第一話「公開処刑前夜」
残り体力、わずか七パーセント。
目の前にそびえる影は、もはや一個の生き物というより、ひとつの天災だった。期間限定イベント『終焉の巨竜討伐戦』──開催からこの三日間、世界中のプレイヤーを何百回となく地面に叩き伏せてきた、十二メートル超えの黒鱗の竜。そのレイドボスが、いま、柊慧の眼前で、最後の咆哮を上げようと喉の奥を赤く灯していた。
ヘッドセットの向こう、完全没入型VRMMO『RegenesisFantasy Online』の世界は、現実と見分けのつかない解像度で慧の五感を満たしている。炙られた岩肌の熱、硫黄混じりの風、足裏に伝わる地響き。指先が、いや、この世界における慧の手そのものが、剣の柄をきつく握り直した。
「来る──」
短く呟いて、慧は竜の予備動作を読む。右の前肢がわずかに沈み、首が左へ傾いだ。コンマ数秒前に見せたあの仕草は、最大火力の薙ぎ払いブレスへの布石だ。三日間で千回は喰らった攻撃だから、もう体が覚えている。回避のフレームも、反撃に転じる最速のルートも、頭の中ではとっくに描き終えていた。あとはそれを、ただ正確になぞるだけ。
「またゲームなの? 好きねえ」
不意に、部屋のドアの向こうから母の声が差し込んできた。夕飯の支度でもしているのか、どこか上の空で、けれど呆れと諦めが半々に溶けたいつもの調子で。
「うるさいなー! 今いいところなんだから、ちょっと黙っててよー」
慧も、画面から──視界そのものから、ほんの一ミリも目を逸らさずに返す。声だけが口をついて出ていく。竜の喉の赤がぐっと濃くなった。来る。
現実は面倒くさい。
ブレスの熱波が頬を灼く幻覚の中で、慧の意識のいちばん奥で、そんな言葉がいつものように転がった。人間関係も、学校のルールも、努力した量と返ってくる結果がまるで噛み合わない。変数が多すぎて、ノイズだらけで、どれだけ最適化しようとしても答えが出ない。けれど、この世界は違う。注いだリソースのぶんだけ、世界はきちんと応えてくれる。全力を出せば、そっくりそのまま結果になって返ってくる。それがどうしようもなく心地いい。
現実が最適化できないぶん、慧はゲームの中で徹底的に最適化した。あの『聖乙女のロンド』だって同じだ。恋愛だ感動だと世間は言うけれど、慧にとってあれは、五百人を超えるキャラクターの行動原理と無数のフラグが絡み合う、巨大な論理パズルでしかなかった。誰の心も動かさず、ただ数字と条件だけを積み上げて、完璧な解へ辿り着く。それが慧の遊び方だった。画面の中の登場人物が何を感じているかなんて、一度も、考えたことはなかった。
だから──やるなら、全力。
竜の口腔が、極光のような白に膨れ上がった、その刹那。
慧は地を蹴った。横ではなく、前へ。誰もが逃げる方向と真逆、竜の懐へ向かって。放たれたブレスが、コンマ一秒前まで慧のいた空間を白く焼き尽くし、背後で岩盤が蒸発する轟音が世界を揺らす。けれど慧はもう、その熱の内側を、竜の顎の真下を、滑るように駆け抜けていた。視界の端でクールタイムのゲージが満ちきる。残しておいた最後の一撃。三日間、この瞬間のためだけに温存してきた、必殺の大技。
「ここで、終わりっ──!」
跳んだ。剣身に有り金すべての魔力を流し込む。竜の心臓があるはずの一点、黒鱗のわずかな隙間めがけ、慧は全体重と全リソースを乗せた刺突を、寸分の狂いもなく突き立てた。
手応え。鱗を貫き、肉を裂き、その奥の何かを確かに穿った、ずしりとした手応え。竜の絶叫が大気を震わせ、巨体がゆっくりと傾いでいく。視界いっぱいに、黄金色の文字が躍り出た。
『EVENT BOSS DEFEATED』
討伐。それも、ラストアタックは自分。やった。三日間の全力が、たったいま、最高の結果に化けた──。勝利の余韻に口元がほころびかけた、まさにその瞬間だった。
ふつ…と。
ろうそくの火を指で摘まんで消すように、世界から音が消えた。竜の断末魔も、岩の崩れる轟音も、夕飯の匂いを運んでいたはずの母の気配も、何もかもが一斉に遠ざかる。視界を満たしていた灼熱の戦場が、滲み、ぼやけ、急速に黒へと塗り潰されていく。
「……え?」
最後に届いたのは、ドアの向こうの、母親の何気ない声だった。
「慧、ご飯できたわよー」
その一言を遠い岸辺に置き去りにして、慧の意識は、底の見えない暗闇へと落ちていった。
____________________________________
最初に戻ってきたのは、匂いだった。
