第九話「吸血戦姫VSレーヴェンガルド帝国軍」
風が、血の匂いを運んでいた。
まだ誰も斬られてなどいないのに、その風は、これから流されるであろう膨大な血の予感を確かに孕んでいる。
旧聖王国の名もなき廃村。人の絶えた広場を挟んで、数千の帝国軍とたった一人の女とが、静かに対峙していた。
張り詰めた静寂が、痛いほど肌を刺す。兵たちの誰もが、槍を構えたまま動けずにいた。
数の上では、圧倒的にこちらが有利なはずだ。それなのに目の前のたった一人の女が放つ気配は、その数の優位を根こそぎ無意味にしてしまうほどの重さを持っていた。
クルエンタ・フレイヤは、その紅い瞳で迫る軍勢を静かに見渡していた。
「さて…と、早速見せてもらいましょうか」
「スキル──天眼」
( 世界のあらゆる事象・情報を視覚的に捕捉し、解析する超越的な認識スキル)
その完成された美貌の奥で、慧は冷静に分析しまていた。レーヴェンガルド帝国の五千の兵。中央に二人の勇者。そして後方に聖女エリス……
「エリスーーー!?」
一瞬、クルエンタの思考が止まった。目が零れ落ちそうになるほど大きく見開かれる。
「は? ちょっと待って。なんでアンタが生きてるのよ??」
紅い瞳がわずかに眇められる。ただそれだけで、傍らに控えていた兵士たちが思わず息を呑むほどの圧が漂った。
始末したはずの相手が、何食わぬ顔で敵陣の後方に立っている——その事実だけで、慧の中の「合理」がわずかにざわついた。生き延びた経緯は、あとで必ず突き止める。そう頭の隅に刻みつけ、彼女は止まっていた思考を、すぐに平静へと引き戻した。
頭の中でまるで戦略ゲームのユニットを配置するように、彼女は敵の布陣を一つひとつ、素早く分解していく。
(数はざっと五千ってとこ。でも数が多いってことは、それだけ動きが鈍いってことでもある。真正面から相手にする馬鹿はいないわよね。——まずは、数を減らす)
クルエンタは、迫りくる軍勢を紅い瞳に映したまま、静かに言葉を発した。
「スキル──神威」
(神の威圧。この威圧を受けたものは、弱者ならば死、強者でも気絶、麻痺、硬直の状態異常を引き起こす。影響を一切受けないのは真の強者のみ)
声は、大きくも鋭くもなかった。ただ、その一言が空気に触れた瞬間、戦場そのものが息を呑んだ。
目に見えぬ圧が、津波のように地を這い、帝国軍の前線へと押し寄せる。
それは剣でも炎でもなく、ただ「神が在る」という事実そのものの重み──生き物が本能で格上を悟ってしまったときの、あの逃れようのない畏怖だった。
最前列の兵たちが、声もなく崩れ落ちた。喉を掻きむしる暇さえない。心の臓が、命じられたように鼓動を止める。白目を剥いて膝から沈む者、剣を握ったまま棒のように倒れ伏す者。弱き者から順に、風に薙がれた麦のように、命の灯がふつりふつりと消えていった。即死をかろうじて免れた者も、泡を噴いて痙攣し、あるいは彫像のごとく硬直したまま、指一本動かせずにいる。
一千が死んだ。さらに一千が、地に伏して動かなくなった。わずか一言で、五千の軍勢の…その五分の二が戦力を失ったのだ。
「──は?」
だが、慧の紅い瞳が、わずかに見開かれた。残る三千が、止まらない。倒れた戦友を踏み越え、顔を蒼白にしながら、歯を食いしばって、それでもなお、彼女へ向かって進軍してくる。神の威圧を正面から浴びてなお、その隊列は崩れていなかった。
「うそでしょ。神威を真正面から食らって……半分も削れてないっていうの?」
背筋に、ぞくりと冷たいものが走った。これがレーヴェンガルド帝国──大陸最強と謳われる軍事国家の、鍛え抜かれた兵か。恐怖に足を止めるという選択を、彼らは訓練の段階で叩き潰されているのだ。中央に立つ二人の勇者の存在が、その意志を鋼のように束ねていた。ゲームのモブとは、格が違う。
けれど…と慧は思う。だからこそ、面白い。ざわりと、彼女の口の端が吊り上がった。恐怖ではない。武者震いだった。
「スキル──緋色の戦場」
瞬間、世界が朱に染まった。
彼女を中心に、半径数キロの空と大地へ、見えざる境界が引かれていく。ここから先は、もはやただの野戦場ではない。彼女が"戦場"と定めた、彼女だけの領域だ。空気は鉄錆の匂いを帯び、夕暮れよりもなお濃い緋色が、地平の果てまでを塗り替える。
そしてその内側で、クルエンタ自身の五体が、燃えるような熱を持った。膂力が、速度が、感覚が、いっせいに桁を跳ね上げる。この領域の中でだけ、彼女は文字どおりの女神となるのだ。
