第十八話「拾う者」
空はいまや、一面の戦場と化していた。
立ちこめる血の匂い、そして爆ぜ散る魔力の残滓。二つに割れた死闘が、帝都の上空を狂おしいまでに彩っている。
――だが。その凄惨な光の乱舞からほんの少しだけ離れた、崩れかけた尖塔の陰。誰の目にも、誰の意識にもまるで留まることのないその片隅に、ひとつのごく小さな影がひっそりとうずくまっていた。
魔王種ベラフィア。
真魔皇リネージュ・アインより、ただ「見届けよ」とだけ命じられた、本来ならば戦闘には決して加わらぬはずの観測者。立ちこめる死の瘴気すら、彼女にとっては甘美なご馳走でしかない。喉を鳴らし、静かにそれを吸い込む姿は、あまりにも悍ましく、そして美しかった。
そしてその双眸だけが爛々と、あの深紅の女神の一挙手一投足を舐めるように追い続けている。
「……すごいわ。あたしが想像していた、ずっと…はるかに上……」
うわ言のように、ベラフィアの唇がかすかに震えながら言葉を紡いでいく。
「やっぱり、あれは魔王なんかじゃない。正真正銘の……魔神。ああ……欲しい。欲しい、欲しい、欲しい。あの力……あたしは、何がなんでも、絶対にこの手に入れたい……!」
思えば、魔王種として生を享けてからというもの、ベラフィアはずっと飢えていた。真魔皇の御下、十一の玉座に居並ぶ魔王たちを、いつだってただ指をくわえて見上げるばかりの日々。自分もいつかはきっとあの高みへ。その渇望だけを痩せた胸の裡に密かに抱え込んで生きてきたのだ。
だからこそ――この、天が与えたとしか思えぬ千載一遇の好機を、彼女がみすみす見逃すはずなどあろうはずもなかった。
その底なしの渇望を瞳の奥で燃やしながら――彼女は静かに動き出した。
*
戦場の中心では、深紅の女神が二体の魔王を同時に相手取りながら、まさに圧巻の舞を披露していた。
「――ちょこまかと……! いい加減、その足を止めろッ!!」
傲慢のルシフェル・ゼニスが苛立ちも露わに「神墜とし」の狙いを幾度も幾度もクルエンタへと据えようとする。だがそのことごとくが虚しく空を切った。彼女は「神速」の一閃で常にその狙いのほんの一歩外側へと滑り抜けながら、憤怒のイグニスが唸りを上げて放つ灼熱の豪腕を紙一重で潜り抜け、その懐深くへと鋭く踏み込んでいく。
「――邪魔なのは、あなたたちのほうよ」
彼女の細い五指が深血の刃を纏い、イグニスの分厚い装甲を深々と抉った。だが、憤怒の巨人は砕けたその身をたちどころに再結合させると、獣めいた咆哮とともに、なおも執拗に喰らいついてくる。厄介極まりないその再生能力。クルエンタは胸の裡でちいさく舌打ちを漏らした。
「……こいつの再生、思ってたよりしぶといわね。あーあ、真神モードさえ戻ってくれてたら、こんなの一発で沈むんだけどなー」
それでも、彼女はまるで慌てなかった。イグニスが再結合を果たすたび、その一瞬の綻びを突いて深紅の刃を装甲の継ぎ目へと寸分違わず叩き込んでいく。同時に、背後から迫るルシフェルの追撃を振り向きもせずにしなる血の鞭で薙ぎ払う。
二体を同時に相手取りながら、その動きにはほんの寸分の乱れすらもない。攻めあぐねているのは、むしろ二体の魔王のほうだった。傲慢と憤怒。本来ならばそのどちらか一体でも大陸を丸ごと震え上がらせるほどの魔王が、二体がかりでかかってなお、たった一人の吸血神の指先ひとつにすら届かせられずにいる。その耐えがたい屈辱に、ルシフェルの端整な美貌がぎりぎりと歪んでいった。
だが、その内心では彼女もまた密かに焦れていた。イグニスのあの厄介な再生さえなければ、とうの昔に片がついているのだ。手数で削っても憤怒の巨人は崩れた灰の中から何度でもしぶとく起き上がってくる。
(……こういうしつこいのが、いっちばん面倒なのよねー)
