第二十話「簒奪者」
――轟音。
天がびりびりと大きく震えた。
その凄まじい衝撃の中心からひとつの人影が、まるで打ち出された砲弾のように、戦場の彼方へとなすすべもなく吹き飛ばされていく。
オーランドだった。
漆黒の翼を無残にへし折られ、口から鮮血を撒き散らしながら、その体は遠く、遠く彼方へとみるみる消えていった。
*
ほんの数瞬前――。
嫉妬のレヴィア・カインとなおも激しく斬り結んでいたオーランドは、その背筋に突如として凍りつくような悪寒じみた殺気を感じ取っていた。
「――!? 貴様は……!」
振り向くよりも、なお早く。
あの圧倒的な『格』を纏った影――疑似神と化したベラフィアが、すでに彼のすぐ目の前に音もなく立っていた。
「邪魔だ。……そこの羽虫が二匹」
ぞっとするほど冷え切った声でそう言い放つと、ベラフィアは実に無造作に、その手を横薙ぎにひと振りした。
ただそれだけ。本当にそれだけのことだった。
「――ぁ」
嫉妬のレヴィアが驚愕にその目をかっと見開く。だが次の瞬間には、その妖艶な肢体はもう木っ端微塵に爆ぜ飛んでいた。あれほどまでにクルエンタを手こずらせた魔王の一体が、つい先ほどまでオーランドと互角の死闘を繰り広げていたあの魔王が。たったひと振り。指先ひとつ動かす価値もないとばかりに、あまりにもあっさりと消し飛ばされたのだ。
「……ば、化け物が……!」
それでもオーランドは、母から託された誇りにかけて、なおもその神話級の剣を必死に構え直そうとした。だが――疑似神の膂力はあまりにも隔絶していた。彼がその剣を振るうよりも遥かに早く、ベラフィアの無造作な一撃がその身を無慈悲に捉える。
――そして、冒頭のあの轟音へと繋がっていく
「……く、そッ……! 母上……申し、訳……ありま、せ……」
己のあまりの無力を噛みしめるその悔恨の言葉すら、最後まで紡ぐことも叶わぬまま、オーランドの体は遥か彼方の闇の中へと消えていった。母のためにこの身が確かに「使える」ことを証明する――固く胸に誓ったその誓いを、彼はここで否応なく、無理やりに中断させられたのだった。
薄れゆく意識の片隅で、彼が最後に思ったのは己の身の心配などでは決してなかった。ただ母上を、あの御方をあんな化け物と二人きりにしてしまった。そのたった一点の灼けつくような痛恨だけが、闇の底へと堕ちていく彼の胸をこれ以上ないほど強く締めつけていた。
*
一方、そのちょうど同じ頃。
クルエンタもまた、彼女の最後の相手との決着をつけようとしていた。
「――しつこいわね、あなたも。そろそろおしまいにしましょうか」
なおも崩れた灰の中から執念深く起き上がろうとする、憤怒のイグニス。その再結合のほんの一瞬の綻びを、クルエンタは決して見逃さなかった。彼女は渾身の力を込めた深紅の血の刃を、その巨体の核となる一点へと深々と突き入れる。
「――ォ、ォオオオ……」
地の底から響くような断末魔の咆哮を最後に、憤怒の巨人もまた深紅の光の粒子となって、ついに崩れ落ちていった。
これで三体。
傲慢も嫉妬もそして憤怒も……
真魔皇が差し向けた三体の魔王は、いまやそのすべてがこの戦場から姿を消した。もっとも――そのうちの一体は、本来味方であったはずの…あの化け物の手によって消されたのだが。魔王種はすでに一体たりとも残ってはいない。ゆえに、いくら魔王が斃れようとも、あの「魔王の系譜」が新たな魔王をこの場に生み出すことはもうなかった。
戦場を満たしていたあれほどの喧噪が、まるで嘘のようにふつりと途絶える。あとに残ったのは、焼け焦げた大地とむせ返るような血の匂い、そして――たった二つの隔絶した気配だけだった。
(……さてと)
クルエンタは静かにその体を向き直らせる。その視線の先には、いまや累々たる骸を踏み越えて、この戦場でただ一人彼女と対峙する者だけが残されていた。
疑似神ベラフィア。
「――ふふ。ふふふ……」