「スキル──死者の館、ヴァルホル」
彼女の頭上、朱に灼けた天から血で組み上げられた館。無数の柱が脈打ち、壁が心臓のように蠕動する、死者を迎えるための宮殿だった。
戦場に倒れ伏した兵士の身体から、抜け出た血がその館へと吸い込まれていく。そして造り替える。痛みも恐怖も知らぬ、従順な血人形へと。
「スキル──血の女王令」
最後の鍵が、回った。
いま生まれ落ちようとしている血の軍勢は、そのことごとくが、彼女の指先ひとつに従う。生殺与奪の一切を握る、絶対の命令権。
死者を統べる女王。
彼女が、すっと片手を掲げた。
次の瞬間。彼女の足元の影から、地面から染み出すようにして、無数の血色の人影が、音もなく立ち上がった。血人形——エインヘリャル。深紅の兵たちが、瞬く間に数百の群れとなって、帝国軍の側面へと殺到していく。
「側面!、敵襲——ッ! 」
体制を即座に立て直した帝国軍の隊列が、そのひと突きで、大きく揺らいだ。血人形は、痛みを知らず、恐怖を知らず、ただ命じられるままに突き進む。斬られても、腕をもがれても、その歩みは止まらない。血の腕が兵の槍を掴み、血の指が兵の喉を裂く。統率された軍隊にとって、これほど厄介な相手はいない。前線が浮足立ち、指揮官の怒号が飛び交い、整然とした陣形が、みるみるうちに乱れていった。
その混乱の渦を、クルエンタは、優雅に舞うようにして駆け抜けた。
彼女の戦い方は、力任せの蹂躙ではなかった。むしろ、その逆だ。決して敵の群れの中央には飛び込まない。常に崩れた隊列の「継ぎ目」を、綻びを的確に突いていく。孤立した一隊を、地形を使って他から切り離し、確実に仕留めては、また次の綻びへ。
(MMOの多対一の鉄則よ。囲まれたら死ぬ。だから、絶対に囲ませない。一度に相手にする数は、常に、自分がさばける数だけ)
崩れた石壁を背にして、背後を取られる危険を消す。細い路地へ敵を誘い込み、大軍の数の利を殺す。血人形を囮に放って敵の注意を引きつけ、その隙に、がら空きになった指揮官の首だけを、正確に刈り取る。
それは防御で耐える戦い方ではなかった。そもそも、敵の攻撃を当てさせないのだ。
やり込んだプレイヤーだけが持つ、戦場全体を上空から見下ろすかのような俯瞰の視点。敵の攻撃が届くより、常に半歩速く動き、相手の一番痛いところへ、最小限の力で刃を届かせる。慧の戦いを支えているのは、吸血の女神としての規格外の膂力だけではない。何百時間とこのゲームに費やした、その戦術の知そのものだった。
帝国軍が、じりじりと削られていく。五千という数が、まるで幻であったかのように、たった一人の女の前で、その意味を失っていった。
「——化け物め」
その光景を、勇者オーランドは、鋭い眼差しで見据えていた。
彼には、はっきりとわかった。あの魔王は、ただ強いのではない。恐ろしく賢い。まるで戦場のすべてを掌の上で転がしているかのような、その計算され尽くした動き。このまま兵たちに任せていては、ただいたずらに屍の山を築かれるだけだ。
「——退けッ! 兵たちを下がらせろ! ここからは俺が出る!」
誠実な勇者は、部下たちを無為に死なせることを、何よりも嫌った。彼は背の双剣をためらいなく抜き放つ。長剣〈ヴェリディス〉と、短剣〈フィデス〉。二つの刃が鈍い光を帯びて交差した。
そして、地を蹴る。
その速度は、およそ人のものではなかった。風を置き去りにするような踏み込みで、彼は一直線にクルエンタへと肉薄する。血人形が幾体も立ちはだかったが、双剣の一閃が、それらを紙のように斬り裂いた。あっという間に、女神の懐へ。
「——ッ!」
慧の背筋を、ぞくりと悪寒が駆け抜けた。速い。今までの有象無象とはわけが違う。彼女はとっさに身をひねり、その斬撃を、紙一重で躱そうとした。躱せるはずだった。これまでどんな攻撃も彼女の立ち回りの前では、届く前に空を切ってきたのだから。
だが。
躱しきったはずのその頬に、つう…と、熱い線が走った。
「……え?」
思わず指で頬に触れる。指先にぬめりとした感触。
——血だ。自分の血。
ありえないことだった。クルエンタ・フレイヤは、神の権能を無効化する。世界の神が振るう、いかなる神聖な力も、彼女には通じない。それが彼女を「無敵」たらしめる、絶対の守りだった。
しかし……
(斬られた……? この剣、私を斬れるの……!?)
