第六話「沈黙の代償」
カビと、乾いた羊皮紙の匂いがした。
地下深くに穿たれた王宮の宝物庫は、外の光からも喧騒からも切り離された、別世界のような場所だった。天井近くのわずかな採光窓から、埃を孕んだ光の柱が斜めに落ちている。
その淡い光を浴びて積み上げられた金貨が、宝石が、黄金の燭台が、鈍く輝いていた。何百年という時間が、そのまま壜詰めにされているような静けさ。それを破るのは、床を打つ女の靴音だけだった。
エレオノーラは再びログインし、クルエンタ・フレイヤとして、悠然とその場所を歩いていた。
深紅のドレスの裾が、磨き抜かれた石の床を撫でていく。彼女が一歩進むたびに、金貨の山がさらさらと崩れ宝石が転がった。けれど彼女は、それを一瞥もくれない。散歩の途中で道端の小石を見やる程度の関心しか、そこにはなかった。
(うわー、本当に山だわ。ゲームのラスダンの宝箱、全部まとめて床にぶちまけた感じ)
吸血戦姫としての完成された美貌の奥で、中身はあくまで、つい先日まで日本でゲームに明け暮れていた一人の少女である。その落差を、彼女自身は少しもおかしいとは思っていなかった。むしろ、こういう時に冷静でいられるのは、ゲーマーの強みだとすら思っている。
慧が手をかざすと、空間がわずかに歪み、半透明の窓が開いた。アイテムボックス——R.F.Oをやり込んだプレイヤーにとっては、息をするのと変わらないほど馴染んだ機能だ。金貨が、宝石が、調度品が、見えない巨大な口に吸い込まれるように、次々とその窓の向こうへ消えていく。数百万という財貨が、ものの数分で跡形もなく彼女の手の内に収まった。
罪悪感も、高揚もない。あるのは、ただ合理だけだった。
(残しておく理由がないのよね。空っぽになったこの国の土地、いずれどこかの国が漁りにくるでしょ。その時に、こんな軍資金まで一緒にくれてやる義理はないわ)
他国を利する必要などどこにもない。持っていたところで困ることもない。慧にとってこの接収は、ざまぁでも略奪でもなく、ただ盤面を有利に整えるための、ごく当たり前の一手にすぎなかった。
そのまま彼女は、財宝の間の奥に続く書庫へと足を向けた。天井まで届く書架に、革表紙の背がびっしりと並んでいる。歴史書、地誌、神学、王家の記録——聖王国アルディアが数百年かけて蓄えた知識の総体が、誰に読まれることもなく眠っていた。
(こっちが本命)
財宝には興味がなくとも、ここにあるものは別だ。情報こそが、彼女にとっての最大の武器だった。剣でも魔法でもない。知らないことを知り、誰も気づいていない隙を突く——それがゲーマーである彼女の戦い方の根幹だ。
書架の一冊一冊が音もなく吸われていく中、ふと一冊が、彼女の手の中に残った。円環状に配された十二の星と、それを束ねる柱の意匠が箔押しされた、古い装丁の書物。創世神話の類いらしかった。慧は、なんとなくその頁を繰る。
太古、世界は形なき混沌であったという。創造神アウレリオンは、それを秩序へ変えるにあたり、おのれの身を十二に分かった。天を巡る月は一年に十二度満ち欠けし、天の王たる星は十二年で天を一周する。十二とは、天そのものが刻む完全な周期なのだと、その頁は語っていた。神は六つを陽の柱、六つを陰の柱とし、相対させて均衡を成した。光あれば闇、生あれば死——二つで一つ、十二で全。それが世界の理なのだと。
やがて異界より魔神が流れ着く。理のいずれにも属さぬ、十三番目の影。創造神はさらに身を削って十二の神剣を打ち、選ばれし者を十二勇者とし、地は十二の龍王を遣わして、これを封じた。されど、その力の源は絶たれなかった——。
(……理の外の十三番目)
その一節を、慧は指で軽く叩いた。異界から流れ着いた、世界の枠組みに収まらない存在。それは奇妙なほど、いまの自分に似ていた。R.F.Oという別の世界から持ち込まれた吸血の女神。口の端がわずかに上がる。面白い符合だとは思う。けれど、いまはまだ深く考える時ではない。彼女は書を閉じ、それもボックスへ収めた。
