第五話「聖王国アルディア、滅亡」
夕暮れが王都を赤く染めていた。
けれど、その赤はもはや夕陽のものだけではなかった。崩れ落ちた家々から立ちのぼる炎、石畳に広がる血の海、そして空をなお覆い続ける……
緋色の戦場の紅。
すべてが混じり合って、聖王国アルディアの王都は、この世のものとは思えぬ、凄惨な茜色に塗り潰されていた。
あれほど歓声と熱狂に満ちていた広場は、いま静まり返っている。
いや、正確には、音が変わっていた。逃げ惑う悲鳴も命乞いの声も、もうほとんど聞こえない。代わりに広場を満たしているのは、無数の足音だった。生気を失い虚ろな瞳をした者たちが、ひたひたと規律正しく行進する音。
血人形──悍ましき異形の人形と化した、かつての民、かつての兵たちの軍勢の足音だった。
半日にも満たぬ時間で……栄華を誇った聖王国は、吸血神ただ一柱の手によって、亡国の縁へと突き落とされた。その光景の中心、緋色の空の下に、クルエンタ・フレイヤは、静かに佇んでいた。
その内側で柊慧は、目の前に広がる結末を、ただ見つめていた。胸の奥には、もうあの軋みも迷いもなかった。エインヘリャルが生まれるたびに流れ込んでくる、人々の生前の記憶。娘の名を呼んだ兵。明日の市場を楽しみにしていた商人。恋人と会う約束をしていた、年若い衛兵。そのひとつひとつを、慧は、振り払いはしなかった。ただ受け止め続けていた。
これは自分が選んだ道だ。だから悔やまない。
慧の意識が、ふと戦場の一角に、引き寄せられた。
倒れた人々の中を這うようにして、必死に逃げようとしている、純白の影がひとつ。
エリス・フォン・クラインだった。
聖女の装束は、泥と返り血にまみれ、もはや見る影もない。整えられていた髪は乱れ、可憐だった顔は、恐怖と焦燥に醜く歪んでいる。彼女は自分を守るはずの八人の青年たちも、慕ってくれていたはずの民も、何もかもを置き去りにして、ただ一人、自分だけが助かろうと無様に這いずっていた。
慧は音もなく、その前へと降り立った。
逃げ道を塞ぐように現れた戦姫の姿に、エリスがびくりと、全身を凍りつかせる。見上げたその顔は、恐怖に染まりきっていた。けれど次の瞬間、エリスの瞳にすがるような光が宿った。そうだ、自分には、これがあると言わんばかりに。
「──歌よ、来たれ」
震える声を、けれどエリスは、必死に旋律へと変えた。それは彼女の最強にして唯一の武器。すべてを癒やし、あらゆる魔を祓う、歌の聖女の神聖なる聖歌だった。
かつて、王国に攻め入った魔族たちを、ひとり残らず消滅させた、あの聖なる力。澄んだ歌声が、紅い戦場に清らかな光の波となって広がっていく。
その光がまっすぐに、クルエンタを包み込んだ。
エリスの口元に勝利を確信した、歪んだ笑みが戻りかける。これで消える。魔族と同じように。あの恐ろしい魔神も私の聖歌の前では──。
けれど。
クルエンタは、消えなかった。
それどころか、その身に傷ひとつ、つかなかった。聖なる光は、戦姫の肌に触れた瞬間、まるで意味を失ったかのように霧散していく。クルエンタはただ無言で、冷ややかにエリスを見下ろしている。何事もなかったかのように。
「……え?」
エリスの歌が止まった。
「うそ……なんで……?」
掠れた声が戦慄に震える。
「なんで、私の歌が…聖属性が効かないのよ……!? 魔族が攻めてきたときだって……あいつらは、私の歌で消滅したのよ……ひとり残らず……みんな消えたのに……っ!」
信じられない…という顔で、エリスは自分の喉と、目の前の魔神とを交互に見やった。自分が世界の中心だと、自分こそが選ばれた主人公なのだと、そう信じて疑わなかった少女のその根幹が、いま音を立てて崩れていく。
自分の力が通じない相手。
そんなものがこの世界に、存在していいはずがなかったのだ。彼女の世界では……
クルエンタは──慧はその動揺を、ただ静かに見つめていた。
告げる言葉は何もなかった。お前が誰を嬲り殺したのか、お前がいま誰の前にいるのか。その真実を教えてやる気は、毛頭なかった。ただ為すべきことを為すだけ。
慧はゆっくりと、右腕を虚空へと掲げた。
その手のひらの上で地に流れた血が、吸い寄せられるように集い始める。集った血は見る間に凝固し形を成し、やがて一本の深紅の槍へと結晶していった。穂先は鋭く禍々しく光り、その一投が決して的を外さぬことを、無言のうちに告げている。
「スキル──終焉の槍」
