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悪役令嬢に転生したら公開処刑前夜でした ~吸血神の力で転生聖女を世界の果てまで追い詰めます~  作者: 1009


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第七話「主なき土地」

 磨き上げられた大理石の床が、天窓から差し込む光を吸って、まるで凍った湖面のように冷たく輝いていた。


 レーヴェンガルド帝国、その中枢たる謁見の間である。高い天井から吊るされた無数の燭台、壁を飾る歴代皇帝の肖像、焚かれた香が漂わせる荘厳な薫り。そのすべてが、この国が積み上げてきた歴史と力の重みを、無言のうちに来訪者へ突きつけてくる。


 玉座に腰を下ろした皇帝ヴァルドリック三世は、肘掛けに頬杖をつき、感情の読めない灰色の瞳で、遥か下方の入口を見据えていた。


 両開きの扉が、重い音を立てて開かれる。


 衛兵に半ば支えられるようにして、一人の女が広間へと通された。


 誰もが息を呑んだ。かつては聖女と呼ばれ、傅かれる立場にあったはずのその女は、見る影もなかった。純白であったはずの神官衣は泥と埃にまみれ、裾は無残に破れている。乱れた金の髪が青ざめた頬に幾筋も張りつき、憔悴しきった顔は、まるで何日も眠っていないかのように落ち窪んでいた。聖女エリス——聖王国アルディアに仕えた、その人だった。

 彼女は数歩と歩けぬうちに、力尽きたように床へ膝をついた。

「どうか……どうか、お救いください」

 絞り出された声は、掠れて震えていた。

「聖王国は……アルディアは、滅びました。たった一日で。何もかも、あの化け物に……」

「落ち着かれよ、聖女殿」

 玉座の傍らに控えていた宰相が、穏やかに、しかし威厳を含んだ声で応じた。

「順を追って話されるがよい。何があったのか、この場の誰もがまだ知らぬのだ」


 その言葉に促され、エリスは震える唇を必死に動かした。断片的に、時に取り乱しながら、彼女は語った。亡国の魔女エレオノーラの恐るべき呪いのこと。処刑されたはずのその女が、いかにして異形の化け物を呼び寄せたか。そして異界より現れたという魔神が、たった一体で一夜のうちに国を灰燼に帰したこと——。


 語るうちに彼女の目には涙が滲み、声は次第に上ずっていった。

「魔神なのです……! 神話に語られる、あの魔神が、本当に……! 私はこの目で見たのです、あれが街を呑み込むのを! 信じてください、どうか——!」

 涙ながらに訴えかけながら、しかしその憔悴しきった心のさらに奥底では。


 エリスの中の決して溺れることのない冷たい一片が、油断なく玉座を見上げていた。この皇帝は何を欲しているのか。どう振る舞えば、この身は最も高く売れるのか。哀れな被害者を本気で演じなければ、庇護は得られない。だが、それだけでは足りない。


 自分を「利用価値のある駒」だと思わせなければ、いずれ用済みとして捨てられる——追い詰められてなお、いや追い詰められたからこそ、彼女の生存本能は、そんな計算を冷静に弾き出していた。それはエリスの持つ嗅覚でもあった。


 広間に、しばしの沈黙が落ちた。


 居並ぶ大貴族たちは、互いに視線を交わし合う。その表情に浮かんでいたのは、嘲りでも疑いでもなかった。むしろ憐れみに近い、静かな気遣いだった。

「……お労しいことだ」

 誰かが小さく呟いた。

 宰相もまた、痛ましげに眉を寄せながら、皇帝の方を振り返って言上した。


「陛下。聖女殿は、よほどの惨状を目の当たりにされたのでございましょう。心が深く傷ついておられる。おそらくは当時の混乱の中で、見たものと聞いたものが、記憶の中で溶け合ってしまっているのかと。嘘偽りを申しておられるのではございますまい」


「ただ……魔神、というのはいささか」

 彼は言葉を選ぶように、慎重に続けた。


「魔神など、古い神話に語られるのみの存在。実在したかどうかすら、今では誰も確かめようがございませぬ。聖女殿がその目で見られたのは、おそらく、見間違うほど強大な——魔王の一種、とでも申すべきものではないかと存じます」

 それは、この上なく理にかなった、分別ある判断だった。


 そして同時に、致命的な取りこぼしでもあった。


 誰もエリスの嘘とは思わなかった。誰も彼女を責めなかった。彼らはただ、憔悴した一人の少女を憐れみ、その言葉を「幻」として、優しく脇へ置いただけだ。エリスの話をもっと真剣に聞く者がいれば、あるいは真実に近づけたかもしれない。けれど彼らの寛容さと分別が、かえって唯一の警告を、そっと覆い隠してしまった。