書庫の最奥に立ったとき、それは流れ込んできた。
この王宮そのものに沁みついた、おびただしい記憶の残響が。殺された者、ここで生きていた者たちの想いの断片が、堰を切ったように慧の内側へなだれ込む。
いちばん強く立ち上がってきたのは、ひとつの像だった。断頭台へ引き出される金色の髪の女。それを取り囲む、無数の顔、顔、顔。歓声。罵声。投げつけられる石。「魔女を殺せ」という、地鳴りのような合唱。
慧は知った。彼らがどこから来たのかを。
この王国には、転生者のエリスが伝えた…新聞があった。為政者に都合のいい物語を、隅々の村にまで刷り込むための仕組み。それによってエレオノーラの悪名は——身に覚えのない罪は——国土の果ての小さな集落にまで、余すところなく行き渡っていた。活字の上で彼女は、国を傾けた淫婦に、民を飢えさせた毒婦に、隣国と通じた裏切り者に仕立て上げられていた。そのどれ一つとして真実ではなかったのに、文字を信じる者にとって、刷られた言葉はそのまま揺るがぬ事実だったのだ。
そして、この世界は娯楽が乏しかった。
だからこそ、亡国の魔女の公開処刑は、またとない見世物となった。人々はそれを祭りのように待ち望んだ。記憶の中には、わざわざ何日もかけて地方から都へ上ってきた者たちの姿さえあった。子を肩車し、ほら、あれが悪い魔女だよ…と指をさす父親。処刑の見える窓辺の席を高値で売りさばく宿屋。断頭の刃が落ちた瞬間、広場を埋めた群衆は、芝居の名場面にでも立ち会ったかのように、どっと沸いたのだという。
(……そういうことね)
慧は静かに目を伏せた。
ならば、この国に無関係な者などいない。都にいた者も、遠い村にいた者も、誰ひとり「彼女はそんな人間ではない」と声を上げなかったという一点において、等しく同じだった。
その内側で慧は、目の前に広がっていく結末をただ見つめていた。胸の奥には、もうあの軋みも迷いもなかった。振り払うのはたやすかった。なかったことにして、合理の鎧の内側に閉じこもることもできた。けれど彼女はそうしなかった。流れ込む記憶のひとつひとつを、ただ受け止め続けていた。
これは自分が選んだ道だ。だから後悔もしない。背負って潰れるためではなく、知らぬ存ぜぬと切り捨てるためでもない。受け止めて、なお揺らがないために。少し前までテスト勉強もそこそこに、ゲームばかりしていた自分が、こんな顔をする日が来るとは思わなかったけれど。
書庫を出ると、彼女はふたたび、地下から地上へと続く長い階段をのぼっていった。
地上には、すでに人の気配のない聖都が広がっている。あれほどの歓声を上げた群衆も、もうどこにもいない。風が無人の街路を吹き抜けていくだけだ。
その風の中に立ち、クルエンタはすっと右手を持ち上げた。
彼女の掌の上で、血がひとりでに鳥のかたちを結んでいく。一羽、また一羽。羽ばたきもしない、音もない、深紅の鳥たちが、彼女の腕に静かに止まっていった。それはこの国の他の街へ村へ、まだ生き残っている者たちのもとへと放たれる使者だった。
「——行きなさい」
囁くような、けれど一片の迷いもない声で、彼女は命じた。
「一人残らず。おなじだけの報いを受けなさい」
血の鳥たちが、いっせいに飛び立つ。深紅の群れが、夕焼けに灼かれた空へと吸い込まれるように散っていく。その軌跡は、しばらく宙に淡い赤の残像を引き、地平の彼方へ消えていった。今夜から幾日かのうちに、聖王国アルディアの全土に、おなじ結末がもたらされるだろう。声を上げなかった者たちのもとへ等しく。
その光景を、彼女は最後まで見届けた。
その瞳にはためらいの色も、自分への問いかけも、もう何ひとつ浮かんではいなかった。
血の鳥をすべて放ち終えると、無人の聖都には、ふたたび静寂が戻ってきた。
その静けさの中で、慧はふと足を止めた。
(……私はこの国を、悪役令嬢のために滅ぼしたようなものよね。なのに)
なのに、自分はエレオノーラという女のことを、本当の意味では、何も知らない。