その簒奪者は、全身から抑えきれぬ愉悦をゆらゆらと滲ませながら嗤っていた。
「見ぃた? 見ぃてくれたぁぁぁぁ? ねぇぇぇ、あんたもぉぉしぃっかりぃ見たでしょぉぉぉう!? あたしぃの…こぉぉの、力ぁをぉぉぉ! 魔王だぁってぇぇぇぇ、あんなのもうただのゴミよぉぉぉ! 塵芥よぉぉぉ! あはは……ああぁぁぁ、最高ぉぉぉっぅ。最っ高のぉぉぉx気分だぁぁわぁぁぁあああぁぁ!!」
彼女の瞳は、もはや完全に据わりきっていた。生まれて初めて手にした全能の力。そしてもう二度と誰にも、何ものにも従わなくていいという、あの甘美な解放感。その二つが彼女の胸の中で激しく爆ぜ、渾然と混じり合い、たった一人の魔王種を、もはや救いようのないほどにまで増長させていた。
「さぁぁぁぁ、次はぁぁあんたの番よぉぉぉ、『魔神』ぃぃぃぃ! あんたを倒してぇぇぇ……あんたのそのぉぉ、ご大層なぁ力もぉぉ、何もかもぉぉそぉっくりぃぃぃ、このあたしぃの糧にしてあげるわぁぁぁ! そうすればぁぁぁ、あたしは名実ともにぃぃぃ、この世界でたった一柱のぉぉぉ、本物の神にぃなれるんだからねぇぇぇええええ―――!!」
勝ち誇る、そのけたたましい哄笑に対して。
クルエンタは、しかしまるで動じなかった。それどころか彼女は、どこか憐れむような、そして心底呆れたような目で、その疑似神を静かに見つめ返す。
「……ねえ、あなた。ひとつだけ、訊いてもいいかしら?」
「……あぁ?」
「あなた、もしかして……あたしの体の一部を取り込んだ?」
その思いもよらぬ問いかけに、ベラフィアの勝ち誇った笑みが一瞬ぴたりと止まった。
「……それがぁぁぁ、どうしたっていうのよぉぉぉぉぉぉ! 何よぉぉ、それがどうしたっていうのよぉぉぉぉぉ!! あははっ、関係ないわぁぁ、そんなことぉぉぉぉ!!」
「ふうん。そう。……いえね。よく生きてたなって。ちょっと感心してるのよ。私の力を喰らって、そんな平気な顔してる奴なんて、正直、私も初めて見たわ。……普通はね? そのまま死んじゃうものなんだけど」
「……はぁぁぁ!? 何を言ってぇぇぇ――何言ってんのよぉぉぉ、あんたぁぁぁ!!」
「ちょっとしたスキルがあるのよ。私にはね。……変に強化なんてされたら、こっちもいろいろと困るでしょう?」
クルエンタはくすりと意味ありげに笑ってみせる。その言葉の本当の意味を、いまのベラフィアが正しく理解できるはずもなかった。
「――ああ、そうそう。〈R.F.O〉にもね、いたのよ。あなたみたいになんでもかんでも取り込んで強くなろうとするタイプの敵が。……でまあ、その手の連中が最後にどういう末路を辿るのか……それも私はよーく知ってるってわけ」
「……さっきからぁぁ、何なのよぉぉ、あんたぁぁぁあ!! なんとかぁぁ!? さっきからわけのわからないことばっかりぃぃぃ……! このあたしをぉぉ、目の前にしてぇぇぇ……! 随分とぉぉ、余裕じゃないのぉぉぉぉぉ!!」
まるで意味の通じぬその謎めいた言葉の数々を前に、ベラフィアの余裕はみるみるうちに剥き出しの苛立ちへと変わっていった。彼女には、目の前のこの女がいったいなぜこれほどまでに落ち着き払っていられるのか、それがどうしても理解できなかったのだ。
(……知らないなら、それはそれでいいわ。どうせじきに、嫌でもその身で思い知ることになるんだから)
その真意だけを胸の奥深くにそっと秘めたまま――クルエンタは静かに腰を落とし、戦いの構えを取った。
「――いいわ。それじゃあ始めましょうか。……あなたのその借り物の力が、はたしていつまで保ってくれるものかしらね」
「――ぶち殺してぇぇぇやるッ!! ぶち殺してやるわよぉぉぉぉぉぉぉッッ!!」
その瞬間だった。
二柱の女神が――否、一柱の魔神と、一柱の簒奪者とが、真っ向から激しく激突した。
*
――序盤の戦いは、まさしくベラフィアの独壇場だった。