それでも、クルエンタは決して止めなかった。動きを止めたその一瞬こそが、この手負いの二体に唯一許された勝機となることを、幾多のゲームでの戦いの果てに知り抜いていたからだ。
一方、そこから少し離れた宙では――
「はぁッ――!!」
オーランドがその神話級の得物を握りしめ、嫉妬のレヴィア・カインと鋭く斬り結んでいた。
母から託された、ただ一体。この戦いは彼にとって、もはや単なる戦闘などではない。己という存在の価値を母へと証明するためのいわば聖なる試練だった。
「ふふ……ずいぶんいい剣を持っているじゃないの。ねえ、それあたしに頂戴よ」
レヴィアの〈羨望の模倣〉がその刃に宿る力をそっくり盗み取ろうと、ねっとりと絡みついてくる。だが、オーランドはその甘やかな誘いを鋼の意志できっぱりと断ち切った。彼の剣はどこまでも迷いがなく鋭く、そして――清廉だった。
「……断る。この剣もこの命も、そのすべては母上のためにこそある。……貴様如きにくれてやるものなど、何ひとつありはしない――!!」
言い放つと同時、オーランドの剣が一段と冴えを増した。深く踏み込み、下段から斬り上げ、返す刃で真横に薙ぎ払う。その一撃一撃には、生前、勇者として血の滲むほど磨き上げた技の冴えに加え、公爵級の眷属となったいまのこの膂力までもが遺憾なく乗せられている。レヴィアは蛇のようにしなって辛くもそれを躱しながらも、その圧にじりじりと後退を強いられていった。
「……なによ、この子。ただの母親っ子かと思っていれば……! 生意気な……!」
忌々しげにそう吐き捨てる嫉妬の魔王へ、オーランドは静かな、それでいて燃えるような闘志を宿した瞳で、無言のまま応える。母に恥じぬ働きを。ただその一念だけが、いま彼の全身を力強く突き動かしていた。
*
その苛烈を極める死闘の、ちょうど裏側で。
ベラフィアは地上へとそっと音もなく降り立っていた。彼女の目の前には、先の理不尽な断罪を辛くも生き延び、そしてクルエンタに一瞬で首を刎ねられた、刃翅のザイル・グレンの変わり果てた亡骸が力なく転がっている。
「……あなたのその力……あたしの糧にしてあげる。あなたの死は無駄にはならないわ」
囁くように言いながら、ベラフィアがその亡骸へとそっと手をかざした。すると、ザイルの骸からゆらりと立ちのぼった仄暗い力が、まるで見えぬ糸に手繰られるように、彼女の小さな体の裡へとするすると吸い込まれていく。
ぞくりと、ベラフィアの背が抗いがたい快感に大きく震えた。
「……ああ。ああ、これよ。この、内側からみるみる満ちていく感じ……! ああ、たまらないわ……!」
それこそが、彼女の異能の本領だった。他者の力を、その情報のことごとくまでをそっくり写し取り、我がものとしてしまう。すなわち、戦場に骸が増えれば増えるほどに、この小さな観測者は静かに、そして着実にその身を強くしていくのだ。
やがて戦況が進むにつれ――魔王たちの削り取られた装甲の破片が、爆ぜ飛んだ肉の一片が、飛び散った血の雫が、戦場のそこかしこへと雨のように降り注ぎはじめる。ベラフィアはまるで戦場を這いずり回る獣のように、そのひとつ一つをじつに丹念に拾い集めていった。イグニスの爆ぜた装甲の欠片を。レヴィアの流した鮮血の一滴を。そして、崩れ落ちていくルシフェルの砕けた機械翼の破片までを。
拾っては取り込み、取り込んではまた拾う。
取り込めば取り込むほどに、その渇きは癒えるどころか、むしろいっそう烈しく燃え盛っていった。
もっと。
もっと強い力を。
より上等なより濃密な魔王の力を。
ベラフィアのぎらついた眼差しが、戦場の中心で舞い踊るあの深紅の女神へと幾度も幾度も吸い寄せられていく。
あれこそが究極の獲物。
あれさえこの身の裡に取り込むことができたなら――そう夢想するだけで、彼女の口の端はもはや抑えようもなく吊り上がっていくのだった。
