第二話「ログイン」
チカチカと……
視界の左端で、その光は、辛抱強く点滅を続けていた。
牢獄の闇は、墨を流したように濃い。湿った石壁も、足首を噛む鎖も、何もかもが慧の自由を奪うために存在している。けれど、その絶望的な暗がりの中で、たった一点だけ、この世界の理に属さないものが、確かに浮かんでいた。無機質で四角くて見慣れていて、けれどここにあるはずのない光。
慧は息を殺してそれを見つめた。
「……ログイン……画面……?」
囁くように呟いて、慧は痩せ細った手を、ゆっくりと宙へ伸ばした。鎖がじゃらりと重い音を立てる。指先がその光に触れる。いや正確には、触れた「感触」が、現実の皮膚ではなく、もっと内側の神経の奥のほうで返ってきた。
完全没入型VRMMOで、何百時間も慣れ親しんできた、あの操作の手応えだった。間違いない。これは本物だ。胸の奥で心臓が、痛いほど早鐘を打ち始める。
なぜ、これがここに?
なぜ、エレオノーラの身体でR.F.Oのインターフェースに触れられるの?
問いはいくらでも湧いてくる。けれど慧の思考は、混乱の渦に飲まれる前に、ひとつの仮説をすばやく手繰り寄せていた。
──意識が暗転した
あの瞬間。自分はまだ、ログインしたままだったのではないか。レイドのラストアタックを決めた、あの刹那。接続は切れていなかったのではないか。だとすれば、この点滅は、途切れることなく続いている、自分のセッションの名残だ。
理屈は後でいい。慧は震える指で、その光をたぐり寄せるように操作した。
応答は即座だった。
牢の闇を塗り潰すように、視界いっぱいに、見慣れた起動の光が広がっていく。聞き慣れた、けれどこの世界では決して鳴るはずのない、システムの稼働音。そして、淡く発光する一行の文字が、慧の眼前に、静かに像を結んだ。
『ようこそ、Regenesis (リジェネシス)Fantasy Online へ』
その瞬間、慧は理解した。理解してしまった。
これは自分のアカウントだ。自分が三年がかりで育て上げ、世界ランカーの一角にまで磨き上げた、自分だけの分身。その存在がいま、この絶望の牢の中に確かに「在る」。
目の前にキャラクター選択の表示が、ゆっくりと立ち上がる。所属、魔界。種族、神族。称号──血の女神。そして、その名は。
「クルエンタ・フレイヤ……」
すべての吸血鬼のはじまりの神、吸血神。吸血戦姫、クルエンタ・フレイヤ。再生を司る、魔界の魔神の一柱。慧が、現実のあらゆる理不尽から逃れて、ただ全力だけを注ぎ込んできた、その結晶。
決定の意思を込めた、その刹那だった。
ぞわりと。
足の爪先から脳天まで、未知の感覚が、奔流のように駆け上がった。痩せ細っていたはずの四肢に、底知れない力が満ちていく。視界が塗り替わる。薄闇でしかなかった牢獄が、昼間のように鮮明に見え、石壁の一筋の亀裂すら、はっきりと捉えられる。鎖の冷たさは、もう感じない。いや感じはする。ただ、それが自分を縛るものだという認識が、根本から消え失せていた。こんな脆い鉄の輪っかなど、その気になれば、小指一本で引きちぎれる。そういう確信が、当たり前の事実として、身体の芯に宿っていた。
力。圧倒的な…力の本流。
慧はゆっくりと、自分の手を持ち上げて見つめた。先ほどまでの痩せて白い令嬢の手ではない。しなやかで強靭で、爪の先まで戦うために研ぎ澄まされた、戦姫の手だった。
「……そういうこと」
慧の口から零れた声は低く艶やかで、まるで自分のものではないようだった。けれど、その響きの奥に立っているのは、紛れもなく柊慧という一個の意識だった。
ログインすれば神になる。ログアウトすれば無力な令嬢に戻る。
この二つの姿を、自分は行き来できる。慧の思考は混乱を切り分け、その一点だけを冷徹に掴み取っていた。試しにほんの少しだけ、意識の手綱を緩めてみる。すると視界の光がふっと陰り、四肢から力が抜け、再びあの頼りない令嬢の身体の感覚が戻ってくる。慌てて意識を繋ぎ直せば、また力が満ちる。
切り替えられる。自在にではないかもしれない。けれど確かに。
この力があれば──明日の処刑から逃げ出すことくらい造作もない。
そう考えた、まさにそのときだった。
胸の奥に沈んでいた、あの渦がぐらりと大きくうねった。
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それは慧の感情では、なかった。
逃げる…という選択肢が脳裏をよぎった瞬間、エレオノーラの残した憎悪が、明確な拒絶となって、慧の内側で吼えたのだ。
逃げてどうする。逃げてそれで終わりにするのか。この屈辱をこの理不尽…ただ背を向けてなかったことにするのか──と。
