第二十五話「さよなら、エレオノーラ」
帝城のいちばん高いテラスには、やわらかな春の光が、うららかに降りそそいでいた。
手すりの向こうでは帝都エーレンフェストの街並みが陽炎の中でゆったりと息づき、遠くの尖塔が朝の光を弾いて金色に輝いている。そのもっとも見晴らしのよい席で、エレオノーラは白磁のカップを口もとへ運び、湯気の立つ茶をひとくち、静かに含んだ。
風が、金の髪をそっと撫でて通り過ぎていく。血の匂いも、硝煙の熱も、断末魔の叫びも、いまはもうどこにも残っていない。ただ淹れたての茶の香りと、庭先で咲きこぼれる花の甘やかさだけが、鼻先をやわらかくくすぐっていた。それは、いつか過ごした束の間の午後と、そっくり同じ静けさだった。
「……終わったのね、本当に」
カップの水面に映りこむ空を眺めながら、慧はぼんやりと物思いにふける。三日で沈めたあのレイドボスの戦場から、いったいどれほどの道のりを歩いてきたのだろう。ラストアタックを決めて勝ち誇ったあの瞬間、世界がふつりと暗転して、次に目を覚ませば饐えた牢の底で鎖に繋がれていた。
処刑の前夜、見も知らぬ罪を着せられ、味方はこの世にただの一人もいない、絶望的な詰みの盤面。それでも、視界の左端に点滅していたあの懐かしいカーソルこそが、すべての始まりだった。
あそこから、慧は盤面を丸ごとひっくり返しにかかった。吸血の女神クルエンタとして目を覚まし、をエネオノーラ処刑しようとした国を焼き、断罪に加担した勇者たちと刃を交えて、盤上に並ぶ駒のすべてを組み替えていった。本当に、長く感じた道のりだった。それでもこうしてひとつ深く息を吐けば、その何もかもが過ぎ去った出来事として、静かに背後へと流れ去っていく。
胸の奥で、ずっと轟々と燃え続けていたものがあった。それは、あの牢の夜に慧の中へ流れ込んできた、エレオノーラの憎しみだった。誰にも理解されず、誰にも味方されないまま、たった一人で握りしめ続けてきた痩せた拳の熱。その火が、いまはもう驚くほど穏やかに凪いでいる。
「エネオノーラ、あなたの分も、ちゃんと返してあげたわよ」
慧は胸のうちで、もう自分と切り離せなくなった一人の令嬢へ、そっと語りかけた。返事はなかった。けれど、凪いだ胸の静けさそのものが、それでじゅうぶんだと言っているような気がした。
*
やわらかな足音が、背後から近づいてきた。
振り返るまでもなく、それが誰であるかは分かっている。テラスの入口で片膝をつき、深々と頭を垂れたのは、公爵級のデイウォーカーとして蘇ったあの吸血騎士──オーランドだった。その面差しは不思議なほど穏やかで、迷いというものがどこにも見当たらない。
「母上。ただいま戻りました」
「おかえりなさい、オーランド」
エレオノーラはカップを受け皿へ置き、彼のほうへ静かに向き直った。
「結果を聞かせて」
「はい。あの女の処刑は滞りなく執り行われました。すべては母上の描かれたとおりに」
エレオノーラは小さく頷いた。それ以上を促す必要もなかったのだが、オーランドは伏せた頭のまま、静かに言葉を継いでいく。
「……あの者は、最期まで見苦しゅうございました。なぜだ、どうしてだと喚き散らし、居合わせた兵にも、処刑を命じた者にも、果ては何の関わりもない見物人にまで、口汚い呪いの言葉を浴びせ続けて。処刑台の露と消えるその瞬間まで、己の非をみとめることは、ついにありませんでした」
「そう」
エレオノーラの唇に、ごく淡い笑みが浮かんだ。哀れみとも満足とも取れる、あるいはそのどちらでもないような静かな笑みだった。
「実に、あの女らしい……最期だったということね」
「はい、そうです」
その短い返事の中に、余計な感情はいっさい混じっていなかった。ただ主の描いた筋書きが果たされたことへの静かな充足だけがそこにある。エレオノーラは、伏せられたままのその頭を、しばらく黙って見つめていた。
「顔を上げてオーランド。とりあえず…これで区切りはついたわ」
「お疲れ様」
「はい。……もったいなきお言葉にございます」
風がまた、ひとつ吹き抜けていく。エレオノーラはカップを取り上げ、遠い空へと目を向けた。あの牢の夜に自分が告げた言葉を、彼女はふと思い出していた。
あなたのために、ちゃんと祈ってあげる──と。
憎み抜いた相手であっても、口にした約束は約束だった。来年のいまごろ、気が向いたなら、ほんの束の間くらいは、あの名無しのためにも祈ってやろう。そう、彼女は静かに胸のうちで決めた。
*
「ところで、母上」
ひととおりの報告を終えたオーランドが、ふと顔を上げた。
「なに?」
「この後は、いかがされるおつもりなのでしょうか」
その問いに、エレオノーラは──いや、その奥にいる慧は、すぐには答えを返さなかった。ゆっくりとカップを傾けて、残りの茶を最後のひとくちまで飲み干すと、白磁の器を静かに受け皿へと戻す。
「そうねぇ……」
その先の言葉を、彼女はあえて口にはしなかった。
目を向けた空のいっそう高く澄んだあたりに、ほんの一瞬、薄い翳りのようなものがよぎった気がした。世界の底で封じられたまま、いまも深い眠りをむさぼり続ける魔神ザルヴァトスの気配。
そして遠い玉座からこの吸血の女神を静かに見つめ、次代の魔神たり得る器かどうかを、じっと値踏みしている真魔皇の視線。
私怨は、たしかにいま、ここで完遂された。長いようで短い復讐劇は、こうして静かに幕を下ろす。けれど、世界そのものが彼女のために用意していた本当の盤面は、まだその半分も明かされてはいなかった。