彼女が振るう一撃のひとつひとつが、まるで天災そのものの如く凄まじかった。これまで喰らい尽くしてきた無数の力――傲慢の力を、嫉妬の力を、憤怒の力を。そのすべてをめちゃくちゃに掛け合わせた圧倒的な暴力が、津波のように繰り返し、繰り返しクルエンタへと襲いかかる。
「どうしたのよぉぉぉ、「魔神」ぃぃぃぃ!? さっきまでのあのぉぉ、大層な余裕はどこいったのよぉぉぉぉぉ!? ほらほらぁぁ、逃げ回ってばっかりじゃないのよぉぉぉぉぉ―――!!」
クルエンタは「神速」をフルに駆使して、その荒れ狂う暴威の嵐を紙一重のところでひたすらに躱し続けた。
疑似神の拳が繰り出されるたびに大気が悲鳴を上げて爆ぜ、その余波だけで周囲の瓦礫が粉々に砕け散っていく。もしまともに掠めでもすれば、いかな魔神の身とてただでは済むまい。クルエンタはその一撃一撃のほんの紙一枚外側を、舞うように縫うように危うく擦り抜けていった。
だが――正直なところ、躱すだけで精一杯だった。時折、わずかな反撃の隙を見つけ、渾身の血の刃を鋭く叩き込んでも、疑似神と化したベラフィアのその分厚い『格』は、まともな手応えのひとつも返してこない。掠り傷ただひとつすら、与えることができないのだ。
「想像してた以上に硬いわねぇ、こいつ。取り込んだ力で防御力まで馬鹿みたいに跳ね上がってるってわけか。……真神モードさえ戻ってくれてれば話はまるっきり別なんだけど、あれもまだ当分使えそうにないしなぁ」
つぶやきながら冷静に分析を巡らせながらも、クルエンタの表情に、やはり焦りの色は微塵も浮かんでいなかった。彼女はただひたすらに時を稼いでいた。この理不尽極まる暴力の嵐が――自然とその勢いを失っていくその時を。
急いてはいけない。
ここで焦って無理に攻めれば、あの暴力の渦に丸ごと飲み込まれるのが落ちだ。ならば待てばいい。ただひたすらに耐えて待てばいい。かつて幾度となく格上の強敵を前に、そうやって辛抱強く勝機を手繰り寄せてきたように。そもそも彼女の描く勝ち筋は、初めから単純な力比べになどありはしなかったのだ。
「あはははははははっ! 効かないぃぃ! 効かないわぁぁぁぁ! あんたの攻撃なんてぇぇ、全っ然、これっぽっちもぉぉ、効かないのよぉぉぉぉぉ――――!!」
優勢にすっかり酔いしれきって、ベラフィアはますます狂ったように笑い、ますます荒々しく、無秩序にその力を振り回した。もう誰も、このあたしを止められない。あたしは無敵だ。この世で最も強い存在なのだ――と。
思えば、ずっと見上げるばかりの日々だった。あの十一の玉座を。真魔皇の絶対的な威容を。それがどうだ。いまやその誰よりも、このあたしのほうが上にいる。このめくるめく逆転劇。この天にも昇るような優越感。
ベラフィアは、その甘く甘い勝利の美酒に際限もなく酔いしれていた。だからこそ――彼女はまるで気づかなかったのだ。ほかならぬ自分の裡から、その絶大な力がほんの少しずつ、静かにこぼれ落ち始めていることに。
――だが。
その勝利を完全に確信しきった大振りの一撃が、虚しく空を切った。
まさにその時だった。
ほんの一瞬。
ベラフィアの…あれほど際限なく漲っていたはずのその動きに、ごく僅かな――けれど確かにそこに存在する"綻び"が生じた。
まるで天を焦がすほどに燃え盛る炎が、最も激しく燃え上がったまさにその刹那に、ふとその勢いに翳りを覗かせるかのように。
そのほんの些細な変化を、ただひたすらに躱し続けていたクルエンタの紅い瞳だけが、この戦場の誰よりも早く、そして誰よりも正確に捉えていた。
「……やっぱりね。ようやく始まったみたい。……お前の…その借り物の力の期限切れってやつが」
簒奪者のその絶頂はいま正に静かに、そして確実に終わりへと続く坂道を転がり落ち始めようとしていた。
第二十話 了
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