第二十四話「処刑前夜」
帝都レーヴェンガルドの地下は、陽の匂いを忘れて久しい場所だった。分厚い石壁が地上のいっさいの喧噪を呑み込み、松明の脂が燃える微かな音だけが、湿った闇の底でぱちりと爆ぜては静けさへ溶けていく。囚人の血汗が染み込んで饐えた臭気が澱んだそこへ、人の汗と恐怖の名残までもが染み込んで、鼻の奥をつんと刺す重たい空気を編み上げていた。
その最奥、錆びついた鉄格子の内側に、一人の少女が鎖で繋がれていた。
エリス・フォン・クライン。
かつては聖女と讃えられ、幾万の民に花を捧げられた娘が、いまや帝国全土から呪われる懸賞首として、この暗がりに繋がれている。両の手首を頭上へ吊るされ、力なく床へ膝を落としたその姿からは、淡い色の髪も可憐とうたわれた顔立ちも、汚れと憔悴に覆われてもう見る影がなかった。
それでも彼女の瞳だけは、まだどこかで諦めきれずにいて、どこか他人事のように眺めていた。いつか必ず誰かが助けに来るはずだと、根拠もなく信じ込んだまま、宙の一点をじっと睨み続けていた。
世界の果てまで逃げ延びたはずの聖女が、こうして生きたまま帝都へ連行され、この地下に鎖で繋がれるまでには、長く執拗な追跡があった。逃げ込んだ先の国が次々と傾き、匿ったはずの者が金で寝返り、頼ろうと伸ばした手のことごとくが冷たく振りほどかれていく。そうして最後には、この帝都の地下より他に、彼女の身を置ける場所はどこにも残されていなかったのだ。
罪状は、すでに帝国民の隅々にまで行き渡っている。皇帝の暗殺を企てた首謀者であり、帝位を簒奪せんとした陰謀家であり、禁じられた魔神を召喚した大罪人。あの魔神クルエンタ・フレイヤが全土へ高らかに布告した壮大な物語を、エリスはその細い身ひとつに背負わされて、明日、数えきれぬ視線に晒されながら首を落とされることになっていた。
もっとも──こうして布告された罪の、そのただのひとつすらも、彼女自身が実際に犯したものではなかった。身に覚えのない大罪を積み上げられ、弁明の機会すら与えられぬまま処刑台へ引き据えられていくその筋書きは、かつて彼女が別の少女へと組み立てて見せた物語と、寸分違わぬ形をしていた。
*
どれほどの時が流れたのか、闇に慣れきった耳が、遠くから近づくひとつの足音を捉えた。
石の廊下を踏むその歩みには、看守の重い長靴とは明らかに違う、奇妙なほど静かで、それでいて揺るぎのない響きがあった。やがて松明の輪の中へ、闇そのものを織って仕立てたかのような黒衣が音もなく浮かび上がり、鉄格子の手前で、ゆっくりとその足を止める。
紅い双眸が格子越しに、鎖に繋がれた少女を静かに見下ろしていた。
クルエンタ・フレイヤ。
世界を膝下に敷いた吸血の女神が、いま牢の外に立ち、鎖に囚われた偽聖女を無言で見つめている。かつて饐えた牢の内側で鎖に繋がれていた者と、その外側から嗤っていた者──その内と外とが、そっくりそのまま入れ替わった構図だった。
エリスは、吊るされた顔をのろのろと上げ、格子の向こうに立つ女神の姿を認めると、乾いた唇の端をわずかに歪めて笑ってみせた。
「……とうとう、勝ち誇りに来たわけ。悪趣味なのねえ、魔神様は」
声は掠れきっていたが、その奥にはまだ、抜けきらない毒がしぶとく残っている。それはこの期に及んでもなお、自分こそが物語の中心にいると信じて疑わない者だけが浮かべられる、歪んだ余裕だった。
*
けれどクルエンタは、その挑発に一言も答えなかった。
ただ格子越しに右手をわずかに持ち上げると、その指先から、黒衣の輪郭が陽炎のように揺らぎ始める。世界を蹂躙してきた女神の威容が、光の粒子となって静かにほどけ、湿った闇へ溶け込むようにして薄れていった。エリスの目の前で、あれほど圧倒的だったはずの巨きな存在が、みるみるうちに別のずっと小さな輪郭へと縮んでいく。
やがて松明の頼りない光の下に残されたのは──艶やかな金の髪を背に流し、上質な絹のドレスをまとった、気高い一人の少女だった。頬には健やかな血の色がさし、すらりと伸びた肢体には、本来この娘が備えているべきだった公爵令嬢の気品が、余すところなく宿っている。