むろん、知識としては知っている。この世界の下敷きとなった乙女ゲーム『聖乙女のロンド』。その中でエレオノーラは、ヒロインを虐げ、最後には無様に断罪される悪役令嬢だった。攻略対象を横取りする高慢な令嬢。そういう「キャラクター」としてのエレオノーラなら、プレイヤーだった慧はよく知っている。
だが、それはしょせん画面の向こうの役回りにすぎない。
この世界に、生身の人間として生きたエレオノーラが、実際に何を思い何に苦しみ、どんな人生の果てに断頭台へ消えたのか。その内側の実感を、慧はまるで知らずにいた。転生したとき、この身へ流れ込んできたのは、彼女の記憶ではなく、名状しがたい感情の澱——悔しさ、悲しみ、諦めだけだったからだ。
(ゲームのキャラじゃなくて……ひとりの人間としてのあなたを、知っておきたい。私が、誰の無念を晴らしたのか)
方法は一つだけ思いついた。クルエンタ・フレイヤの権能は、血から記憶を読む。ならば——エレオノーラ自身の血を読めばいい。
人けのない王宮の一室で、慧は静かに意識を切り替えた。ログアウト。
深紅の女神の姿が陽炎のように解け、あとには、ひとりの儚げな令嬢が残る。エレオノーラの身体だ。この姿でいる間、女神の権能は何ひとつ使えない。
彼女は、傍らにあった硝子の小瓶を手に取ると、細い指先に、そっと刃を這わせた。つう…と赤い雫が滲み、瓶の底へと滴り落ちていく。数滴が溜まったところで、傷口を布で押さえ、慧はその血を封じた瓶を、しっかりと握りしめた。
そして、しばらく時間を置いて、ふたたび意識を切り替えログインした。
令嬢の姿が、深紅の女神へと戻った。クルエンタは、掌の上の小瓶の封を開け躊躇なく、その血を一息に呷った。
その刹那。
流れ込んできたのは、ゲームの設定になど、どこにも書かれていなかった記憶だった。
——国のため民のためと、幼い頃から己を殺して尽くしてきた日々。報われぬまま身に覚えのない罪を着せられた、あの理不尽。信じていた者たちに背を向けられ、弁明の機会すら与えられず、罪人として扱われる絶望。そして処刑前日……
慧は静かにそのすべてを受け止めた。
(そう…「悪役令嬢」の裏側で、エネオノーラはそういう人物だったのね。ゲーム内では決して語られることのなかった……)
画面の中の記号でしかなかった彼女が、初めて、血の通った一人の人間として、慧の内側に立ち上がった。感情だけしか受け取れなかったその欠落が、いま、血によって確かに埋められたのだ。
この記憶は忘れない。慧は、そう静かに胸へ刻んだ。
麦の匂いが、まだ風に残っていた。
聖都から遠く離れた、名もない地方の村。井戸端では女たちが洗い物の手を止めて笑い合い、軒先では老人が陽だまりに目を細めている。畑から戻った男たちの声が、夕暮れの空気にのんびりと溶けていた。ここには都の喧騒も、断頭台の血の匂いも届かない。ただ、ありふれた一日の終わりが、いつものように過ぎていくだけのはずだった。
そこへ音もなく、血色の影が差した。
悲鳴を上げる間もなかった。深紅の鳥が地に降り立つや、それは人のかたちを取り、村のあちこちで静かに、しかし確実に、灯が消されていった。逃げ惑う足音もやがては途絶える。抵抗らしい抵抗もないまま、村はただ、夕闇よりも深い沈黙へと沈んでいった。
おなじことが、いくつもの村でいくつもの街で起きていた。畑に農具を残したまま戻らぬ者。竈の火が消え、二度と灯らぬ家。川へ水を汲みにいったきり戻らぬ娘を、待つはずだった母の姿さえ、もうどこにもない。
聖王国アルディアの全土で、無数の灯が抵抗の間もなく一つ、また一つと絶えていく。それは戦ではなかった。剣のぶつかる音も、勝鬨もない。ただ、結末が、約束どおりに淡々と果たされていくだけだった。夜が一つ訪れるごとに、地図の上から、また一つ村の名が消えていくように。
その一つの村で、血人形は逃げ遅れた一人の男の前に立った。
四十がらみの痩せた農夫だった。腰を抜かし、地を這うようにして後ずさる彼の足は、もう立つことすらできずにいる。血人形の虚ろな瞳がただ静かに男を見下ろしていた。
