第16話 メルの涙
「う……ううっ……お父様、お母様……」
月明かりだけが差し込む、夜の野戦病院。
疲労で眠りについた患者たちの間で、小さな嗚咽が漏れていた。
声の主は、私の侍女であるメルだった。
彼女は、先ほど私が治療した老人の手を両手で包み込み、ボロボロと大粒の涙をこぼしている。
「メル。どうしましたの?」
私が音もなく近づいて声をかけると、メルは弾かれたように顔を上げた。
「せ、聖女様……! 申し訳ありません、私ったら、こんなところで……っ」
慌ててエプロンで涙を拭うが、その目からは後から後から涙が溢れて止まらない。
私は彼女の隣にそっと腰を下ろした。
「そのお爺様、あなたのお知り合い?」
「はい……。昔、私のお屋敷で働いてくれていた、庭師のお爺ちゃんです」
お屋敷。
ただの平民の娘なら、出ない単語だ。
「メル。……ここは、あなたの故郷なのですか?」
私が優しく問いかけると、メルは小さく頷いた。
そして、せきを切ったように、今まで隠していた彼女の過去を話し始めた。
「私……本当は、ロゼッタ家の娘なんです」
「ロゼッタ家……」
私の記憶の引き出しが、王国貴族の名簿を瞬時に検索する。
辺境防衛を担っていた武門の名家。しかし数年前、帝国との密通を疑われ、取り潰されたはずだ。
「父も母も、決して国を裏切るような人ではありませんでした! なのに……宰相様が、父が帝国と通じているという偽の証拠をでっち上げて……っ」
メルの小さな手が、ドレスのスカートをぎゅっと握りしめる。
「両親は地下牢に閉じ込められ、そのまま……獄中で亡くなりました。私はこの庭師のお爺ちゃんたちに逃がしてもらって、身分を隠して神殿に……」
彼女は復讐心を押し殺し、ただ生き延びるために、明るくドジな侍女を演じていたのだ。
いつか、両親の無念を晴らす日を夢見て。
——マルクス・ド・ヴァレンシア。
私の内心で、あの白髪の狐の顔が浮かび上がる。
前代の聖女を殺し、忠義の貴族を陥れ、さらにはこの街に毒を撒くために帝国と裏で手を組んだ男。
「ごめんなさい、聖女様……。私、ずっと嘘をついていました……っ」
泣き崩れるメルの細い肩。
その姿が、不意に別の誰かと重なった。
——『……しなないで。お願い、めをあけて』
——冷たい雨の中、私の腕の中で冷たくなっていった小さな体。
——どんなに血を拭っても、彼女の命は戻らなかった。
(……いや)
私は静かに目を閉じた。
前世の私は、あの少女を守れなかった。
だが、今の私には、守るための力がある。
私は両腕を広げ、震えるメルを優しく抱きしめた。
「聖女様……?」
「泣かないで、メル。あなたは何も悪くありませんわ」
私は彼女の赤毛をゆっくりと撫でる。
「よく、一人で頑張ってきましたね。もう大丈夫です。……あなたの敵は、私が"治療"してあげますわ」
「治療……ですか?」
メルが涙に濡れた顔を上げる。
「ええ。あなたの心の傷も、ご両親の無念も、すべて。私が綺麗に浄化して差し上げます」
メルはその言葉を、「聖女の癒しの祈り」として受け取ったのだろう。
「ありがとうございます……っ」と再び泣き崩れ、私の胸で子供のように声を上げて泣いた。
だが、私の真意は違う。
——物理的な切除だ。
——この国の病巣である宰相を、根こそぎ社会的に(あるいは物理的に)抹殺してやる。
メルを寝かしつけた後。
私は一人、野戦病院の天幕の裏で羊皮紙を広げた。
暗闇の中、微かな月の光だけを頼りにペンを走らせる。
『井戸から発見された帝国軍の短剣』
『複合毒である紫蜘蛛と赤月草の散布状況』
『暗殺者たちの証言』
宰相と帝国が繋がっている証拠。
そして、彼を確実に断頭台へ送るための論理の組み立て。
——証拠は、揃いつつある。
私のペンが、羊皮紙の上に冷たく鋭い文字を刻んでいく。
あとは、決定的な「最後の一手」だけだ。
解毒薬の材料となる深層の薬草を手に入れ、この疫病を完全に終息させた時。
それが、反撃の狼煙になる。
「……待っていなさい、マルクス」
夜風が、私の銀髪を揺らす。
「あなたの首を刎ねるための準備は、着々と進んでいるわよ」
純白の聖女の瞳に、冷酷な暗殺者の光が宿った。
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