慧は目を閉じた。するとまぶたの裏に、像を結ばない感情の奔流が、押し寄せてくる。記憶は何ひとつ見えない。エレオノーラがどんな日々を生きたのか、その光景は、霧の向こうに閉ざされたままだ。慧にわかるのは、ただ、感情の温度だけ。屈辱、哀しみ、怒り――名前のついた痛みが、立て続けに胸を打つのに、その痛みがどこから来たのかは、まるで像を結ばない。理由のわからない痛みほど、たちの悪いものはない。
――では、その霧の向こうで、エレオノーラ・ヴァン・ローゼンベルクの身に、いったい何があったのか。それは彼女自身がもう語れず、慧にも見通せない、ひとつの真実の物語……
*
はじめに静かな、慎ましい愛があった。
政略で結ばれた婚約者。第一王子、アレクサンデル。互いに多くを語る性質ではなかったけれど、それでも、ひっそりと確かに相手を想い合っていた。派手さのない、けれど温かな、二人だけの時間。その記憶の手触りだけが、甘やかな痛みとなって、慧の胸を掠めていく。
ーーけれど、その温かさは奪われた。
一人の少女が現れて、すべてを塗り替えた。エリス。燃え上がるような恋を知ったアレクサンデルの瞳からエレオノーラの姿は、みるみる消えていった。残されたのは、ひりつくような孤独の感触。
そして、そこから先はただ、ただ…転落だけだった。
感情の残響は断片的に、けれど容赦なく、その理不尽を慧に伝えてくる。隣国の大使、ヴィクトル。エリスに恋した彼が、魔族の手を借りて引き起こした、聖女誘拐未遂。彼が手引きした、魔族の侵攻。火の海となった王国。
そして──歌の聖女として覚醒したエリスと、世界に十二人しかいない隣国の勇者、オーランド。
彼らによって、王国は救われた。少なくとも表向きは、そういうことになった。
本当の元凶であったはずの隣国は、自国の大使の暗躍が露見することを恐れ、エリスに取引を持ちかけた。エリスはそれに応じた。戦争回避という大義名分の陰で、真実は闇に葬られた。
そして──魔族進行を退けた最後の日。エリスは衆人の前で、世にも悲しげな顔をして、協力者と共にすべての罪を、エレオノーラ一人に着せたのだ。ヴィクトルの罪も。魔族を招き入れた罪も。国を傾けたありとあらゆる罪も。その全部がたった一人の少女の背に。
慧の胸の奥で屈辱が、慟哭が煮え立つように渦を巻く。それだけではなかった。エリスは、前世の知識を惜しみなく注ぎ込み、この国を内側から作り変えていった。「新聞」という、この世界にはなかった仕組みを生み出し、人々が何を知り何を信じるかを、巧みに操ってみせた。真実は覆い隠され、エリスにとって都合のいい物語だけが、国中に流布されていく。その手腕によって、エリスはアレクサンデルだけでなく、王族や大貴族たちからも、絶大な信頼を勝ち取っていった。
誰もがエリスを聖女と讃えた。
誰もがエレオノーラを魔女と罵った。
たった一人でエレオノーラは、その全てを睨み返すことしかできなかったーーけれど、その経緯のすべてをいま牢獄の中にいる慧は、何ひとつ知らない。
*
「……っ」
気づけば慧は固く奥歯を噛みしめていた。戦姫の強靭な拳が、知らぬ間に軋むほど握り込まれている。何があったのかはわからない。誰に裏切られ何を奪われたのかも、ひとつとして像を結ばない。それでも――痛みだけはわかってしまう。
ただ、ひとつだけ。慧の中で奇妙に引っかかるものがあった。
胸を灼くこの感情の手触りと、慧が知り尽くしたあのゲームのシナリオとが、どうにも噛み合わないのだ。『聖乙女のロンド』なら隠しエンドの最後の一行まで、今でも覚えているほどやり込んだ。けれど、その記憶のどこを探しても「新聞」などという仕組みが王国に持ち込まれた展開も、断罪の罪状がここまで一人に偏って積み上げられた筋書きも見当たらない。エレオノーラの感情が伝えてくる理不尽の輪郭は、慧の知るゲームの物語から、明らかにはみ出している。
まるで誰かが、シナリオそのものを外側から書き換えたみたいに。
その違和感の正体に、慧はまだ届かない。
胸を内側から灼くこの憎しみの熱だけが、あまりにも鮮明にあまりにも理不尽に、慧の中で吼えている。理由を奪われたまま、感情だけを置き去りにされた者の行き場のない痛みだった。
「何があったのかは、思い出せない。それでもこの痛みだけは――痛いほど伝わってくる」
慧は、ゆっくりと目を開けた。
その瞳には、もう迷いはなかった。
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逃げるという選択肢は、その瞬間、慧の中から完全に消え去っていた。
