第四話「吸血戦姫 、降臨」
歓喜の歓声が、まだ広場を満たしていた。
国王が安全を宣言し人々は救われたと信じ、抱き合い涙を流して、その勝利に酔いしれていた。長い悪夢は終わったのだと誰もが、心の底からそう信じていた。
その絶頂のさなかに。
ぱきりと。
澄んだ、けれど…ひどく場違いな音が響いた。
続いて──びちゃりと。重く濡れた音がそれに重なる。
歓声の波が、ふっと途切れた。人々の視線が音のしたほうへ──
王城のバルコニーへと吸い寄せられる。そして、そこに立っていたはずの自分たちの王の姿に、誰もが言葉を失った。
国王の首がなかった。
胴体だけとなった国王の身体が、糸の切れた人形のように、その場にどさりと崩れ落ちる。宙を舞った首は、放物線を描いて貴賓席のすぐ近くの石畳へと、鈍い音を立てて転がり落ちた。安全を宣言したばかりのその口は、何が起きたのかも理解できぬまま、ぽかんと半開きになっていた。
一拍の完全な静寂。
そして次の瞬間、広場は地獄の釜の蓋が開いたかのような、絶叫に包まれた。
「うわああああっ!」
「王が……国王陛下が……!」
「な、なんだ!? 何が起きた!?」
悲鳴と怒号が渦巻く中、人々は、ようやく気づき始める。広場のはるか頭上。さっきまで、誰の目にも、何も映っていなかったはずのその虚空に。
一つの影が浮かんでいた。
血のように紅い長い髪。闇を織り上げたような漆黒の装束。その背からは赤い霧をまとった猛禽の翼のごときものが、ゆらりと広がっている。冷たく整った美貌に爛々と輝く、紅玉の瞳。
人ならざる、けれど人の形をした何か。それはゆっくりと、地上の人間たちを睥睨しながら、降りてくる。その存在を前に人々は、本能的に理解した。あれは自分たちが、決して触れてはならないものだと。
影は──いや、彼女は広場の中央、まだ煙のくすぶる処刑台の真上で、その動きを止めた。そしてよく通る、艶やかで酷薄な声で、高らかに名乗りを上げた。
「愚かな人間ども。我が名をその魂に刻むがいい」
声が空気を震わせる。
「我は、吸血戦姫──クルエンタ・フレイヤ。再生を司る魔界の魔神なり」
その透明な姿の内側で。
柊慧は静かに息を吸い込んでいた。
力が漲っている。指の先まで神の力が、満ちている。眼下に広がる憎悪と熱狂に酔いしれた無数の顔。エレオノーラを人として見ることを、最後まで拒んだ者たち。確かめ尽くした事実がいま、慧の胸の中で冷たく硬く結晶していた。
迷いはない。
ただ、ひとつだけ慧は自覚していた。この身体に宿ったクルエンタという存在が、戦いと血を渇望する、その荒々しい本能が自分の意識をぐいぐいと、好戦の側へと引っ張っていくのを。けれど、それに呑まれてはいない。手綱を握っているのは、あくまで自分だ。クルエンタの猛々しさは、いわば燃え盛る業火。その火をどこへ向け、どう燃やすかを決めるのは──柊慧という一個の意志だった。
怖くないと言えば嘘になる。これから自分がしようとしていることのその重さに慧の心は、確かに震えていた。
それでも。
「やるなら──全力」
慧は誰にも聞こえぬ声で、そう呟いた。
「あなたのために、エレオノーラ。とことん付き合ってあげる」
戦姫の腕が、ゆっくりと持ち上げられた。
そして慧は、最初の力を解き放った。
「スキル──緋色の戦場」
(半径数百メートル〜数キロ以内を「戦場」と認定する領域展開。戦場内で死んだ者は即座にヴァルホルへ送られる。さらに戦場内では自身の身体能力が飛躍的に上昇)
その瞬間、世界が染まった。
クルエンタを中心に、広場が王都が、見渡す限りの大地が、ぶわりと不吉な紅色のヴェールに包み込まれていく。空の青さも初夏の陽射しも、すべてが血のような赤に塗り潰されていった。それは領域の宣言だった。ここから先はもはや、人の世の理が及ぶ場所ではない。ここは戦姫が支配する、戦場。死がすべてに優先する、彼女の庭。
紅に染まった世界の中で、慧は自らの身体が、さらに一段軽く鋭くなるのを感じた。戦場の中では、その身体能力が、飛躍的に高まる。神はいよいよ、その本領を現すのだ。
「に……逃げろ!」
「化け物だ! みんな逃げ──」
誰かが叫び群衆が、我先にと出口へと殺到する。けれどもう遅い。
兵士たちが、勇敢にもあるいは恐怖に駆られて、クルエンタへと武器を向けた。放たれた無数の矢が、投げつけられた槍が、繰り出された剣の斬撃が、紅い空を裂いて戦姫へと殺到する。
だが。
その、ことごとくが──届かなかった。
矢は戦姫の肌に触れる寸前で、見えない壁に阻まれたように、ぽろりと落ちる。槍は、その身体をすり抜けるかのように、空を貫くだけ。渾身の斬撃すら、彼女の紅い髪一筋、揺らすことはできなかった。
クルエンタは、ただ、そこに佇んでいる。あらゆる攻撃を、まるで初夏の微風ほどにも感じていない様子で。圧倒的な隔絶した力の差。それを目の当たりにして、兵士たちの顔から血の気が引いていく。
「愚かな」
クルエンタの──慧の声が静かに、戦場に響いた。
「お前たちの脆弱な力では、我には傷ひとつ、つけられぬ」
そして慧は、二つ目の力の名を口にした。
「スキル──死者の館、ヴァルホル」
(戦場で死んだ者を連れ去り、血を吸って「エインヘリャル(血人形)」として兵士化する)