 魔神というたった一つの真実を。


 これが、後に大帝国に訪れる危機の、最初の綻びであるとは、この場の誰一人として知る由もない。

 玉座の皇帝ヴァルドリックは、それまで一言も発しなかった。


 彼はゆっくりと立ち上がると、広間の壁を覆う、巨大な地図の前へと歩み寄った。大陸の版図が精緻に描かれたその地図の北西の一角。かつて聖王国アルディアと記されていた領土を、皇帝の指がゆっくりとなぞる。

「……聖女殿の話が、もし事実であるならば」

 その声は静かで、けれど広間の隅々にまで、よく通った。

「あの土地は今や王もなく民もなく、守る者とてない。主なき地というわけだ」


 彼の唇の端が、わずかに吊り上がる。憐憫や憂慮といった、先ほどまで広間を満たしていた感情とは、およそ無縁の色が、その灰色の瞳の奥で静かに光った。

「ならば——我らがその地を治めて、いったい何の不都合があろうか」

 寛容という仮面の下に隠されていた野心が、その一言に確かに滲んでいた。


 領土拡大を唱える強硬派の貴族たちが、待っていたとばかりに目を輝かせる。

「陛下のご慧眼、まことに」と、追従の声が、さざ波のように広間に広がった。豊かな穀倉地帯と、聖地としての権威。それらが労せずして手に入るとあれば、彼らが色めき立つのも無理はなかった。


 一方で、慎重を旨とする老貴族の幾人かは、かすかに眉を曇らせた。得体の知れぬものには近づくべきではない、という古い危惧が、彼らの胸をよぎったのだ。国をひとつ、一夜で滅ぼした何か。それが、まだあの土地に居座っているとしたら——。


 けれど、豊かな土地が転がり込むという誘惑と、皇帝みずからが乗り気であるという空気を前にして、その慎重論が声高に語られることは、ついになかった。老貴族たちは、胸のざわめきを、ただ沈黙の内に呑み下すほかなかったのである。


 大国を動かす歯車が、いま、静かに軋みを上げて回りはじめた。


 夜明けは、まだ薄暗かった。

 凍てつくような早朝の冷気の中、帝国東の辺境砦には、一隊の偵察騎兵が整列していた。馬たちは白い息を吐き、蹄で霜の降りた地面を掻く。身につけた革鎧が、身じろぎのたびに、ぎしり…ぎしりと軋んだ。


 彼らに与えられた任は、単純なものだった。旧聖王国領へ分け入り、その現状をつぶさに探ること。噂の真偽を確かめ、いずれ帝国が接収するであろう「主なき土地」の下見をしてくること。

「気楽なもんだぜ、まったく」

 隊列の中で、若い騎兵が白い息とともに軽口を叩いた。

「国がひとつ滅んだってのは穏やかじゃねえが、要は無人の土地を散歩してくるだけの話だろ? 手柄を立てる機会もありゃしねえ」


「口を慎め」

 隊長格の年嵩の男が、低い声でたしなめる。だが、その表情にも、どこか緊張の色は薄かった。誰もが、心のどこかで高を括っていたのだ。滅んだ国などしょせん抜け殻にすぎないと。


 部隊はいくつかの班に分かれ、それぞれの目的地を目指して出立していった。

 地方の街道を進んだ班が、最初の異変に気づいたのは、それから半日と経たぬ頃だった。

 街道沿いの、最初の村。そこには誰もいなかった。

「……おい、どういうことだ、これは?」

 馬を下りた騎兵たちは、言葉を失って立ち尽くした。


 家々は、何ひとつ壊されていない。扉は開き、竈にはまだ灰が残り、干された洗濯物が風に揺れている。テーブルの上には、食べかけのまま冷え切った食事さえあった。まるで、住人たちが一斉に、食事の途中で煙のように消え失せてしまったかのように。争った形跡もなければ、略奪の跡もない。血の匂いすら、ほとんど残っていない。


 ただ、生きているものが、一人もいなかった。


 一軒の家の中を覗き込んだ騎兵が、ひっと喉を鳴らして飛び退いた。揺り籠がひとつ。まるでつい今しがたまで誰かがあやしていたかのように、かたり、かたりと風もないのに、かすかに揺れ続けている。その傍らには、編みかけの産着が置かれたままだった。別の家の戸口には、片方だけの小さな靴が、脱ぎ捨てられたように転がっている。持ち主の子どもの姿は、どこにもない。