(血を凝固させて作る投擲武器。オーディンの槍、グングニルを思わせる必中の一撃。投げた槍は必ず対象を死に至らしめる)
「グングニル」
慧の唇がその言葉を、静かに紡いだ。
「あの女を貫けーー」
「ま……待って」
エリスが引きつった声を上げる。
「待ってよ、私は聖女なのよ!? この世界の主人公なのよ!? 私がこんなところで死ぬわけ──」
その言葉が、終わるよりも速く。
慧は深紅の槍を放った。
それは音すら置き去りにする、神速の一閃だった。紅い軌跡が空気を裂き、一直線にエリスの胸へと吸い込まれていく。回避する間も防ぐ術もありはしない。槍は寸分の狂いもなく、エリス・フォン・クラインの心臓を深々と貫いた。
「……あ」
エリスの目が見開かれる。自分の胸から生えた、深紅の槍を彼女は、信じられないものを見るように、見下ろした。そしてその瞳から、急速に光が失われていく。
ガタリ…と。
糸の切れた人形のように、エリスの身体が崩れ落ちた。
心臓を貫かれ、歌の聖女エリスは確かに絶命した。
慧はその亡骸を、しばし無言で見下ろしていた。胸に去来するものは、奇妙なほど何もなかった。怒りも喜びも達成感さえも。ただ為すべきことを為した…という静かな事実だけが、そこに横たわっていた。
確かに仕留めた。確認するまでもない。
終焉の槍に貫かれて…生きていられる者など、いはしないのだから。
慧は静かに、踵を返した。次の為すべきことへ。この国の最後の後始末へと。
だから──気づかなかった。
慧が背を向け去った…その直後。
エリスの力なく投げ出された左手。その薬指に嵌められた、一つの指輪が、ふいに、い光を放ち始めたことに。それは第一王太子アレクサンデルが、エリスに贈った婚約指輪だった。
光はみるみる強さを増し、やがてエリスの全身を温かな輝きで、包み込んでいく。心臓を貫いていたはずの深紅の槍が、その光に触れて、さらりと血の砂へと還っていった。塞がる傷。戻る、鼓動。失われたはずの命がその身体に、静かに呼び戻されていく。
王家の秘宝──「復活の指輪」所有者の死に際し、ただ一度だけ、その命を現世へと繋ぎ止める、奇跡の宝。
そのたった一度の奇跡を使い果たし。
指輪は役目を終えたように、ぱきりと音を立てて、無数の欠片へ、砕け散った。
──そして、その光の中で。ひとつの過去がよぎった。
*
まだ、すべてが穏やかだった頃。
アレクサンデルは、この指輪をエリスへと贈った。
「わたくしには、もったいない指輪です」
エリスはそっと目を伏せ、慎ましやかに辞退してみせた。
「殿下のお気持ちだけで、わたくしは十分に……」
「いや、君に受け取ってほしいんだ」
アレクサンデルは、穏やかに微笑んだ。
「君のような、無欲で清らかな人だからこそ」
彼はその指輪に秘められた真の力を──持ち主の命を救う、王家の秘宝であることを…あえて、口にしなかった。なぜなら、彼は心の底から信じていたからだ。もしこの力を話せば、エリスはきっと…もっと頑なに拒むだろう。自分だけが助かるための護りなど、この清廉な少女が受け入れるはずがない…と。
だから彼はただ、こう言って、それを彼女の指に嵌めたのだった。
「君によく似合う指輪だと思ったんだ。それだけだよ」
*
光が収まる。
エリスは、荒い息を吐きながら、むくりと上体を起こした。自分の胸に手を当て、確かに脈打つ鼓動を確かめて信じられない…というように目を見開く。
生きている。
死んだはずなのに、私は生きている──。
その視線が、砕け散った指輪の欠片へと向けられた。そしてエリスは悟った。これが自分を救ったのだと。
真の聖女ならば、ここで思ったはずだ。
愛している男性が…アレクサンデルが、命を救ってくれたと。彼の愛が私を、生かしたのだと。
けれどエリスは違った。
彼女の醜く歪んだ唇が、つり上がっていく。恐怖の色は、もうどこにもなかった。代わりにそこに浮かんだのは抑えきれぬ歓喜と、そして──途方もない思い上がりだった。
「……ふ、ふふっ」
エリスは笑い始めた。
「アレクサンデルが、こんなすごい指輪を私にくれていたなんて……ぜんぜんっ知らなかったわ。あの人…こんな大事なこと黙ってたのね。……でも、そっか」
彼女は、砕けた指輪の欠片を愛おしむように、指先で撫でた。けれどそれは、贈り主への感謝などでは、断じてなかった。
「やっぱり、私……ツイてる!」
恍惚とエリスは、空を仰いだ。
「死んだって生き返るんだもの。こんなの運命に愛されてるとしか…思えないわ。そうよ、私は特別なの。やっぱ、この世界は私のためにあるのよ……!」