*
レーヴェンガルド帝国、帝都エーレンフェスト。
その夜、エレオノーラの身体に宿った慧は、深い眠りの底で、ひとつの夢を見ていた。
そこは、どことも知れない精神の深みだった。上も下もなく、音さえ淀んでしまったような乳白色の静けさの中で、慧はなぜか、転生する前の――遠い日本にいたころの自分の姿で立っていた。
そしてその向かいには、もう一人の少女が、静かに佇んでいる。穏やかな光をその身にまとった、本物のエレオノーラだった。
慧が言葉を探すより先に、エレオノーラは声音に深い慈しみを湛えて、そっと微笑みかけてきた。
「ありがとう。私の想いを、聞いてくれて」
「ありがとう。私の悔しさを、晴らしてくれて」
「そして何より……私を、大切にしてくれて」
その表情には、かつて慧の胸へ流れ込んできた、あの絶望の翳りはもうどこにも残っていなかった。ただ静かで、優しくて、すべてを許し終えたあとのように、深く凪いでいる。
「あなたには言葉では言い尽くせないほど、感謝しているのよ。本当にありがとう…」
「どうしても、あなたにお礼が言いたくて。だから、最後に会いに来たの」
「最後……?」
慧は、思わず問い返した。
「エレオノーラ、あなたはこれから、どこへ行くの」
その問いに、エレオノーラはただ寂しげに、けれど少しも揺らがない眼差しを返してきた。
「これからは、あなたがエレオノーラとして生きて。――私の心はね、もうあの日に死んでしまったの。だから……」
彼女は一歩、慧のほうへ近づいて、その手にそっと自分の手を重ねるような仕草をした。触れているはずなのに、不思議と体温は伝わってこない。それでも、その仕草に込められた想いだけは、痛いほど確かに慧の胸へと届いていた。
「私のことを、これからも大切にして。私が掴めなかった幸せを、あなたが代わりに掴んで。……あなたにならきっと、私を安心して預けられるから」
「エレオノーラ……」
託されたものの、あまりの重さと温かさを、慧は魂の芯で受け止めていた。この少女の無念を、そしてこの少女自身を丸ごと抱えて、これから先を生きていく。それこそが、自分がこの世界へ招かれた本当の意味なのだと、いまはもう、迷いなく信じることができた。
「約束する、エレオノーラ」
慧は、まっすぐに彼女を見つめて誓った。
「あなたの分まで、私はちゃんと生きる。あなたの分まで、絶対に幸せになってみせるから」
その誓いをしかと聞き届けて、エレオノーラは満足そうに、深く一つ頷いた。
「お願いね。――それじゃあ、私はもう行かなくちゃ」
言うが早いか、彼女の輪郭は少しずつ、乳白色の光の奥へと溶けはじめる。
「待って……! まだ、あなたに話したいことが、たくさんあるのに……!」
「エレオノーラ――――!」
遠ざかっていくその背へ懸命に手を伸ばし、慧がその名を叫んだ瞬間、世界が白く弾けて反転した。
*
「――っ」
エレオノーラの身体で、慧は寝台の上に跳ね起きた。乱れた息の下で、頬を冷たいものが幾筋も伝い落ちていくのがわかる。指先でそっと拭ってみれば、それはまぎれもなく、涙で濡れていた。
夢のなかで交わした、あの温かくて、それでいてどうしようもなく切ない約束の余韻が、まだ胸の奥にしっかりと灯っている。慧はしばらく、身じろぎ一つできないまま、その余韻の中に静かに浸っていた。
(そっか。……本来のエレオノーラの魂は、ちゃんと成仏したんだね)
ぼんやりとそう思った。あの牢獄からずっと、自分の胸の底で轟々と燃えつづけていた、あの憎しみ。それは最初から最後まで、慧のものではなく、エレオノーラのものだった。その一切をきれいに晴らしきったいま、彼女はようやく、あの穏やかな顔で逝くことができたのだ。
寂しくないと言えば、嘘になる。たった一度、それも別れのためだけに会えた相手を、慧はもう、二度とこの手で捕まえることはできない。それでも――と、慧は濡れた頬を手の甲で拭った。あの子は最後に、絶望の涙などではなく、託せる相手を得た者だけが浮かべる、あの静かな微笑みを浮かべていた。ならば、これでよかったのだ。
復讐という名の過去を、慧はもう一つ残らず清算しきった。いまその手のなかに残されているのは、亡きあの少女から静かに手渡された、まっさらな「未来」だけだった。
夜の帳がすっかり下りて、帝都は深い静寂に沈んでいた。慧は寝台を降り、月明かりの差す窓辺へと歩み寄って、眼下にどこまでも広がる夜景を、そっと見つめる。無数の灯りの一つひとつの下に、誰かの営みが息づいている。あの牢獄の夜には記号の羅列にしか見えなかったその光が、いまは確かに、生きている人々のぬくもりとして、胸に沁みてきた。
「あなたの分まで、幸せになるよ。……ちゃんと生きるからね」
「見てて、エレオノーラ……」
誰にともなく、けれど確かに一人の少女へ向けて、慧は胸のうちでもう一度、あの約束を結び直した。
運命の歯車は、まだ止まってはくれない。この手が掴んだ「未来」の先で、まだ見ぬ世界の盤面が、静かに、けれど確実に次なる一手を動かしはじめようとしていた……
*
「悪役令嬢に転生したら公開処刑前夜でした ~吸血神の力で転生聖女を世界の果てまで追い詰めます~」 完
ご愛読ありがとうございました!
この物語はここで一旦、終わりますm(_ _)m
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