第二十三話「清と濁」
乾いた風が吹き抜ける荒野の只中で、二人の男が、静かに対峙していた。
片や、共に戦った味方を盾に差し出し、母たる女神にすら害をなした、卑劣な勇者マーカス・ヴェイルハート。片や、清廉をただ一つの旨とし、満身創痍の身にいま誇りだけを宿して立つ公爵級吸血鬼、オーランド。荒野に相対するその二つの影は、まるで濁りきった水と澄みきった水そのもののように、どこまでも対照的だった。
オーランドは、それでも背筋を伸ばし、まっすぐにマーカスを見据えていた。全身の傷は熱を持ち、ゆっくりと再生しはじめているが、立っているだけでも汗が滲むほどであった。
しかし、その双眸に宿る光だけは、少しも翳ってはいなかった。この一戦にこそ己の存在の意味がかかっている——彼は、そう静かに腹をくくっていた。互いの間に横たわる沈黙は短く、それを破って先に動いたのは、マーカスのほうである。彼は手にした鎖鎌〈ハーヴェスト〉を大きく振り回し、その鋭い刃を、地を這わせるようにオーランドめがけて放ってきた。
「まずは、挨拶がわりだ。簡単に死ねると思うなよ!」
その一撃には、明らかな油断があった。手負いの相手を侮り、確実に仕留められると高を括った、その慢心である。オーランドは軋む体を叱咤しながらも、飛来する神滅の刃を、腰の得物でどうにか弾き返した。刃と刃が噛み合ったその瞬間、きぃんという甲高い嫌な音が荒野に響き渡った。同時に、オーランドの握る神話級の剣へ、蜘蛛の巣のように細かい罅が、幾筋も走ったのである。
マーカスの持つ〈ハーヴェスト〉は、神をも滅ぼす創世級の神滅剣である。一方、オーランドが母から賜ったのは、それより一段格の落ちる神話級の得物である。真正面から幾度も打ち合えば、いずれこの刃が耐えきれずに砕け散ることは、火を見るよりも明らかだった。しかも厄介なことに、あの神滅の刃は、傷を負った者の再生そのものを断つ。公爵級の身に宿る再生も、あれに斬られた瞬間、意味を失うのだった。
(……この剣では、まともに受け続けるのは、保たぬな。あの刃に、斬らせるわけにもいかん)
冷静に己の不利を悟りながらも、オーランドの胸に、怯みはなかった。武器の格でこそ劣るものの、公爵級のデイウォーカーとして生まれ直した彼の肉体は、その膂力も速さも技量も、一介の人間にすぎぬマーカスを遥かに凌駕している。武器の格差と肉体の格差、その二つがちょうど拮抗して、この勝負を予断の許さぬものにしていた。
事実、両者の攻防は、一進一退のまま容易に決着を見なかった。オーランドが膂力に任せて踏み込めば、マーカスは鎖鎌の長い間合いでこれをいなし、逆にマーカスが刃を伸ばせば、オーランドはその軌道を読み切って懐へ潜り込む。手負いの身でありながら、オーランドの動きは、なお鋭さを失ってはいなかった。
だが、たった一度でも、あの神滅の刃に斬られれば、それで終わりである。再生を封じられ、血を流して倒れるほかない。その細い綱の上を渡るような緊張が、彼の全身を痛いほど張り詰めさせていた。
「……はん! 手負いのくせに、よく防ぐじゃねえか」
マーカスが忌々しげに舌打ちを漏らす。とはいえ、この男がまともに正面から戦う道理など、はじめからあろうはずもなかった。その戦いぶりは、どこまでも卑劣を極めていた。砂を蹴り上げて視界を奪い、その隙に鎖鎌を横薙ぎに振るったかと思えば、小石を投げつけて気を引き、生じた死角から神滅の刃を突き入れてくる。
まともな勝負というものを、この男ははなから捨てていた。だが、その卑劣な策の悉くを、オーランドは冷徹に見切っていた。
生前の苦い記憶が、いまの彼の目を、これ以上ないほどに研ぎ澄ませていた。砂を蹴られれば目を閉じ、風を切る音だけで刃の軌道を読み、石を投げられればそれに構わず、本命の一撃だけを正確に弾き返す。マーカスが繰り出す卑劣な小細工は、その一つひとつがまるで通じなかった。
(もう、二度と。……お前のような男に、この身が欺かれることはない)
そして皮肉なことに、この卑怯者を前にして、オーランドは正々堂々を貫いていた。それは、目の前の男にそんな礼を尽くす値打ちがあるからではない。ただ、清廉であることこそが己の唯一の誇りなのだという、その一点を譲れなかったからにほかならなかった。
剣が砕けかけてなお、彼は一歩も退かなかった。罅の入った刃を肉体の膂力で強引に押し込み、卓越した剣技でじりじりとマーカスを追い詰めていく。
「くそっ……! なんだ、こいつ……! 手負いのくせに、なんでこんなに――!!」
