第二十一話「灰は従えない」
「――なぜぇぇぇ。なぜよぉぉぉ。なぜ、当たらないのよぉぉぉぉぉッ……!?」
いつからか、ベラフィアの呼吸が荒く乱れはじめていた。
この疑似神たる自分の必殺の一撃。それが幾度繰り出しても、幾度叩きつけても――目の前の深紅の女神の、その細い肢体を掠めることさえできなくなっていた。
いや。それだけではなかった。
振るう腕が重い。練り上げる力が痩せていく。ほんの少し前まで指の先の先まで溢れかえっていたはずの、あの天地をも捻じ伏せんばかりの全能感が――まるで固く握ったはずの砂が指の隙間からさらさらとこぼれ落ちていくように、刻一刻と失われていくのだ。
「そ、そんなぁぁぁ……! こんな、こんなはずよぉぉぉ、こんなはずないのよぉぉぉぉぉ……!!」
初めてだった。
勝利を完全に確信しきっていた、その簒奪者の声に――隠しようもない焦りの色が、くっきりと滲んだのは。
*
そのみるみる募っていく狼狽ぶりを、ひたすらに躱し続けていたクルエンタは、涼しい顔のまま静かに見つめていた。
「……ようやく気づいたみたいね」
そして彼女はおもむろに口を開く。まるで出来の悪い生徒に、道理を噛んで含めるように。
「あのね。急激にかき集めた力っていうのはね――そんなに長持ちなんてしないものなのよ。骸を喰らって盗んで奪って。そうやって一足飛びに手に入れた力は、あなたの器そのものが元から馴染んでいるわけじゃない。……だからこそ、こうしてあっという間に抜け落ちていくのよ」
「な……にぃぃぃ……っ!? な、なによ、なんなのよぉぉぉぉぉぉッ……!!」
「お前のその力は、他者から奪った力で飾った身の丈に合わぬ玉座なのよ。……見てくれだけは、そりゃあ立派。でもね、それを支える土台がまるで伴っていない。そんなもの…何れ早いうちに崩れるに決まってるじゃない」
クルエンタはくすりと意味ありげに笑った。
「R.F.Oじゃあ、こんなの常識の中の常識だったわ。取り込み系の敵ほど瞬間的な火力は馬鹿みたいに高いけど、その分、消耗も激しいのよ。……あなたも、まさにその絵に描いたような典型ってわけ」
「……っ、さっきからぁぁ、さっきから何なのよぉぉ、貴様は……!! アール……なんとかってぇぇぇ!! さっきからぁぁ、わけのわからないことばっかりぃぃぃ……!!」
もはや、その言葉の半分も理解できぬまま。じわじわと首を絞められるような底なしの恐怖と、行き場のない苛立ちだけが、ベラフィアの中で際限なく膨れ上がっていく。彼女には、目の前のこの女がいったいなぜこうも余裕でいられるのか、そのたった一つの理由さえ、最後の最後まで掴むことができなかった。
(さて。……相手が勝手に弱っていってくれるのは、こっちとしてもありがたいけど)
その一方で、クルエンタは内心、また別の“時”を静かに待ち構えていた。
――ベラフィアの力が『抜けていく』のとは、これはまたまったく別の話だ。彼女自身のあの切り札、真神の姿――「終焉」。それは一度使えば再び使えるようになるまでに、どうしてもしばらくの時間を要する奥の手だった。だが、それは力が尽きるのとは根本から違う。ただ強大に過ぎるがゆえの、いわば再充填の待ち時間。時が満ちさえすれば、それは必ずまたその手に戻ってくる。
