表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
PR
16/45

第16話 メルの涙

「う……ううっ……お父様、お母様……」


月明かりだけが差し込む、夜の野戦病院。

疲労で眠りについた患者たちの間で、小さな嗚咽が漏れていた。

声の主は、私の侍女であるメルだった。


彼女は、先ほど私が治療した老人の手を両手で包み込み、ボロボロと大粒の涙をこぼしている。


「メル。どうしましたの?」


私が音もなく近づいて声をかけると、メルは弾かれたように顔を上げた。

「せ、聖女様……! 申し訳ありません、私ったら、こんなところで……っ」

慌ててエプロンで涙を拭うが、その目からは後から後から涙が溢れて止まらない。


私は彼女の隣にそっと腰を下ろした。


「そのお爺様、あなたのお知り合い?」

「はい……。昔、私のお屋敷で働いてくれていた、庭師のお爺ちゃんです」


お屋敷。

ただの平民の娘なら、出ない単語だ。


「メル。……ここは、あなたの故郷なのですか?」

私が優しく問いかけると、メルは小さく頷いた。

そして、せきを切ったように、今まで隠していた彼女の過去を話し始めた。


「私……本当は、ロゼッタ家の娘なんです」

「ロゼッタ家……」


私の記憶の引き出しが、王国貴族の名簿を瞬時に検索する。

辺境防衛を担っていた武門の名家。しかし数年前、帝国との密通を疑われ、取り潰されたはずだ。


「父も母も、決して国を裏切るような人ではありませんでした! なのに……宰相様が、父が帝国と通じているという偽の証拠をでっち上げて……っ」

メルの小さな手が、ドレスのスカートをぎゅっと握りしめる。

「両親は地下牢に閉じ込められ、そのまま……獄中で亡くなりました。私はこの庭師のお爺ちゃんたちに逃がしてもらって、身分を隠して神殿に……」


彼女は復讐心を押し殺し、ただ生き延びるために、明るくドジな侍女を演じていたのだ。

いつか、両親の無念を晴らす日を夢見て。


——マルクス・ド・ヴァレンシア。

私の内心で、あの白髪の狐の顔が浮かび上がる。

前代の聖女を殺し、忠義の貴族を陥れ、さらにはこの街に毒を撒くために帝国と裏で手を組んだ男。


「ごめんなさい、聖女様……。私、ずっと嘘をついていました……っ」


泣き崩れるメルの細い肩。

その姿が、不意に別の誰かと重なった。


——『……しなないで。お願い、めをあけて』

——冷たい雨の中、私の腕の中で冷たくなっていった小さな体。

——どんなに血を拭っても、彼女の命は戻らなかった。


(……いや)

私は静かに目を閉じた。

前世の私は、あの少女を守れなかった。

だが、今の私には、守るための力がある。


私は両腕を広げ、震えるメルを優しく抱きしめた。


「聖女様……?」

「泣かないで、メル。あなたは何も悪くありませんわ」


私は彼女の赤毛をゆっくりと撫でる。


「よく、一人で頑張ってきましたね。もう大丈夫です。……あなたの敵は、私が"治療"してあげますわ」


「治療……ですか?」

メルが涙に濡れた顔を上げる。


「ええ。あなたの心の傷も、ご両親の無念も、すべて。私が綺麗に浄化して差し上げます」


メルはその言葉を、「聖女の癒しの祈り」として受け取ったのだろう。

「ありがとうございます……っ」と再び泣き崩れ、私の胸で子供のように声を上げて泣いた。


だが、私の真意は違う。


——物理的な切除だ。

——この国の病巣である宰相を、根こそぎ社会的に(あるいは物理的に)抹殺してやる。


メルを寝かしつけた後。

私は一人、野戦病院の天幕の裏で羊皮紙を広げた。


暗闇の中、微かな月の光だけを頼りにペンを走らせる。

『井戸から発見された帝国軍の短剣』

『複合毒である紫蜘蛛と赤月草の散布状況』

『暗殺者たちの証言』


宰相と帝国が繋がっている証拠。

そして、彼を確実に断頭台へ送るための論理の組み立て。


——証拠は、揃いつつある。


私のペンが、羊皮紙の上に冷たく鋭い文字を刻んでいく。


あとは、決定的な「最後の一手」だけだ。

解毒薬の材料となる深層の薬草を手に入れ、この疫病を完全に終息させた時。

それが、反撃の狼煙になる。


「……待っていなさい、マルクス」


夜風が、私の銀髪を揺らす。


「あなたの首を刎ねるための準備は、着々と進んでいるわよ」


純白の聖女の瞳に、冷酷な暗殺者の光が宿った。



--------------------------------------------------

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