エリスの喉が、ひゅっと引き攣れた音を立てた。
その顔を彼女は知っていた。忘れられるはずもなかった。饐えた牢の底で鎖に繋がれ、処刑前日に助けを乞うていた…自分と同じ転生者。自分がこの手で処刑台へと送り、二度と陽の下を歩くことなどないはずだった、悪役令嬢その人の顔が、いまたしかに格子の向こうに立っている。
「うそ……」
乾いた声が、震えながらこぼれ落ちた。
「あんた……エレオノーラ……? なんで……どうして、生きて……」
「久しぶりね、エリス」
エレオノーラは、静かに応えた。その声にも表情にも、勝ち誇る色はどこにも滲んでおらず、ただ凪いだ水面のような落ち着きだけがそこにある。そしてその底の見えない平静さこそが、猛り狂う炎などよりもよほど、エリスの背筋を芯から凍らせていった。
(──ようやく、ここまで来たか)
エレオノーラの奥で、慧は長い息をひとつ吐いた。このためだけに、ここまでやってきたのだ。胸に湧いた感慨は、自分でも意外なほど静かなものだった。
*
「知りたい?」
エレオノーラは穏やかに続けた。
「なぜ、あなたがいまそこに繋がれているのか?」
エリスが何かを言い返すよりも先に、彼女は淡々と、けれど一語も曖昧にせずに告げていく。
「明日、あなたは大勢のレーヴェンガルド帝国民が見守る中で、公開処刑される。この国を滅亡の淵にまで追いやった、史上最悪の悪女──聖女を騙った、偽物の魔女としてね」
その言葉のひとつひとつが、かつて自分がエレオノーラに浴びせた罵倒と、寸分の狂いもないことにエリスはようやく気づいた。皇帝暗殺、帝位簒奪、魔神の召喚…かつて自分が陥れるために用意した濡れ衣が、鏡に映したように、いまの自分へと返ってきている。
「ま……待って」
吊るされた鎖を、エリスがじゃらりと鳴らした。かつてこの少女が、まさにそうしたように。
「あなた、私と同じ転生者じゃない。ねえ、同郷のよしみで助けてよ──」
「それは、だ・め」
エレオノーラの返したその言葉は、あの日エリス自身が牢の中で口にしたものと、一字一句たがわず同じだった。エリスの顔から、残っていたわずかな血の気までもが、音もなくすっと引いていく。
「な、なら……取引しましょうよ」
エリスは縋るように早口でまくし立てた。
「私、まだ使えるわ。聖女派の伝手も隠しておいた資金も、全部あなたに渡す。あなたの下僕にでも、なんにでもなるから。だから命だけは──」
「いらないわ」
にべもなくエレオノーラは切り捨てた。差し出された伝手も資金も、彼女にとってはもう、盤面の外へこぼれ落ちた無価値な駒に過ぎない。
「っ……調子に乗らないでよね。私を殺したりしたら、聖女を信じてる連中が黙っちゃいないわ。この国だって、ただじゃ済まな──」
「その心配はいらないの」
エレオノーラは静かに遮った。
「あなたが積み上げてきたものは、もう何ひとつ残っていないから。あなたが最後まで頼りにしていた者たちも、元はといえばあなた自身が平気で売り飛ばしてきた人たちだったのよ。覚えている?」
エリスの言葉が、そこで詰まった。
やがて彼女は、追い詰められた者の狡さで、声の色をまるきり変えてくる。すがるように媚びるように。
「……ねえ。私たち同じでしょう? 同じ世界から来て、同じようにこの『聖乙女のロンド』を遊んだんでしょ?。あなただって、この世界をゲームだと思って、思うぞんぶん利用してきたんでしょ。だったら、私を責める資格なんて──」
「あなた、何を言っているの?」
エレオノーラは、心底哀れむように冷たい目を向けた。
「私が前世の記憶を取り戻したのは、あなたが仕組んだ公開処刑のまさに前日よ。私の星の巡りの悪さを、牢の外から嗤っていたのはあなた自身でしょう? 利用するどころか、生き延びるために必死に足掻くしかなかった。あなたと一緒にしないで」
「あの夜、冷たい牢獄で目を覚ましたその瞬間に、私はこの身体に流れ込んでくるエレオノーラの絶望と憎しみを、直に肌で受け止めたの。だから私は……この世界をゲームだと、ただの玩具だと思うことすら、初めから許されていなかったのよ」
