微笑みを振りまく。

この程度の演技、暗殺任務の潜入に比べれば児戯に等しい。


その時、群衆がモーゼの十戒のように割れ、一人の男が進み出てきた。

白髪の混じった壮年の男だ。

細身で、仕立ての良い豪奢な服を着こなしている。

細めた目は、どこか狐を思わせる風貌だった。


「新たなる聖女様。お会いできて光栄の極みです」

男は優雅に一礼した。

「私は王国宰相を務めております、マルクス・ド・ヴァレンシアと申します。ご病気で欠席されている陛下の名代として、心より歓迎いたします」


マルクス。王国宰相。

実質的な政治の支配者だと、事前の情報で聞いている。


「マルクス様ですね。お気遣い、感謝いたしますわ。これから色々と教えてくださいませね」


私はにっこりと微笑み返した。

表面上は、穏やかな好々爺と、純真な聖女の美しい対面だ。

だが。


——こいつ。


私の暗殺者としての本能が、最大級の警鐘を鳴らしていた。

この男からは、むき出しの敵意も、下品な欲望も感じない。

あるのは、氷のように冷たく、完璧に計算された「静かなる狂気」。


——殺気のない殺意。完璧に隠蔽された毒蛇の気配だ。


邪魔になれば、躊躇なく私を殺すだろう。

それも、自分の手は一切汚さずに。

なるほど。神殿長のフェリクスといい、この国のトップはどいつもこいつも油断ならないらしい。


「ええ、何なりと。聖女様が"健やかに"お役目を全うできるよう、私が全力で支援いたしましょう」


マルクスの言葉に、私は「頼もしいですわ」とだけ返した。


——上等だ。私の"健やかな"生活を脅かすなら、お前が相手でも容赦はしない。


歓迎の宴は滞りなく終わり、私は自室への帰路についていた。

ひとまず、宮廷内の勢力図と警戒すべき人物の目星はついた。

初日の収穫としては上出来だ。私自身は何も損をしていないし、情報のアドバンテージは得られた。


だが、静かな廊下を歩いている最中。

ランタンを持って私の前を歩いていたメルが、ふと立ち止まった。


「……聖女様」


振り向いたメルの顔は、昼間の明るい表情とは違っていた。

どこか思い詰めたような、悲しげな瞳。


「どうしましたの? メル」


私が優しく問いかけると、メルはうつむき、ぽつりと呟いた。


「前の聖女様は……とても、良い方でした」


その目から、ポロリと一粒の涙がこぼれ落ちる。

ランタンの淡い光が、メルの頬を伝う雫を照らしていた。


私は、音を立てずに目を細めた。

誰も口にしたがらない、前代聖女の話題。

だが、真実は必ずどこかに痕跡を残すものだ。


——さて。きっちり調べさせてもらうとしようか。


私の仮面の下で、殺し屋としての血が静かに滾り始めていた。



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