 人だけではない。犬も鶏も家畜の一頭さえ、その村には残っていなかった。あるのは恐ろしいほどの静寂だけだった。風が軒先を鳴らす音が、やけに大きく耳に響く。


「戦じゃ……ねえ」

 若い騎兵が、震える声で呟いた。先ほどまでの軽口は、もうどこにもなかった。

「戦ならこうはならねえ。死体もねえ血もねえ……人だけが消えてやがる。こんなの…こんなのは——」

 彼はそれ以上、言葉を継ぐことができなかった。


 次の村もその次の街も同じだった。生命の絶えた集落が、街道沿いにまるで点を打つように、いくつも、いくつも続いていた。夜になっても、どの窓にも灯はともらない。煙突から煙の一筋も立ちのぼらない。彼らは、死そのものが通り過ぎた跡を、ただ辿っているにすぎなかった。


 やがて、恐怖に耐えかねた地方偵察の班は、任を半ばで放り出し、砦へと逃げ帰った。


 だがそれでも、まだましなほうだったのだ。


 もう一つの班——旧聖王国の心臓部、かつての聖都アルディア・ラ・ベリャへと向かった班は、ついに、ただの一人も戻ってこなかった。


 彼らが最後に打った早馬の報せは、聖都の巨大な城門を、遥かに望む地点からのものだった。門は固く閉ざされ、城壁の内側は不気味なほどに静まりかえっていたという。


 けれど、その静寂の奥から——閉ざされた門のそのさらに向こうから、何か名状しがたい濃密な気配が、じわりと滲み出してくるのを、斥候たちは確かに感じ取っていた。生きた人間のものではない、冷たく粘りつくような気配を。

 

 その報せを最後に、彼らからの便りは、ふつりと途絶えた。


 帝国の会議室に、重い沈黙が満ちていた。

 卓を囲む将軍たちの顔は、一様に強張っている。壁の地図には、消息を絶った偵察班の経路が、赤い印で記されていた。その印は、旧聖王国の各地に、点々と散らばっている。生きて戻った者の口から語られた、あまりに異常な報告。そして、聖都へ向かった者たちの完全なる沈黙。


 もはや、「主なき土地の下見」などという、のどかな話ではなかった。


 その場に居合わせた、生き残りの斥候の一人が、なお蒼白な顔で震えていた。彼は幾度も水を飲み、それでも渇きの癒えぬ喉から、切れ切れに自分の見たものを語った。人の消えた村。灯のともらぬ街。聖都から漂ってきたという、あの気配のこと。語るうちに彼の声は上ずり、両手は小刻みに震え続けて、止まることを知らなかった。


 将軍たちは、誰も口を開かなかった。開けなかった、と言うべきかもしれない。


 その沈黙を破ったのは、いつのまにか作戦室に姿を現していた、皇帝ヴァルドリックの声だった。

 彼は、赤い印の散らばる地図を、しばらくの間、無言で見つめていた。先日、余裕の笑みとともに指でなぞった、あの「主なき土地」を。そこに潜んでいたものの正体を、彼はまだ知らない。知らないまま、それでもこれが片手間で片づく相手ではないことだけは、痛いほどに悟っていた。


 やがて皇帝は静かに、しかし有無を言わせぬ響きで、命を下した。

「——勇者を出せ」


 将軍たちが、はっと顔を上げる。


 皇帝は、地図から視線を上げぬまま続けた。

「二人ともだ。出し惜しみはせぬ」


 その一言に、作戦室の空気が、目に見えて張り詰めた。


 勇者。


 この世界にわずか十二人しか存在せぬ、神滅の担い手。帝国はそのうちの二人を抱えているという、比類なき武の象徴だった。だが、その二人を同時に、しかも一つの戦場へ投じるなど、帝国の長い歴史の中でも、そうそうあることではない。それは魔王級の脅威にのみ許される、最後の切り札だ。


 将軍たちの脳裏に、二人の勇者の姿がよぎった。誠実にして清廉、双剣を背負う若き武人と——金のためにしか動かぬ…あの札付きの男。


 水と油のごとき二人を並べてまで送り込まねばならぬ相手が、あの土地には潜んでいる。皇帝のその判断が、事態の深刻さを、何よりも雄弁に物語っていた。


 誰も異を唱えなかった。いや、唱えられなかった。


 こうしてレーヴェンガルド帝国の切り札が、静かに抜き放たれる。旧聖王国の地で待つものの正体を、まだ誰も知らぬまま……


 第七話 了

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