その一言を口にしながら、彼女は前世の自分を、静かに振り返っていた。
「記号はあんなふうには泣かないの。データはあんなふうには誰かを想ったりしない。あなたが記号だと決めつけて踏みにじってきた人たちには、ちゃんと血が通っていた。わたしはそれに気づいて──あなたは、最後まで気づかなかった。だからあなたと私とでは全然違うの、全く似ていないわ」
「そんなの……そんなの、屁理屈じゃない……!」
「屁理屈じゃないわ。あなたは、根底から勘違いをしているの」
エレオノーラは、格子の向こうの少女をまっすぐに見据えた。
「この世界はね、あなたのためだけの世界じゃない。ここは、ここに生きるすべての人の世界なのよ。そのなかであなたは、例えるならただのバグのようなもの。存在しているという…ただそれだけで、まわりに不幸が撒き散らかされるのよ」
バグ…という前世の言葉を、エレオノーラはあえて選んで置いた。それが目の前の彼女にとって、いちばん深く突き刺さる一語であることを、同じ世界から来た者として、慧はよく分かっていたからだ。
「けれど──安心なさい」
エレオノーラは、そっと目を伏せた。
「あなたが死んだあとは、毎年ちゃんと祈ってあげる。あなたと違って、私はあなたのために、ちゃんと祈ってあげるから」
それは、かつてエリスが牢を去りぎわに投げつけていった言葉の、静かな裏返しだった。聖女としての株を上げるためだと嗤いながら告げたあの祈りと、いま目の前の少女が口にした祈りとは、同じ言葉の形をしていながら、その中身はまるきり別のものだった。そしてその決定的な違いこそが、エリスにはこの夜、何よりも耐えがたく感じられた。
*
「……ふ、ふざけないでよ」
エリスの声が、堪えきれずにぶるぶると震え出す。
「ここは私の世界なのよ。私の……私だけの、世界なの。『聖乙女のロンド』の主人公が、ヒロインが、こんな結末を迎えるだなんて、おかしいじゃない。ありえないわ。エリスは……エリスは、ハッピーエンドじゃなきゃいけないのよ……!」
両手を吊るされたまま、彼女は駄々をこねる幼子のように、いやいやと激しく首を振り続ける。整っていたはずの顔立ちが、恐怖と否認とで見る間にぐしゃぐしゃに崩れ落ちていった。
その様を、エレオノーラは静かに見つめていた。哀れみにも怒りにも、勝ち得た者の喜びにも似ていない、ただ深く静まりかえった眼差しで、崩れていく女をじっと見下ろしている。
「……あなたはまだ、ここをゲームの世界だと思っているのね」
やがてエレオノーラは、そっと踵を返した。
鉄格子に背を向けたまま、去りぎわに、ほんの少しだけ首をめぐらせる。深く澄んだその瞳が束の間、鎖の女の姿を映した。
「さよなら、エリス。……いえ」
彼女は、静かに言い直した。
「あなたが転生してくる前の…本当の名前を私は知らないから──」
その名をエレオノーラは、この世でいちばん軽やかに、けれど何よりも深く相手を突き放す響きで告げた。
「さよなら。……名無しさん」
石畳を踏む足音が、来たときとまったく同じ静けさで、少しずつ遠ざかっていく。
「待って……待ってよ! 行かないで、ねえ、置いていかないで! 私が悪かったから、ちゃんと謝るから、だからっ──!」
エリスの絶叫が、闇を切り裂いて必死に追いすがった。けれどそのどれほど痛切な声にも、応えて振り返る足音は、もう二度と返ってはこなかった。
やがて重い鉄扉がぎいと長く軋みながら閉ざされ、細く差し込んでいた松明の光すらも断ち切って、地下牢は再びあの饐えた闇だけに満たされる。
喚き散らすエリスの声は、分厚い石壁の向こうで次第に細く、遠くなり──やがて、何ひとつ聞こえなくなった。
処刑台の朝は、すぐそこまで来ていた。
第二十四話 了
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!
次回最終話です。
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