ひと欠片、力を取り込むたびにベラフィアの輪郭は少しずつ、確かに変わっていった。痩せて頼りなかった手足にはしなやかで力強い筋が通りはじめ、どこかうつろだった瞳の奥には剣呑な光がちらちらと宿りはじめる。骸を喰らう影は、もはやただの無害な観測者などではなかった。戦場の勝者たちのそのことごとくを喰らい尽くさんとする、貪欲な影の捕食者へと――静かに、けれど確実にその姿を変えつつあった。
それでもなお。その存在の変貌に気づく者は、この戦場にただの一人としていなかった。誰もがあまりにも凄まじいその本戦の光にこそ、その目をすっかり奪われていたのだから。
*
そして決着の時は、あまりにも唐突に訪れた。
「――そろそろ、飽きてきちゃったわ」
クルエンタの酷薄な声が、戦場に静かに響く。彼女はなおもしつこく喰らいついてくるイグニスを、ひときわ強烈な血の刃で大きく弾き飛ばした。反動をそのまま利用して、一気に傲慢の魔王のがら空きになった懐へと肉薄する。
「なっ……!? き、貴様、いつの間にそこへ――!」
ルシフェルの瞳が驚愕にかっと見開かれた。だが、もう何もかもが遅い。「神速」で完全にその背後を取りきったクルエンタは、細い右腕を鋭い深紅の槍へと変じさせ――一片のためらいもなく、傲慢の魔王の心臓をその背中からまっすぐに深々と貫いた。
「……あ、り……えな、い……。この、私、が……羽虫如きに……」
最期までその傲慢だけはついに捨てきれぬまま。ルシフェル・ゼニスの巨躯ががくりと力を失い、光の粒子となってさらさらと崩れ散っていった。
三体のうち一体。クルエンタは確かに討ち取った。
――だが。そのまさに瞬間のことだった。
魔族という種をその根底で支配するひとつの理が静かに、そして確かに発動した。
〈魔王の系譜〉。
魔王が斃れれば即座に魔王種の中から新たな魔王が生まれ落ちる――真魔皇の絶対にして不変の権能である。
ルシフェルという名の玉座がいま、ひとつ空いた。そしてその空白を埋めるべき力が収まるべき器を求めて、戦場をぐるりと駆け巡る。
――その力が、ついに見出したもの。
それは戦場の片隅で無数の骸を喰らい尽くし、いままさに満ち満ちていた…ひとつの器だった。
「――ぁ」
崩れかけた尖塔の陰で、ベラフィアの体がびくんと大きく跳ねる。全身を途方もない力の奔流が内側から駆け抜けていった。骨が軋み肉が沸き立ち、魂そのものが一段高い格へと無理やりに引き上げられていく。それは灼けつくような苦痛と痺れるような恍惚とが渾然一体となった、名状しがたい感覚だった。彼女の中で何か決定的なたがのようなものが、ぷつりと外れる音が確かにした。
あたりに漂っていた濃密な瘴気がざわりと渦を巻いて、その小さな影のもとへといっせいに集束していく。
そして――誰にも決して見咎められることのない戦場のその片隅で。
ひとつの新たな魔王が、ゆらりと静かに立ち上がった。
もはやそこにいるのは、先ほどまで瘴気を啜っていた者ではなかった。全身から魔王のそれと寸分違わぬ濃密な魔の気を立ちのぼらせ、その瞳の奥には抑えきれぬ全能感と剥き出しの野心とがぎらぎらと渦を巻いている。累々たる骸の上に悠然と立つ、新たな魔王。
それこそが今のベラフィアの姿だった。
ふつりと胸の裡でこれまでずっと自分を縛りつけてきた真魔皇への畏れが、呆気なく消え去っていくのを彼女は確かに感じ取っていた。もう、誰かに従う必要などない。もう誰かを指をくわえて見上げる必要もない。
――ようやく、あたしもこの高みへたどり着いたのだ。
舞台の中央でなおも死闘を繰り広げる者たちは、まだ知らない。自分たちの戦いのすぐその陰で――拾う者がいままさに玉座の縁へと、そっと手をかけたことを。
第十八話 了
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