そして――その待ち望んでいた時間が。
いま、ようやく静かに満ちた。
「――お待たせ。ちょうど…ってところね!」
クルエンタの紅い瞳が、すっと細められる。
「――さあ。そろそろ幕引きにしましょうか。……今度こそ、時間を無駄にはしないわ」
次の瞬間。
彼女の全身が、再びあの荘厳な黄金の光に包まれた。
黄金の鎧。金色の翼。そして全身からこんこんと迸る、神々しい波動。これで二度目となる――〈終焉〉。真の神の姿の再臨だった。
だが、今度ばかりは前回とはまるで勝手が違った。その持続が恐ろしく短いことを、彼女はもう嫌というほど思い知っている。だからこそ――その動きには、寸分の迷いも躊躇もありはしなかった。
「スキル――〈血の呪縛〉!!」
顕現とほぼ同時、クルエンタが鋭くその手をかざす。
その刹那、彼女の全身から深紅の血が勢いよく噴き出し――それが意志を持つ無数の鎖となって、しゅるしゅると宙を奔った。血の鎖は、みるみる力を失いつつあったベラフィアの四肢に胴に首に…瞬く間に……幾重にも絡みついていく。
「――なっ!? い、いやぁぁぁ……! 動け……! 動きなさいよぉぉぉ、あたしの体ぇぇぇぇぇッ……!!」
もがく。だが動けない。かつてのあの絶大な力がもし未だ残っていれば、こんな鎖などそれこそ指先ひとつで易々と引き千切れただろう。だが――いまの、ほとんど抜け殻となりかけたべラフィアには、それすらもはや叶わなかった。深紅の鎖は、哀れな簒奪者を完全にその場に縫い止めていた。
「――そして、こっちが本命よ」
クルエンタがそっと虚空へと手を差し伸べる。
すると、その手の中にまるで応じるように――一振りの剣が音もなく顕現した。禍々しく、それでいて荘厳な漆黒の剣。それこそが、彼女がその身の裡にずっと秘めてきた武器
創世級の剣――ダーインスレイヴ
この帝国を手中に収めたあの日から、ただの一度として鞘走らせることのなかった、正真正銘最後の切り札。それがついに初めてその禍々しい姿をこの戦場に現したのだ。
一度抜けば、血を吸うまで決して鞘には納まらぬ……業の深い呪いをその身に宿した……魔神の剣。
ずるりとクルエンタがその刃を抜き放つ。刀身がまるで飢えを訴えるかのように、ぶるりと一つ打ち震えた。
「……終わりよ、ベラフィア。お前のその飽くなき渇望も、残念だけどここまでね」
「い、いやぁぁぁ……! いやよぉぉぉ! やめ――やめてぇぇぇぇぇえええええ―――ッッ!!」
閃光。
次の瞬間には、もうクルエンタの姿は拘束されたベラフィアのすぐ傍らにあった。そして、飢えた魔神の剣が縦横無尽に閃き――疾る。
それはもはや、剣戟などと呼べる生易しいものではなかった。ただ圧倒的な力が、圧倒的な速度でもって、無力な獲物を一方的に蹂躙していくだけ。漆黒の刃が、夜の闇の中へ幾筋もの緋色の軌跡を鮮やかに描いていく。
一閃。二閃。三閃。
血の鎖に雁字搦めにされ、指の一本すら動かせぬ疑似神の体が、あっという間に幾つもの肉塊へと無残に断ち斬られていく。飢えた刀身はその血をたっぷりと啜り――ようやく満たされたように、その震えを静かに収めた。
「あ……あ、が……ぁ……」
どうして。どうして、こんなことに?