じわじわと形勢が傾きはじめたことに、マーカスの声から、ついに余裕というものが消えた。そして、追い詰められた卑劣漢が最後に縋るのは、決まって、最も卑しい手と相場が決まっている。すっと、マーカスの視線が、傍らで震えていたエリスへと向けられた。
「わりぃな、聖女様。あんたには、ここで役に立ってもらうぜ――!」
言うが早いか、マーカスはエリスの細い腕を乱暴に掴み上げ、その体を、己の正面へと盾のように引きずり出した。
「きゃあっ!? ちょ、ちょっと、離しなさいよ、この――!」
「さあ、どうする、清廉潔白な勇者様よ! この女ごと、俺を斬れるか!? できねえだろう!? へへっ、お前は昔っから、そういう甘っちょろい男だったからなあ!!」
人質を取ってのその下卑た哄笑は、まさに、かつてオーランド自身が盾にされた、あの構図の悪辣な焼き直しにほかならなかった。同じ手が二度、通じるとでも思っているのか。その浅ましさに、オーランドはただ、静かな哀れみすら覚えた。
人質を取られてなお、オーランドは剣を引くつもりはなかった。ここで怯めば、この卑劣漢はまた同じ手で、いくらでも人を欺き、盾にしていくだろう。ならば、この卑劣な連鎖を、今この手で断ち切るしかない。ただし、あの女を巻き添えにするわけにはいかなかった。あの女を裁くのは母上に他ならないからだ。
(……ああ。本当に、救いようのないクズだ)
それでも、オーランドの心は、微塵も揺らがなかった。彼の脳裏に、ふと蘇る光景があったからである。かつて母クルエンタと剣を交えたあの死闘で、彼女が見せた、あまりにも鮮烈な戦い方。武器になど頼らず、その体ひとつで、神速をもってこちらの防御の内側へと飛び込んできた、あの規格外の技の数々だった。
――あの御方なら、こういうとき、どう動くか?
その答えを彼の体は、すでに覚えていた。罅だらけになった神話級の剣を両手でぐっと握りしめたオーランドは、次の瞬間、あろうことか、それをマーカスめがけて渾身の力で投げ放った。
「なっ……!?」
まさか頼みの得物を自ら手放すとは、予想だにしなかったのだろう。その一手にマーカスの意識が、飛来する剣のほうへと、ほんの一瞬引きつけられる。盾にしたエリスの、その脇――がら空きになったマーカスの脇腹が、そこにあった。そして、その刹那こそが、勝敗の分かれ目だった。
次の瞬間、オーランドの姿が掻き消えた――否、消えたと見紛うほど、あまりにも速く動いたのだ。手負いの体に鞭打ち、公爵級の膂力のすべてをその一歩に込めた彼は、エリスを掠めることすらなく、その死角を風のように回り込んだ。そして盾の陰からわずかにはみ出したマーカスの無防備な脇腹へと、渾身の拳を深々と叩き込んだのである。
「――が、はッ!?」
それは、剣の間合いを捨てて素手の格闘へと持ち込む、大胆きわまる一手だった。そしてまぎれもなく、いつかクルエンタがこの彼自身に見せつけた、あの戦い方の見事な再現でもあった。骨の砕ける鈍い音とともに、マーカスの身体がくの字に折れ曲がり、そのまま乾いた地面へと、勢いよく吹っ飛び、無様に崩れ落ちた。掴まれていたエリスも、その手から解き放たれ、地に転がった。
勝負を決めたその拳を、オーランドは静かに引いた。無駄がなく、そして一切の卑劣を交えぬ、どこまでも澄んだ一撃だった。
クルエンタはかつて、彼のこの類稀な資質を「プレイヤースキルも高い」と評したことがあった。一度見た技を我がものとして再現してみせる、あの卓越した戦闘センスのことである。母がかつて口にしたその評の意味するところが、いまこの一瞬に、鮮やかに証明されてみせたのだった。
「ぐっ…こんな、はずでは……」
地に這いつくばり、口から血の泡を噴きながら、マーカスは、信じられぬという目でオーランドを見上げた。
「くそがぁ…剣を、捨てて……素手だと……? そんな戦い方、聞いて…ねえぞ……!」
みっともなく呻くその男を、オーランドは静かに見下ろした。かつてこの男に欺かれ、命を奪われたはずの勇者は、いまや澄みきった双眸に一片の憎しみも迷いも宿さず、ただ揺るぎない誇りだけを湛えてこう告げた。
「お前は、卑怯を集めたようなクズだ。だから、そのままそこで死ね。……そして私は、最後まで清廉潔白であり続けたからこそ、母上からこうして復活を赦された。――ただ、それだけの違いだ」
そのあまりにも静かな断罪が、マーカス・ヴェイルハートという男の卑しい生涯に、幕を下ろした。
かつて盾にした相手の澄んだ手によって、この男は、己の濁った生の報いを、確かに受けたのである。