饐えた、饐えた匂い。長いあいだ陽の差さない場所に澱んだ、湿った石と、黴と、人の体液とが混じり合った、思わず喉の奥が引き攣るような腐臭。さっきまで鼻先にあった夕飯の匂いとは、何もかもが正反対の匂いだった。
次に冷たさ。
足首に硬く重く、容赦のない金属の感触。慧が身じろぎすると、じゃら、と陰気な音を立てて、太い鎖が引き攣れた。逃がさない、と言わんばかりの、絶望的な重さの足環。
慧は、ゆっくりと目を開けた。
薄闇。石壁。鉄格子。どう見ても牢獄だった。床に投げ出された自分の手が、視界に入る。
──知らない手だ。骨が浮くほど痩せ細っていて、けれど不思議なほど肌が白く、きめ細やかな…それでいて薄汚れた絹の袖から伸びている。慧は震える指で、自分の髪をひと房つかんで、目の前に引き寄せた。
金色だった。
日本人の黒い髪ではなかった。
「……は? なにこれ。なんで……」
声まで違う。喉から出てきたのは、自分のものではない、少女の細い声。混乱が冷たい水のように背筋を這い上がってくる。夢にしては感覚が鮮明すぎる。ログアウトし損ねたバグ?──そう思い込もうとした矢先、奥の重い扉が、ぎいと軋んで、細い光の筋が牢の闇を切り裂いた。
光とともに、声が漏れ聞こえてくる。さっきまで自分を呼んでいた母の声とは、似ても似つかない、抑揚を凝らした男女の声。
「聖女様。あの罪人との面会は、本日が最後となります」
「ええ、わかっております。だから今日は……いつもより、少しだけ長くなるかもしれません」
「かしこまりました。ですが、くれぐれもお気をつけを。あれは──亡国の魔女ですから」
「大丈夫。何かあれば、この緊急の腕輪で報せますから。ありがとう、兵士ユグベル」
罪人…亡国の魔女……
聞き慣れない単語が、けれど確かに自分を指して使われていることだけが、嫌になるほど明確に伝わってくる。慧が身を硬くするのと、扉が大きく開かれるのは同時だった。
逆光の中から一人の少女が、ゆっくりと歩み入ってくる。
淡い色の髪、機能性を重んじた飾り気のない清潔な制服、そして可憐な顔立ち。その姿を目にした瞬間、慧の頭の中で忘れたくても忘れられない記憶が、火花を散らして繋がった。
「──なっ……なんで……?」
知っている。知っているどころの話ではない。かつて、エクセルにフラグ管理表まで作り込んで、隠しエンドまで残らず攻略し尽くした、あの乙女ゲーム。
「『聖乙女のロンド』の……主人公、エリス・フォン・クラインが……なんで、目の前に立ってるのよ……?」
慧の口から零れたその名を聞いた瞬間、優美に微笑んでいた少女の表情が、ぴしりと凍りついた。
「……は? なんで」
少女の声から、聖女らしい慈愛の響きが、音もなく抜け落ちていく。
「なんであんたの口から、『聖乙女のロンド』なんて名前が出てくるのよ」
「「えっ……!?」」
ふたりの声が、牢の中でぴたりと重なった。
数秒の痛いほどの沈黙。先に均衡を崩したのは、慧のほうだった。
「……ちょっと、待って」
慧は掠れた声を絞り出す。
「少し整理させて」
「ええ、どうぞ」
エリスは、にわかに面白がるような目で慧を見下ろしている。慧は乾いた唇を舐めた。エリスがここにいる。乙女ゲームのヒロインが、現実と同じ質量で、自分の前に立っている。だとすれば。
「エリスがいるってことは……この身体、この場所……ここ、日本じゃ、ないの……?」
その問いを聞いた途端──エリスが、噴き出した。
「ぷっ……あはははっ、あははははははは──!」
可憐な顔をこれ以上ないほど醜く歪めて、エリスは腹を抱えて笑い転げた。牢の壁に甲高い哄笑が反響する。
「うっそ、超ウケるんですけど──! まっさか、あんたがわたしと同じ転生者だったなんてねえ! 最高、最高すぎるわ、こんなのっ!」
「転生……?」
慧の思考が、その言葉に追いつかない。
「待ってよ、私、ついさっきまでゲームしてたのよ。ラスアタ決めて勝って、それで……なんで、転生なんて……」
「知らないわよ、そんなの」
エリスは涙の滲んだ目尻を拭いながら、なおも笑いを噛み殺している。
「でもまあ、いいわ。せっかくの同郷のよしみだもの。教えてあげる。あんたが今、誰になってるのかを」
慧の喉がこくりと鳴った。聞きたくない。けれど、聞かなければならない。その相反する衝動が、痩せた身体の中でせめぎ合う。
エリスは、勿体ぶるように一拍置いて、世にも嬉しそうにその名を告げた。