あれほどの力をこの手に確かに掴んだはずなのに。もう二度と…誰にも従わなくていいはずだったのに。
誰にも従わず、この世のすべてを従える。そのたった一つの夢のためだけに、あたしはあんなにも必死だったのに。ようやく手が届いた――そう思ったその次の瞬間には、何もかもが指の隙間から静かにこぼれ落ちていた。
「……こんなはずではぁぁぁ……。あたしは……あたしがぁぁ……従えるはずだったのにぃぃぃ……っ、そんな、そんなはずないのよぉぉぉぉぉ……!!」
最後の最後までその無情な現実を認めることができぬまま、ベラフィア――否、もはや疑似神ですらなくなったひとひらの抜け殻は、さらさらと乾いた灰へと崩れ変わり、そして夜風に儚く散っていった。
簒奪者の、あの燃え盛るような渇望も。
こうして結局は、たった一片の灰へと還ったのだった。
*
ふう…と。
全ての決着をしかと見届けると、クルエンタの全身を包んでいたあの黄金の光が、すっと掻き消えた。二度目の「終焉」。そのあまりにも短い持続時間が、ちょうど切れた頃合いだった。
吸血の女神の姿へと戻った彼女は、空中でへなへなと力なく四肢を投げ出す。
「……あー……。疲れたぁ……。きっつかったぁ……。まじでやばかったぁ……」
思わず飾り気のない素の声が漏れ出た。真神モードに科せられたシビアすぎる時間制限。そこへ追い打ちをかけるような、相手の理不尽極まるパワーアップ。今回ばかりは、さすがの慧も幾度となく肝を冷やした。
とりわけ、あの二度目の変身における、綱渡りのような際どい時間管理。少しでも判断が遅れていれば、あの拘束も…そしてあの止めの一撃も、到底間に合いはしなかっただろう。文字通り薄氷を踏むような勝利だった。
だが――不思議と、その胸の中には、どっと押し寄せる疲労とは裏腹に、なんとも言葉にしがたい妙な充実感がじんわりと満ちていた。かつてゲーム内で神々を相手取っていたあの頃の、あのひりつくような緊張感。それを本当に久しぶりに思い出した気がしたのだ。
「……ま、なんとかなったんだから、良しとしようっと」
うんっと一つ大きく伸びをして、彼女はゆっくりと姿勢を整える。
――と。
「……あ」
ふとあることを思い出して、クルエンタはぽんと両手を打ち合わせた。
「そういえば、すっかり忘れてたわ。……オーランド。さっきめちゃくちゃ遠くまでぶっ飛ばされてたけど……。無事かなぁ……?」
我が子の安否を今更ながらに思い出し、彼女はいそいそとその姿を探しに、彼方の闇へと飛び立っていった。
――こうして帝都を巡る長い死闘は、ひとまずの決着を迎えたのだった。
*
――だが。
その一部始終を遥か彼方、太陽の光さえ遠慮がちに翳る暗黒の大地――あの玉座の間から、ただ一人、静かに見つめ続けていた者がいた。
真魔皇、リネージュ・アイン。
その輪郭の定かならぬ双眸が、遠く帝都の空の決着をしかと映している。彼の面に驚きの色は微塵もなかった。むしろそこにあったのは、まるで総てをあらかじめ見通していたかのような、深い深い諦観だった。
「……やはり、ベラフィアはああなったか」
ぽつりと、彼は低く呟いた。
力に溺れ、その力に逆しまに喰われ、あえなく灰へと還る。それは身の丈に合わぬ力を欲した者が辿る、あまりにもありふれた末路だった。彼にとって、その結末ははじめから分かりきっていたことだ。
だが――彼の興味を真に惹きつけたのは、あの滅び去った簒奪者のほうではなかった。
「――問題は、あちらだ」
彼の視線がゆっくりと、あの深紅の女神の遠い残光を捉える。
「魔王を魔王種たちを、そしてあの疑似神すらも、まるで児戯のように退けてみせた桁外れの力。……ふむ。あれはもはや我ら魔族の与り知らぬ領域にある」
リネージュ・アインの声が、静まり返った玉座の間に低く染み渡っていく。
「かつてこの世の理の“外”へと堕とされ、幾星霜もの間、ただ封じられたままの――十三番目。天の十二の柱にすら連なることを許されなかった、忌むべき者。我が魔神、ザルヴァトス」
そこれまで決して口にされることのなかった、禁忌の名が。いま静かに夜の底へと解き放たれた。
「あるいは……あのお方こそ、いずれザルヴァトス様に取って代わられる…御方になられるやもしれぬな」
それは期待でも、ましてや恐怖でもなかった。ただあるがままの事実を静かに見据える者の、揺るぎない確信だった。もしあの女神が真にザルヴァトスの座を変わる者となるならば、この世界が久しく保ってきた均衡は、遠からず根底から書き換えられることになる。それが我ら魔族にとって吉と出るか凶と出るか、その答えはいま、誰の目にも見えてはいなかった。
封じられし真の魔神の名。
そして、あの深紅の女神を次代の魔神と静かに見定める、魔族の皇の底知れぬ眼差し。
――帝都を巡る長い戦いは、確かに終わった。
だがそれは遥かに巨大で、遥かに恐ろしい次なる嵐の……ほんの序章に過ぎなかったのである。
第二十一話 了
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!
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