ただし、それはエレオノーラの感情に呑み込まれたからではない。慧は自分の中で渦巻くこの憎しみが、半分は借り物であることを冷静に自覚していた。けれどそれでもなお、もう半分は確かに自分のものだった。これほど一方的に、これほど卑劣に盤面をひっくり返された。やられっぱなしで、おとなしく退場するなど──
そんな筋書きは、柊慧という人間の流儀に、まるで合わない。
やるなら、全力。
逃げるのではない覆すのだ。
慧は思考を、ひとつの目的に向けて研ぎ澄ましていく。感情に流されるのではなく、その熱を燃料に変えて冷静に、精緻に手段を組み上げていく。明日の処刑。大勢の国民。エリスと攻略対象たち。それらすべてを前にして、自分は何ができるのか。手持ちのカードは何か。
クルエンタのスキル一覧。
慧の視界の中で、見慣れた技能の表示が、淡く展開していく。そして、その一覧の中の、ひとつの名に、慧の意識がぴたりと留まった。
血人形──血を依り代として、寸分違わぬ人形を造り出すスキル。慧の口の端が、ほんのわずかに吊り上がった。それは笑みと呼ぶには、あまりにも冷たい表情だった。
使える。これは使える。
頭の中で明日の段取りが、物語のプロットのように、次々と出来上がっていく。処刑の朝、引き出されるのは、本物の自分ではなくこの身体を模した、血の分体。本物の自分は姿を消して、その一部始終を、空の上から見届ける。──そうすれば。
慧はそこで、思考を止めた。
いや。本当はもっと早く、いくらでも手はあった。今すぐ鎖を引きちぎり牢を破り、この力で蹂躙の限りを尽くせば、明日を待つ必要などない。それが最も合理的で、最も手早い解だ。
なのに慧は、それを選ばなかった。
なぜ自分は、わざわざ分体を立てて、明日まで待とうとしているのか。なぜわざわざ、あの処刑の場を見届けようとしているのか。慧自身、その理由を言葉にはできなかった。けれど胸の奥のエレオノーラの感情が、静かにけれど切実に何かを求めているのがわかった。確かめたい何かがある。すがりたい最後の何かが。
「……いいでしょう」
慧はその衝動に、抗わなかった。
「付き合ってあげる、エレオノーラ。あなたが、最後に確かめたいものが、なんなのか。私も見届けてあげる……」
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夜がゆっくりと明けていく。
鉄格子の隙間から青白い暁の光が、牢の床に細い線を引いた。遠くから人々のざわめきが、潮騒のように、近づいてくる。広場に群衆が集まり始めているのだ。今日という日を心待ちにしていた人々が。亡国の魔女の終わりの瞬間を。
慧は、クルエンタとして、静かに立ち上がった。脆い鎖は、もはや何の意味も成さない。手首をわずかにひねっただけで、足環は呆気なく砕け、鉄の輪が乾いた音を立てて床に転がった。
戦姫の指先が、自らの唇をかすめる。神の血が、闇の中でぬらりと赤く光った。
「血人形、エレオノーラ生成」
囁くようにその名を言うと、滴り落ちた血が、足元でぐにゃりと蠢いた。一滴がみるみる量を増し、輪郭を持ち立ち上がっていく。やがてそこに現れたのは──鎖に繋がれ項垂れた、痩せて白い少女の姿。絶望に染まりきった……
エレオノーラ・ヴァン・ローゼンベルクそのものだった。
砕いたはずの足環さえ、分体の足首には、何事もなかったように嵌め直されている。誰が見ても、昨夜から牢に繋がれたままの罪人にしか、見えないだろう。
分体は虚ろな目で、ただ静かに処刑の時を待っている。
それを見届けるとクルエンタは、ふっと自らの存在を、空気に溶かしていった。誰の目にも映らず、誰の手にも触れられない、ただ視るためだけの透明な観測者へと。神の身であればこそ可能な完全な隠形だった。
牢の外で足音が近づいてくる。罪人を引き立てに来た、兵士たちの足音だ。
慧は最後に一度、鎖に繋がれた、もう一人の自分を見つめた。そして誰にも聞こえない声で、静かに呟いた。
「──確かめさせてもらおう」
その声に感情は、ほとんど滲んでいなかった。けれどその奥には、痛いほど張り詰めた、ひとすじの祈りのような何かが、確かに横たわっていた。
「この国にまだ、ひとかけらでも。良心というものが、残っているのかを」
扉が開く。
兵士の手が項垂れた分体の鎖を、乱暴に掴み上げた。
処刑台への長い道のりが、いま始まる。
第二話 了
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!
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