慧の心臓が跳ねた。オーランドの構える、あの二振りの剣。あれはただの剣ではない。慧の絶対の守りすら、いともたやすく貫通してしまう、何か特別な代物なのだ。
「スキル──天眼」
彼女は勇者の手にする剣を見た。そして初めて知った。
『神滅剣』
(この世界の創造神が身を削って生み出した、神を殺すためだけの十二の刃。持ち主の勇者の資質に合わせて武器形状を変化させる)
この世界では、この身が傷つきうるという事実。無敵ではないという…ひやりとした現実。慧の背を冷たい汗が伝った。安全圏は消えた。ここから先は一手でも間違えれば、本当に死ぬ。
その思考の隙を、オーランドは見逃さなかった。
彼の踏み込みは、留まることを知らなかった。頬を裂いた一撃は、ほんの挨拶にすぎない。長剣〈ヴェリディス〉が、下段から掬い上げるように、慧の胴を薙ぎにくる。彼女は上体を反らして、それを躱した。躱した——と思った刹那、その斬撃の軌道の内側から、対になる短剣〈フィデス〉が、彼女の喉笛を狙って、まっすぐに突き込まれてきた。
「——っ、しつこい!」
双剣。攻めと守り、大と小、二つの刃が一つの生き物のように連携して襲いかかってくる。長剣で崩し、短剣で仕留める。その隙のない二段構えは、まさに鉄壁だった。一撃でも喰らえば、そこで終わる。そういう剣を二本同時に相手取っているのだ。生きた心地がしないというのは、まさにこのことだった。
だが——慧は、退かなかった。
「落ち着け。落ち着きなさい、柊慧。パターンは必ずある」
どれほど恐ろしい攻撃にもモーションがある。予備動作がある。それを読めば対処はできる。何百時間と、格上のボスを相手に磨いてきた、彼女の観察眼が、極限の集中の中で、勇者の剣筋を一つひとつ、写し取っていく。
次に長剣が来る軌道を読む。
半歩退がる。
連動して突き込まれる短剣の狙いを読む。
首をひねって逃がす。
彼女は、あえて反撃を捨てた。ただ避けることだけに、すべての集中を注ぎ込む。オーランドの猛攻が、紙一重で空を切り続ける。あと指一本ぶんずれていれば命を落としていたであろう斬撃を、慧はまるで最初からそこにいなかったかのように、ことごとく躱していった。
剣が肌をかすめるたび、火花のような緊張が、全身を焼く。それでも彼女の足は、決して止まらなかった。当てさせない。ただその一点に、彼女は己のすべてを賭けた。
「ちぃっ——なぜ、当たらん!」
オーランドの口から、初めて焦りの声が漏れた。この一撃で終わる…というところまで、幾度も追い詰めた。それなのにこの魔王は、その悉くをまるで未来が見えているかのように、寸前で回避してみせる。彼の剛剣を彼女は、しなやかな柳のように受け流していた。
その攻防をはるか後方の白馬の上から、聖女エリスは、食い入るように見つめていた。
その顔からいつのまにか、あの得意げな笑みは消えていた。おかしい。何かがおかしい。無敵のはずの勇者オーランドが、たった一人の化け物を仕留めきれずにいる。それどころか押し込まれているのは、勇者のほうにすら見える。
(な……なんで? どうして殺せないの? あの女は、破滅するだけの噛ませ犬のはずでしょう!? シナリオが……わたしのシナリオが……)
握りしめた手綱が、じっとりと汗ばんでいく。胸の奥で、これまで感じたことのない、ちりちりとした嫌な感覚が、静かに広がりはじめていた。
だが——そのぴりぴりと張り詰めた極限の緊張の中で。
慧の思考は、恐怖に呑まれるどころか、むしろ、どんか研ぎ澄まされていった。
(怖い。うん怖いわよ。当たったら死ぬ剣なんて、反則もいいところ。……でも避け続けてるだけじゃ、いつか捉えられる。集中はそう長く保たない。あたしのほうが先に、どこかで足を止める。……勝ち筋がいる。この状況をひっくり返す、何かが)
彼女の視線が、刃の応酬の合間を縫って、素早く戦場全体を走査した。敵の布陣。兵の動き。そして——二人目の勇者へと、ちらりと注がれる。
もう一人の勇者マーカス。彼は、この乱戦の中にあってなお、ずっと後方の安全な位置に陣取ったまま、動こうとしない。ただ、長い鎖鎌の分銅を、面倒くさそうに振り回し、遠くから血人形を数体、削り取っているだけ。決して危険な前線には出てこない。