「なんてったって、わたしは『聖乙女のロンド』の主人公なんだから!!」
彼女は知らなかった。
その指輪が、もう二度と自分を救わない、たった一度きりの薄氷の奇跡であったことを。自分を救ったのが、自分が踏み台にし利用し尽くしてきた男の純粋な愛であったことを。
そして──たった今、自分を殺したあの魔神こそが、自分が嬲り貶め嗤い殺した、エレオノーラ・ヴァン・ローゼンベルクの、行きついた先であることを。
その何ひとつ。
ただ、自分は運命に選ばれた特別な人間なのだとそう信じ込んで、エリスはよろめきながらも、立ち上がった。そして誰にも見つからぬよう、崩れた瓦礫の陰を縫って滅びゆく王都から、ひとり逃げ延びていった。
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日が完全に落ちた。
最後のひとりまで、為すべきことを為し終えたとき、緋色の戦場が、すうっと空から引いていった。紅に染まっていた世界が、本来の夜の色を取り戻していく。
静寂の中、クルエンタはただ一人、廃墟と化した王都の中央に立っていた。背後に整然と並ぶ、おびただしい数の血人形の軍勢。かつて、この国に生きた人々の成れの果て。
もう力を使う必要はなかった。慧は静かに長く繋いでいた、神への接続を解いた。
ログアウト。
その瞬間、全身に満ちていた神の力が、潮が引くように抜けていく。強靭だった四肢から力が失せ、研ぎ澄まされた感覚が、鈍く頼りないものへと戻っていく。紅い髪は再び、痩せた令嬢の金の髪へ。視界は低く弱くなり──そして。
戻ってきたのは、力の喪失だけではなかった。
「……あ……」
令嬢の身体に感情が、堰を切ったようになだれ込んできた。
クルエンタの神体でいる間、戦いの論理の奥へと、遠ざけられていた、エレオノーラの感情。その生々しい温度のすべてが、いま令嬢の身体とともに慧の胸へと、一気に返ってきたのだ。
屈辱。慟哭。憎しみ。
そして──自分がたった今、何をしてしまったのかという、その重さのすべてが。
慧はその場に、くずおれるように膝をついた。
痩せた白い手が視界に入る。神の手ではなくなった、ただの少女の手。その手で自分は、ひとつの国を滅ぼしたのだ。何万という命を奪い、そして永遠に縛りつけた。震える指先で、慧は足元の冷たい灰を、そっとすくい上げた。さらさらと……それは指の間からこぼれ落ちていく。
声は出さなかった。涙も流さなかった。
ただ、慧は長いあいだ、その灰を見つめ続けていた。後悔ではない。けれど軽くもない。自分が選び自分が行うと決めた、その重さの手触りを慧はひとつひとつ、確かめるように噛みしめていた。
夜風が廃墟を吹き抜けていく。
ルミナスティア大陸に、長く栄華を誇った聖王国アルディアは──こうして、たった一日のうちに、魔界の吸血神、クルエンタ・フレイヤの手によって、地上から消え去ったのである。
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そして、同じ夜。
王都から遠く離れた暗い森の中を。
ひとりの少女が、ふらつく足取りで逃げ続けていた。
エリスである。
泥にまみれ息を切らしながら、それでもその瞳には、消えることのない、執念の光が宿っていた。彼女は、立ち止まり振り返って、遠く赤くくすぶる、王都のあった方角を睨みつけた。
「……許さない」
絞り出すような声が、闇に落ちる。
「人の幸せを、よくもめちゃくちゃにしてくれたわね。あの化け物……いったい何なのよ……っ」
もちろん、エリスは知る由もなかった。あの魔神の正体も自分が、本当はどれほどの薄氷の上を歩いているのかも。彼女の頭にあるのは、ただ自分の築き上げた幸福を奪われたという、一方的な逆恨みだけだった。
「ここは私の世界なのよ! 私が好き勝手していい……私だけの世界。それをぶち壊すなんて……絶対に許さない。このままじゃ、絶対に終わらせない……っ!!」
自分を殺した相手に復讐を誓う。
そのあまりにも滑稽で、あまりにも哀れな誓いを、夜の森の闇だけが、静かに聞いていた。
この日、聖王国アルディアは確かに滅亡し──ひとつの物語が幕を閉じた。
そして…逃げた聖女を巡る、もうひとつの物語が、いま静かに、その幕を開けようとしていた。
第五話 了
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