「あんたが転生したのはね──悪役令嬢、エレオノーラ・ヴァン・ローゼンベルク。この『聖乙女のロンド』で、わたしを散々いじめ抜いた、お約束の当て馬役よ」
「……うそ」
「そして……」
エリスの笑みが、いっそう深くいっそう歪んでいく。
「明日、あんたは大勢の国民が見守る中で、公開処刑されるの。この国を滅亡の淵に追いやった、史上最悪の悪女──亡国の魔女としてね」
「しょ……処刑……!?」
頭が真っ白になった。
処刑。
その二文字が、現実味を伴わないまま、それでも確かな冷たさを持って、慧の胸の奥を貫いていく。
「ほんっとうに、最高だわ」
エリスはうっとりと目を細めた。
「物語の最後の最後に、こんなご褒美イベントが残ってたなんて。今日、わざわざ会いに来た甲斐があったってものよ。あははっ」
「待って……待ってよ」
慧は、痩せた手を必死に伸ばした。鎖がじゃらりと無情に鳴る。
「あなた、同じ転生者なんでしょ? 元は日本人なんでしょ? だったら、同郷のよしみで、お願い助けて──」
「それは、だ・め」
ぴしゃりとエリスは慧の言葉を断ち切った。
「なんで……どうして……!」
「だってえ」
エリスは小首を傾げ心底不思議そうに、心底楽しそうに言った。
「あんたが処刑されてくれないと、わたしが安心して幸せになれないじゃない。ここはね、わたしの世界なの。エリスの…わたしだけの世界。好き勝手にやって幸せになっていいのは、わたしだけって決まってるのよ」
それはヒロインの言葉ではなかった。可憐な顔の皮一枚下に隠された、底の知れない醜さが、剥き出しになった瞬間だった。
「それにさあ」
エリスは慧の絶望に染まった顔を、舐めるように眺めて、うっとりと続ける。
「いいわねえ、その顔。その絶望しきった表情。ずっと見たかったのよ、エレオノーラのそういう顔。今までのあんたときたら、わたしが何を言っても、ただ黙ってこっちを睨みつけるだけだったんだから。つまんなかったわ、ほんと」
睨みつける。──その言葉に慧の胸の奥で、何か熱いものがぐらりと揺れた。けれどエリスは、それに気づかない。
「もっと面白いこと、教えてあげましょうか」
エリスは身を屈め、内緒話でもするように声を潜めた。
「あんたね、この国の人間、ぜーんぶから憎まれてるの。あんたの味方なんて、この世にただの一人もいやしない。なにせあんたの実家──誇り高きローゼンベルク公爵家からして、あんたを売り飛ばしたんだから」
「……売られた?」
その一語だけが、慧の唇から零れた。
「そう。大貴族なんてね、どこも多かれ少なかれ、後ろ暗いものを抱えてるものなの。その汚れ仕事の全部を、あんた一人に擦り付けたってわけ。ローゼンベルクの家名を守るために、あんたの家族は、誰より率先して、あんたを生贄に差し出したのよ。実の娘をね」
慧は、言葉を失った。会ったこともない「家族」に裏切られたという事実が、けれど不思議なほど鋭く胸を抉る。
いや──これは自分の痛みじゃない。
「あーあ、それにしてもエレオノーラ、あんたも運がないわよねえ」
エリスは芝居がかった仕草で、ため息をついてみせた。
「よりにもよって、処刑の前日に前世の記憶が戻っちゃうなんてさ。タイミング、悪すぎ。せいぜい、自分の星の巡りの悪さでも呪うことね。あははっ、あはははは──!」
それでも慧は、縋りつくように、何度もエリスに懇願した。死にたくない、助けてほしい、見逃してほしい。けれどそのたびに、エリスは聖女の仮面の下の醜悪な素顔を、これでもかと見せつけては、嬲るように嗤った。慧の絶望が深まれば深まるほど、エリスの顔は恍惚と輝いていった。
そしてひとしきり笑い、いたぶり満足しきった頃。
エリスは、慧をどこまでも見下しながら踵を返した。
「安心なさい」
扉の手前で、彼女は振り返らずに言った。
「あんたが死んだあとは、毎年ちゃんと祈ってあげる。聖女としての株を上げるためにね。死んでからもわたしに利用してもらえるなんて、光栄に思いなさいよ。あははははっ──」
高笑いを残して扉が閉まる。光が消え牢には再び、饐えた闇だけが残された。
____________________________________
しん…とした静寂の中で、慧はぽつりと呟いた。
「……なんなのよ、あのクソ女」
声が震えていた。
「あんなの……あんなのが、エリスのわけない。わたしが知ってるエリスは……あんなに、歪んでなんか……」
言いかけて、慧はふと…ある可能性に行き当たって息を呑んだ。
