第15話 辺境の街、エルドラーク
「——馬車をお停めください! これ以上は危険です!」
門番の悲痛な叫び声とともに、馬車が急停車した。
窓から身を乗り出すと、そこはすでに地獄の入り口だった。
辺境の防衛拠点であるはずの城塞都市エルドラーク。
しかし、活気あるはずの街並みは死の静寂に包まれていた。
道の至る所に、ボロ布を被せられた遺体が転がっている。
むせ返るような死臭と、病人の呻き声が、重い空気の中に澱んでいた。
「ここから先は隔離区画です! 聖女様といえど、お通しするわけには——」
「構いません。開けなさい」
私は馬車の扉を自ら押し開け、躊躇なく地面に降り立った。
「せ、聖女様!?」
慌ててクロードが後に続くが、私は彼を片手で制し、真っ直ぐに門番のもとへ歩み寄った。
「私が来たからには、もう大丈夫ですわ」
私は純白の法衣の裾が泥に汚れるのも構わず、最も近くに倒れていた老婆の傍らに膝をついた。
顔面には紫色の斑点が浮かび、呼吸は浅く、今にも命の火が消えそうだ。
だが、私には「この病の正体」がわかっている。
「クロード様、ガレノス様から預かったあの薬を」
「はっ!」
クロードから受け取った小瓶——王都で調合した、未完成の解毒薬のベース液を老婆の口に含ませる。
そして、その胸元に両手をかざした。
「癒しの光」
純白の光が老婆の体を包み込む。
薬効を魔法で強制的に循環させ、体内の毒素を急速に浄化していく。
「赤月草」の解毒には深層の薬草が必要だが、聖光魔法のブーストがあれば、一時的に命を繋ぐことは十分に可能だ。
「……あ、れ? 痛みが……」
老婆がゆっくりと目を開けた。
紫色の斑点が薄れ、土気色だった顔に赤みが戻っていく。
「き、奇跡だ……! 聖女様が、死の病を打ち払われたぞ!!」
門番が腰を抜かし、涙ながらに叫んだ。
それを合図に、街の中から次々と人々が這い出してきた。
「聖女様! どうか私の子供も!」「妻を助けてください!」
すがりつく彼らに、私は最高の慈愛を込めた微笑みを向けた。
「ええ、お任せくださいな。——全て、癒して差し上げますわ」
それから数時間。
私は広場に急造された野戦病院で、休む間もなく光を放ち続けた。
次々と死の淵から蘇る人々。絶望の街に、希望の光が満ちていく。
「聖女様、万歳!」「神の御遣いだ!」という歓声が、エルドラークの空に響き渡った。
——ふぅ、チョロい。
民衆の心は完全に掌握した。これで私が辺境で「不審死」でもしようものなら、暴動が起きるだろう。
宰相派も、うかつには手を出せなくなったはずだ。
「聖女様、少しお休みなさってください」
メルが心配そうに汗を拭う布を差し出してくる。
「ありがとう、メル。でも、まだやることがありますわ」
治療が一段落した夕暮れ時。
私は「病の発生源を浄化する」という名目で、街の水源である中央の巨大な井戸へと向かった。
同行するのはクロードだけだ。
「聖女様。この井戸が、疫病と何か関係があるのですか?」
松明を手にしたクロードが、怪訝そうに井戸の底を覗き込む。
「ええ。邪悪な気配を感じますの。……神の啓示が、ここだと」
私はそう誤魔化しながら、井戸の縁を注意深く観察した。
——あった。
石積みの隙間に、微かに付着している紫色の粉末。
「紫蜘蛛」と「赤月草」の複合毒の残留物だ。
やはり、この井戸から街全体に毒が散布されていた。
私の暗殺者としての目が、現場の状況を冷徹にプロファイリングしていく。
(大勢の目がある中央の井戸に、これだけ大量の毒を気付かれずに混入させるのは至難の業だ。深夜に決行したにしても、必ず『痕跡』が残る……)
私は井戸の裏側、人目につかない暗がりに視線を滑らせた。
そこには、石畳が不自然に削れた跡があった。
(……重い物を引きずった跡。毒の入った樽か何かを、ロープで吊り下げたのね)
私は石畳にしゃがみ込み、その削れた跡の先に手を伸ばした。
瓦礫の間に、何かがキラリと光った。
「……あら?」
拾い上げたのは、一本の短い刃物だった。
毒の容器の封を切るのに使ったのか、刃こぼれしている。
暗闇での作業中、焦って落としたのだろう。
「聖女様? それは……」
クロードが怪訝そうに近づいてくる。
私はその短剣の柄に刻まれた紋章を見て、目を細めた。
王国の双獅子の紋章ではない。
それは、翼を広げた黒い鷲のデザイン。
「クロード様。この紋章に、見覚えはありますか?」
私が短剣を差し出すと、クロードは息を呑み、金色の瞳を鋭く見開いた。
「——カルバニア帝国の、軍属の紋章……!!」
「ええ。そのようですわね」
隣国であり、軍事大国であるカルバニア帝国。
それが意味することは一つだ。
宰相派が私を辺境に追いやったのは事実。
だが、この街に毒を撒き、数千の民を虐殺しようとした真の犯人は、王国の人間ではない。
帝国の工作員だ。
——なるほどね。
私の内心で、暗殺者の血が不敵に沸き立つ。
国内の派閥争いだけかと思えば、他国からの侵略の火種まで混ざってきた。
どうやらこの辺境都市は、私が想像していた以上に、きな臭い陰謀の最前線だったらしい。
「クロード様。どうやら私たちの"治療"は、まだ始まったばかりのようですわ」
私は帝国の短剣を手の中で遊ばせながら、暗闇に向かって冷たく微笑んだ。
--------------------------------------------------