「ま、待ってくれ……っ」
男は、震える声を振り絞った。
「お、俺は——俺は、あの方に救われたんだ……っ! 飢饉の年だ、もう何年も前になる。村が飢えて、子どもらが次々死んでいったあの年に……エレオノーラ様が掛け合ってくれて、領地の蔵を開いてくださった。施しをくださったんだ。あのお方はそんな……民を苦しめるような人じゃなかった……! だから、だから俺を——」
そこまで言って男の言葉は、ぴたりと止まった。
自分が、いま何を口走ったのか。それに気づいてしまった顔だった。血の気の引いた頬が、さらに白くなる。命乞いのつもりだった。けれど彼は、命乞いをしようとして、よりにもよって、自分自身の罪を、その口で証明してしまったのだ。
知っていたのだ。この男は。
エレオノーラがどんな人間だったかを、誰よりもよく知っていた。命を救われた、その恩を確かに胸に刻んでいた。それなのに——あの処刑の日、群衆に混じって彼もまた口をつぐんだ。声を上げれば、自分まで魔女の仲間と見なされる。
そう恐れて保身のために黙り込み、まわりに合わせて、石の一つも投げたのかもしれない。「あの方はそんな人ではない」と、ただの一言…叫ぶことができなかった。
恩を知る者の沈黙は、何も知らぬ者のそれよりはるかに重い。何も知らずに石を投げた者は、ただ無知だった。けれど、この男は知っていた。知っていて、なお、自分の身惜しさに口をつぐんだ。その一秒の沈黙の積み重ねが、誰一人声を上げぬ広場をつくり、処刑台へと続く道を舗装したのだ。
血人形の手が、静かに振り上げられた。男の喉から、もはや言葉にならない音が漏れる。許しを請う暇も悔いる暇も与えられはしなかった。そして、それきり——村は完全な静寂に包まれた。
その断片が、慧の内側に流れ込んできた。
血人形が触れた命を通して、エレオノーラの記憶のかけらが、また一つ落ちてくる。景色そのものは見えない。けれど、その温度だけは痛いほど鮮明に伝わってきた。
痩せ細った子どもに、温かいスープの椀を差し出す手。「もう大丈夫よ」と囁く、優しい声。蔵を開くことに渋る家臣を、毅然と押し切ったときの、まっすぐな背中。民に尽くすのは貴族の務め——そう信じて疑わなかった、一人の少女のまっすぐすぎる魂。
そして、その温もりの記憶のすぐ隣に、もう一つの感情がひっそりと寄り添っていた。
あの処刑台の上で。あれほど尽くした民の誰一人として、自分のために声を上げてはくれなかったと知ったときの——責めるのでも恨むのでもない、ただ静かに、深く澄んでいくような哀しみ。
(……知っていて、黙ったんだね)
慧はその感情をそっと受け止めた。
揺らぎはしなかった。それは咎ではない。許しでもない。ただ、起きたとおりに引き受ける。それだけのことだった。あの男を恨むことは慧にはない。けれど、見逃してやる理由もまた、どこにもなかった。
(いずれ——年に一度くらいは、鎮魂の日でも設けてあげようかな)
それは贖罪ではなかった。ただ、自分の中を通り過ぎていく膨大な記憶へのささやかな手向け。背負うのでも忘れるのでもなく受け止めて、なお前を向く。そう決めた者だけが浮かべられる、静かな表情だった。
地平線の彼方では、なお別の村へと向かう深紅の群れが、夕闇を縫って飛んでいた。
それから刻が過ぎ……
聖王国から遠く隔たった隣国、レーヴェンガルド帝国の西の関所に——泥にまみれ髪を振り乱した一人の女が、転がるようにして駆け込んでいた。
その喉から絞り出されたのは、ただ一つの叫びだった。
「……魔女よ……亡国の魔女が……アルディアを、一日で……!」
歌の聖女、エリス・フォン・クラインだった。
逃げ延びた彼女の悪運だけが、いま新たな歯車を、静かに回し始めようとしていた。
第六話 了
最後まで読んでいただきありがとうございましたm(_ _)m
面白いと思ってくださった方は、下のブックマークや評価(☆☆☆☆☆)で応援していただけると、執筆の励みになります!