「まさか……あいつ、最初からこの世界が乙女ゲームと知ってたから……? 自分が一番いい思いをするために、エレオノーラを……わたしを逆に陥れて……?」
考えれば考えるほどすべての辻褄が、嫌な音を立てて合っていく。慧は力なく項垂れた。会ったこともない少女の身体で、見も知らぬ罪を着せられて、明日には殺される。あまりにも理不尽で、あまりにも一方的な、詰みの盤面。
「……やっぱり、死にたくない」
気づけば痩せた頬を、熱いものが伝っていた。悔しくて悔しくて、たまらなかった。けれど──その涙の出どころが、自分でもよくわからなかった。
そして慧は気づく。
自分の心の奥底に煮えたぎるような、激しい憎悪が渦を巻いていることに。
「……なに、これ」
慧は自分の胸に手を当てた。
「この感情……これ、わたしが憎んでるっていうの……?」
違う。これは自分の感情の温度じゃない。慧の合理的な思考が、それを冷静に否定する。自分はまだ、この世界の何にも誰にも…こんな憎しみを抱くほどの時間を過ごしていない。では、この憎悪はいったい誰の──。
「……そうか」
答えはすぐそこにあった。
「エレオノーラ。これは、あなたの感情なのね」
口にした途端、胸の奥の渦が、応えるようにぐらりと大きくうねった。
「あなたは……こんなにも悔しい思いを、抱えてたのね。誰にも理解されなくて、誰も味方してくれなくて、それでもずっとたった一人で……」
慧にはエレオノーラの記憶は、何ひとつ思い出せなかった。彼女がどんな人生を歩み、何を考え、何を守ろうとしたのか、その断片すら浮かんでこない。けれど──感情だけは、まるで自分のことのように、手に取るようにわかった。
屈辱。慟哭。不甲斐なさ。そして、すべてを焼き尽くすほどの、深い深い憎しみ。
その瞬間、慧の中でひとつの認識が静かに書き換わった。
エレオノーラ・ヴァン・ローゼンベルク。その名は慧にとって、ただのゲームのキャラクターにすぎなかった。攻略チャートの中で主人公を妨害する障害物。倒すべき壁。フラグの集合体。何百時間と画面の中で対峙してきたのに、慧は一度たりとも、その向こう側に「人」がいるなどとは考えたことがなかった。
考える必要がなかったのだ。相手は記号で、こちらは最適解を入力するだけ。それがゲームというものだった。
けれど、いまこの胸を内側から焼く憎しみは、間違いなく「誰か」のものだった。記号はこんなふうに悔しがらない。データは、こんなふうに泣かない。屈辱に震え、見捨てられて慟哭し、それでも誰にも縋れずに、たった一人で、爪が食い込むほど拳を握り続けた──そういう温度が、確かにここに残っている。
ああ、そうか…と慧は思った。乾いた…奇妙に静かな納得だった。
エレオノーラは、単なるキャラクターじゃなかったんだね。
画面の向こうで、慧がただの「壁」として何度も乗り越えてきたこの少女は、最初から最後まで、ちゃんと血の通った、生きている人間だった。笑って傷ついて誰かを想って、そして裏切られた、一人の人間。その当たり前の事実に、慧は今ようやく触れていた。
「わたしも、いやよ」
慧は涙を拭い、痩せた拳をぎゅっと握りしめた。
「あんな奴に、いいように利用されて。なんの抵抗もできないまま、明日、おとなしく殺されるなんて……そんなの絶対に、絶対にいや──!」
憎悪と決意が、二人ぶんの感情となって痩せた身体の中で、轟々と燃え上がる。けれど、現実は無情だった。鎖は重く牢は固く、明日には処刑が待っている。何ひとつ覆せる手立てなど──。
ないはずだった。
ぼうっと虚空を見つめていた、そのとき。
慧の視界のいちばん左の端で。
何かがチカチカと…規則正しく、点滅していた。
「……え?」
慧は思わず目を凝らす。見間違いではなかった。暗い牢の空間に確かにそれは、浮かんでいた。この世界の何ものとも違う、無機質で見慣れた、ひどく懐かしい光。
それは──まぎれもなく。
ついさっきまで、自分が全力で潜り込んでいた、あの世界へと続く扉。
『RegenesisFantasy Online』へとログインするためのカーソルだった。
第一話 了
お読みいただきありがとうございました m(_ _)m
ハイファンタジー初挑戦作品です!!
少しでも「面白い」「続きが気になる」と思っていただけたら、
下部にある【ブックマーク登録】や【評価の星(★★★★★)】をいただけますと、執筆の大きな励みになります!どうぞよろしくお願いいたします!
第二話の公開は二十一時です(*゜▽゜*)