その言葉が、引き金だった。
クルエンタの頭上に血の館が出現した。そして軽く腕を振った。たったそれだけで、彼女に最も近かった兵士たちが、声を上げる間もなく、斬り伏せられ、貫かれ紅い戦場の地面へと倒れ伏した。けれど、それで終わりではなかった。
倒れた者たちの身体から、つうっと赤い糸のように、血が立ちのぼっていく。その血はクルエンタの頭上に浮かぶ館へと、吸い寄せられるように流れていった。そして──血を抜かれ、空っぽになったはずの骸たちが崩れ落ちる。
そして影から、地面から…染み出すようにして、無数の血色の人影が、音もなく立ち上がったのだ。それはもう、人ではなかった。
戦姫の眷属として生まれ変わった者──エインヘリャル。死してなお、戦場に縛られ、女神に仕える血の人形たちだった。
その光景に生き残った人々の理性が、音を立てて崩壊していく。仲間が家族が、たった今殺されたばかりの者が、虚ろな兵士となって自分たちへ、武器を向けてくるのだ。これほどの恐怖が、悪夢がほかにあるだろうか。
そして、そのひとり目のエインヘリャルが生まれた、まさにその瞬間。
慧の中に何かが、ぐにゃりと流れ込んできた。
「なに…これ?」
それは、たったいま、エインヘリャルと化した、その兵士の──生前のひとかけらの記憶だった。望んだわけでもないのに、血を介して、勝手に流れ込んでくる。屈強な体つきの、その兵士には小さな娘がいた。今朝、家を出るときその娘が、無事を祈って握らせてくれた、小さな押し花。それを胸の内ポケットに大切にしまっていた。
ついさっき。
「魔女を殺せ」と誰よりも大きな声で叫んでいた、その口で。
彼は家では、幼い娘の名を優しく呼んでいたのだ。
(……ゲームじゃ、こんなの流れてこなかった)
慧は眉を寄せた。生身で振るうと、殺した者の記憶まで流れ込んでくるらしい。厄介だが、やめる理由にはならない。
娘がいた。守りたいものがあった。ならばこの男は、人を想う痛みを誰より知っていたはずだ。知っていて──それでも「殺せ」と叫び、エレオノーラのために指の一本すら動かさなかった。
娘を抱く腕があったことは、許す理由にはならない。むしろ逆だ。優しさを知る者の残酷は、何も知らぬ者のそれより重い。
「あんたの事情まで背負う義理は、私にはないわ」
慧は静かに奥歯を噛んだ。
「これは、私がしたことだ」
声に出した。誰に言うのでもない。ただ、自分自身に刻みつけるように。
「正しいなんて、言わない。これが正義だなんて、口が裂けても言わない。でも──後悔はしない。悔やんだりは絶対にしない!!」
「スキル──血の女王令」
(エインヘリャルへの絶対命令権。血人形化した兵士を意のままに操る)
慧が、三つ目の力を発動した瞬間、立ち上がったエインヘリャルたちが、一斉にその動きを、女神の意思に同調させた。彼らはもはや、ためらわない。恐怖も痛みも感じない。ただ女王の命のままに、まだ息のある人間たちへと襲いかかっていく。
殺された者が、新たな殺し手となり、その手にかかった者がまた、新たな眷属となる。
戦場は、雪だるま式に死者の軍勢を、膨れ上がらせていった。一人殺せば一人増える。十人殺せば十人増える。クルエンタはただ一人で、無尽蔵に増殖する、死の軍団を率いていた。もはや誰にも止めることなどできはしない。これは戦いですらなかった。
一方的な収穫だった。
紅い戦場の上空で、慧はその光景を、静かに見下ろしていた。
貴賓席に目をやる。
第一王子アレクサンデルは、剣を抜くことすら忘れ、ただ茫然と立ち尽くしていた。完璧な王子であったはずの彼の顔には、理解の及ばぬ事態への純粋な驚愕だけが、貼りついている。
そしてその傍らで。
エリスがいた。
さっきまでの心優しい聖女の仮面は、もうどこにもなかった。彼女は青ざめた顔を恐怖に引きつらせ、なりふり構わず、自分だけ助かろうと人混みをかき分けて逃げ惑っていた。
「どいて!」「邪魔!!」と、これまで自分を慕っていた人々を、突き飛ばし踏みつけにして。その醜い本性を惜しげもなく、さらけ出しながら。
けれど、エリスは知らない。
あの空に浮かぶ、恐ろしい魔神が。自分が嬲り貶め、嗤い殺した、あのエレオノーラの行きついた先であることを。自分が今、必死で逃げ惑っているのは、ほかでもない、自分自身が踏みつけにした少女が呼び寄せた、報いなのだということを。
慧は、その滑稽なほどに醜い姿を、冷ややかに見つめた。
そして、ゆっくりと視線を、戦場全体へと巡らせる。
見渡す限りの紅。逃げ惑う人々。膨れ上がる死者の軍勢。崩れゆく聖王国アルディアの栄華。
その光景の中で。
慧は、ふと気づいた。
胸の奥で、ずっと別々のものとして、せめぎ合っていたはずの二つの感情。エレオノーラの深い深い憎しみと柊慧の揺るぎない決意。その二つがいつのまにか、溶け合い混じり合って──確かな業火となって、自分の中心で燃え上がっていることに。
もうこれは、借り物ではない。これは紛れもなく、自分の意志だ。
「終わらせる」
慧は紅に染まる空の下で、静かにそう宣言した。
「この国を、最後の一人まで私が終わらせる」
第四話 了
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