討ち果たしてなお、オーランドの胸に勝ち誇る気持ちは湧いてこなかった。ただ、長く己を縛りつけていた屈辱の記憶が、静かに一つ清算されたという実感だけがあった。彼はゆっくりと息を吐き、こうしてなお立っていられることの不思議さを、噛みしめるように味わった。
*
マーカスが完全に事切れたちょうどその時、荒野の空から、一条の深紅の影が音もなく舞い降りてきた。クルエンタである。彼女は、地に伏す卑劣漢の亡骸と、傷を再生させながらも、しかと己の足で立つ我が子の姿とを順に見やって、その紅い唇に満足げな笑みを浮かべた。
「……よく、やったわ、オーランド。あなたにしか果たせない役目を、果たしてくれたわね」
「……母上」
母の労いの言葉に、オーランドは深く頭を垂れた。手負いの体はいまにも崩れ落ちそうであったが、その胸は、確かに任を果たしたという充足で、静かに満たされていた。
血を分けた我が子が、こうして無事に、そして立派に役目を果たして立っている。その姿を見たクルエンタの胸にも、口には出さぬ、確かな安堵が広がっていた。彼女は静かに歩み寄ると、崩れ落ちかけたオーランドの体を、その腕でそっと支えてやった。その腕の確かな温もりに、オーランドはようやく、張り詰めていた緊張を静かにほどいた。
そして、マーカスの手から零れ落ちた〈ハーヴェスト〉を、クルエンタは静かに拾い上げた。神をも滅ぼすと謳われた創世級の神滅剣が、いまや主を失って、彼女の掌の上で沈黙している。先にオーランドの剣をそうしたように、クルエンタは何気なくアイテムボックスの口を開き、その刃を収めようとした。
ところが──指先が虚空の裂け目へ触れたその瞬間、剣は明確な拒絶を返してきた。
押し込もうとするそばから、見えない反発がぐっと手を押し戻してくる。まるで生き物が全身をよじって収納を厭うかのように、刃はどうしても、あの無限の匣へ滑り込んでいかない。オーランドの神滅剣を仕舞ったときには、水面へ石を落とすほどにも容易だったというのに。
クルエンタの紅い双眸が、わずかに細められた。
「……まさか」
思わず、乾いた声が漏れる。
「この剣、意識を持っているとでもいうの?」
答える声は、むろんない。それでも掌の中の神滅剣は、たしかに敵意にも似た気配を、静かに脈打たせていた。ならばと、クルエンタは薄く笑う。抗うというのなら、その抵抗ごと縛り上げて、抗えなくしてやればいいだけの話だった。
「スキル──血の呪縛」
紡がれた言の葉に応えて、彼女の指先から幾条もの深紅の鎖が溢れ出した。血で編まれたその鎖は、意志を持つように刃へ絡みつき、鎌の刃から鎖の先までを幾重にも締め上げて、抵抗の一切をきりきりと封じ込めていく。荒ぶっていた剣の脈動が、みるみるうちに鎮まっていった。
その状態で、改めてアイテムボックスへ差し入れてみる。すると今度は、先ほどの拒絶が嘘だったかのように、刃はすんなりと匣の奥へ吸い込まれていった。
「……これは、要検証が必要だわね」
誰にともなく呟いて、クルエンタは口の端を吊り上げる。神滅剣が意識を宿し、封印にひと手間を要する──それは、彼女の裡に眠る慧のゲーマーとしての血を、ひさびさに甘く疼かせるに足る極上の謎だった。
クルエンタの視線は、ゆっくりと傍らで腰を抜かしているもう一人の人物へと向けられた。
『聖乙女のロンド』の主人公エリス・フォン・クライン。盾にされた恐怖からまだ立ち上がることもできずにいた彼女は、いまや逃げ場を失って、その場に力なくへたり込んでいた。
クルエンタは、そのエリスを血の鎖で後ろ手にきつく縛り上げていく。懸賞首であるこの女を、ここで無闇に殺すつもりなど、彼女にははじめからなかった。この場で無造作に息の根を止めたところで、エレオノーラが受けたあの仕打ちへの、正当な報いには到底ならないからだ。この女には然るべき場所で、然るべき様式でこそ、その罪を贖わせなければならなかった。
「ひ……! な、なによ……! あんた、まさか……!」
怯えきったエリスを、クルエンタはただ静かに、冷ややかな瞳で見下ろした。そして、その口元にぞっとするほど優雅な微笑を刻みながら、こう告げたのである。
「さて。……あんたの始末はちゃんと、あの様式でつけてあげる。――そう。あんたが、かつて私にしてくれた、あの様式でね」
その言葉の真の意味を、この期に及んでもなお、エリスは理解できずにいた。聖王国でエレオノーラが立たされた、あの処刑台への回帰。この魔女に下される最後の裁きは、いままさに静かにその幕を開けようとしていた。
第二十三話 了
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