そして、決定的だったのは——。
目の前でオーランドが単身、死地へと斬り込んでいるというのに。その援護をマーカスは、一切しようとしないのだ。連携も呼吸を合わせることも、まるでない。まるでそこにいるのが仲間ではなく、他人であるかのように。いや、それどころかオーランドが危地に飛び込むのを、どこか冷めた目で値踏みするように眺めてすらいる。
(……なるほどね)
慧の口の端が、わずかに吊り上がった。恐怖の只中で彼女は確かに、一枚の「切り札」を引き当てていた。
(あの二人、致命的に仲が悪い。連携する気が、まるでない。片方は正義感で突っ込んでくる猪。もう片方は味方すら信用してない臆病者。……それって二人がかりで来られるより、ずっと楽ってことよね)
この不和は戦況を分析する慧にとって、何よりの好材料だった。二本の神滅剣を、同時に相手取るのは、さすがに分が悪い。だが、片方が突出し、片方が動かないというのなら。各個撃破の隙は、十分にある。
彼女はこの戦いの勝ち筋を、確かにその手に掴みかけていた。
その慧の醒めた視線の変化に、オーランドは気づいたのだろうか。
彼は後方で傍観を決め込むマーカスを、一度、苦々しげに睨みつけた。だがすぐに視線を目の前の敵——クルエンタへと戻す。あの卑劣な同僚を頼りにするなど、はなから彼の頭の片隅にもなかった。頼れるのは、己の双剣と己の信念のみ。
そして、その眼差しが、ふと…はるか後方の白馬へと向けられた。
聖女エリス。
守るべき、無辜の乙女。あの哀れな聖女を、そして帝国の民をこの恐るべき魔の手から守る。それこそが自分に課せられた、勇者としての使命なのだと——彼は微塵も疑っていなかった。その信じる心が、彼の魂を烈火のように燃え上がらせる。
その瞬間だった。
オーランドの構える二振りの神滅剣が、まるで彼の決意に呼応するかのように、青白い光を帯びて、燦然と輝きはじめた。刃の冴えが格段に跳ね上がる。空気がぴりぴりと震えた。
個体権能——〈誓約〉。
己が「守るべき」と信じるもののために戦うとき、その刃に常軌を逸した力を与える、彼だけの祝福。誠実であればあるほど、信じる心が強ければ強いほど、彼は強くなる。
だが、なんという皮肉だろう。
いま彼が命を賭して守ろうとしているのは、この世で最も醜い嘘をつく、外道聖女なのだ。彼の美しい誠実は、その根から欺かれ、彼の輝く刃は、無実の魂へと向けられている。守るべき者を守ろうとするその祈りが純粋であればあるほど、彼の剣は冴え——そしてその冴えは、まるごと、間違った相手へと注がれていく。これほど残酷な祝福があるだろうか。
青白い光をまとった勇者が、静かに、双剣を構え直す。刃の放つ冷たい輝きが、廃村の広場を、蒼く染めた。
その光を前にして、慧はごくりと喉を鳴らした。
(……さっきまでより、明らかに剣が鋭くなってる。厄介ね、本当に)
冷たい汗が背を伝う。だが、それ以上に、彼女の頭は別の一点に釘付けになっていた。あの、青白く冴え渡る双剣の輝き。あれには見覚えがある。
(あの剣……見たところ、創世級ってところかしら?)
思い至った瞬間、ぞくりと肌が粟立った。世界そのものの理を覆すとされる、最強ランクの武具。それを、あの勇者はいともたやすく振るっている。
(でも、おかしいわ。人の身で創世級を扱うなんて『Regenesis Fantasy Online』じゃ、ありえなかった。創世級を装備するには、種族クラス『神族』でなきゃ駄目なはずなのに)
人族の勇者が神族専用の武器を握っている。ゲームの理から言えば、断じて起こり得ない事態だった。
(……この世界、マジでめちゃくちゃね)
半ば呆れ、半ば戦慄しながら、慧は胸の内でそう吐き捨てる。
それでも彼女の紅い瞳から、闘志が消えることはなかった。恐怖を認めながら、なお勝ち筋を諦めない。それが柊慧というゲーマーだった。
本当の死闘は、ここから始まろうとしていた。
第九話 了
最後まで読んでいただきありがとうございましたm(_ _)m
面白いと思ってくださった方は、下のブックマークや評価(☆☆☆☆☆)で応援していただけると、執筆の励みになります!




