第十六話「吸血神」
黄金の光が夜を真っ二つに裂いた。
クルエンタの全身を包み込んでいた輝きの繭が内側から膨れ上がり、限界まで張り詰めた――その次の瞬間だった。繭が爆ぜた。あの深紅の女神のドレスが、まるで薄い硝子細工ででもあったかのように無数の光の欠片となって砕け散り、きらきらと夜気の中へ溶けていく。
そしてその光の奔流の只中から、あらたな姿がゆっくりと顕現した。
人に近しい女神は、もうどこにもいない。
しなやかな肢体を覆っているのは、黄金に輝く荘厳な戦装束であった。細部にいたるまで神々の紋様が刻み込まれた、目も眩むばかりの鎧。その背には光そのものを羽根と成したかのような、巨大な金色の翼が悠然と広げられている。 全身からは見る者の魂までをも灼き尽くさんばかりの、荘厳な黄金の波動が絶え間なくこんこんと溢れ出していた。
――これぞ真の吸血神。
ただの吸血姫でも、深紅の戦姫でもない。神々の座に列なる者としてのその真の姿が、いま魔王たちの眼前へ惜しげもなくあらわになった。
その神威はもはや、ひとりの存在から放たれるものの領域を完全に踏み越えていた。ただ静かに宙へ佇んでいるだけだというのに、周囲の夜気はその途方もない圧に耐えかねてびりびりと悲鳴じみた震えを上げ、たなびく雲はまるで触れることを恐れるかのように大きく渦を巻いて遠く後ずさっていく。
地上の帝都で過ごす民でさえ、天に満ちたその気配にわけもわからぬ胸騒ぎを覚えて、ふと空を見上げたことだろう。神が地に降りている。ただ在るというだけで、世界の側が恐れかしずく。それがいま顕現した存在のありのままの姿だった。
「――な……」
傲慢のルシフェル・ゼニスの喉から、意味を成さぬ声が掠れて漏れる。常に他者を羽虫と見下し、どこまでも超然と構えてきたはずのその男が、いまはただ、その圧倒的な神威を前に頭のてっぺんから爪先までを金縛りにされていた。
嫉妬のレヴィアも、憤怒のイグニスも、否、後方に控えた六体の魔王種たちですらも――そのことごとくが、抗いようもない本能的な畏怖にびくりと身をすくませている。
「……母上」
傍らのオーランドですら、思わずその名を呼んでいた。母の戦う姿を…直接戦い見てきたはずの彼にとってさえ、いま眼前に顕現したこの神々しさはまったくの未知のものであった。畏敬とも戦慄ともつかぬ震えが、彼の背をゆっくりと這い上がっていく。
魔王もまた、互いにそっと視線を交わし合った。だが、誰ひとりとして言葉を発しはしない。いや――発することなど、できはしなかった。ここに至ってようやく、彼らは腹の底で認めざるを得なかったのだ。
目の前に立つこれは、自分たちが討つべき「魔王の同類」などでは断じてないと。もっと根源的なところで格の違う存在。すなわち、自分たちのほうこそが「討たれる」側へと回る類の、隔絶した上位者。
真魔皇の下命を受け、勇んで乗り込んできたはずのその足が、いまや三体そろってじりと後ずさりかけている。その本能的な怯えこそが、何よりも雄弁に彼我の絶望的なまでの力の差を物語っていた。
だが、当の神はそんな周囲の畏怖になど、もはや一顧だにしなかった。
黄金の光を纏ったクルエンタはただ静かに眼下の敵を睥睨すると、抑揚のない、それでいて有無を言わさぬ声でこう宣言した。
「――まずは、数を減らす」
(一体ずつ、律儀に付き合ってあげる義理なんてどこにもないものね。……面倒なものは、さっさと片付けるに限るわ)
その胸の裡には、様子見という文字など、もはや微塵もなかった。手数で押してくる敵が何よりも嫌うもの。それは押し返す暇すら与えぬ圧倒的な一撃であることを、彼女は幾多の戦いの果てに身をもって深く知り抜いていた。
「スキル――戦場の審判!!」
彼女がそっとその名を口にする。
それは断罪の権能であった。この戦姫の戦場に立つに値する者であるか否か。ただその一点のみを峻厳に見極める。 そして――値せぬと断じられた者は抗う術さえ与えられぬまま、ただ消滅する。
刹那。
六体の魔王種の頭上に、それぞれ黄金の光でできた裁きの輪が音もなく静かに顕現した。
――自然、その内の五体には、悲鳴を上げる猶予すら与えられなかった。
鉄骸のドルガも。
砲群のギルヴァも。
群狼のネビアも。
不朽のザラも。
毒霧のシェスカも。
その五体はまるで最初からそこに存在してなどいなかったかのように黄金の光に呑み込まれ、塵ひとつ残さずこの世界から掻き消えた。抵抗も、断末魔も何ひとつありはしない。ただあまりにもあっけなく消えたのだ。
――だが。
その死の裁きを、ただ一体だけ間一髪で免れた者があった。刃翅のザイル・グレンである。その者だけは迫りくる神威を前に、ほとんど反射で己の最後の切り札を切っていた。
「スキルーー魔王化」
おのれの格をわずか数十分だけ魔王のそれへと無理やり引き上げる、切り札とも言うべきスキル。その僅かな判断が――魔王級へと跳ね上がったその身が辛うじて「この戦場に値する」と認められ、彼をあの理不尽な断罪の輪から間一髪で掬い上げたのだった。
全身から冷たい脂汗をだくだくと噴き出しながら、ザイルはがくがくとその薄刃の翅を打ち震わせた。
「……う、嘘だろ。おい……たった一瞬で、五体まとめてだと……!?」
残された三体の魔王もまた、その凄惨な光景に完全に言葉を失っていた。共に戦線を歩んできたはずの魔王種たちが、ただの一合も交えることなく「値しない」と断じられたそれだけでまとめて消し飛ばされてしまった。そのあまりにも一方的な事実が、彼らの背筋をこれ以上ないほどに凍りつかせる。
辛うじて生き延びたザイルの胸を満たしたものも、安堵などでは決してなかった。むしろそれは、底の見えぬ深い絶望だった。
あの断罪は力の優劣を測ったのではない。ただ「値するか、否か」を、こちらの都合など一切おかまいなしに一方的に突きつけてきただけ。つまり、あの女神はその気になりさえすればこちらの命の有無すらも、まるで気分ひとつで選り分けてしまえるということなのだ。
戦う、戦わない以前の…あまりにも隔絶した格の違い。その現実を突きつけられ、ザイルの心はただの一合も交えぬうちから早くもぽきりと折れかけていた。
だが――真の悪夢は、まだ始まったばかりだった。
「――さあ。次はあなたたちの番よ」
クルエンタがすっと片手を宙へとかざす。
その瞬間だった。彼女の周囲の虚空に、深紅の輝きがぽつりぽつりと無数に瞬きはじめた。一本、また一本とそれは見る間に数を増していき――やがて夜空そのものを埋め尽くさんばかりの、数百もの緋色の槍が天穹にびっしりと生成されていく。
そのひとつひとつが、殺すためだけに鍛え抜かれた終焉の一撃。
「スキル――終焉の槍。……さあ、遠慮なく受けてごらんなさい!」
彼女がふわりと指先を振り下ろす。
次の刹那、数百の緋色の流星が凄まじい咆哮を上げて、三体の魔王めがけいっせいに降り注いだ。
「くっ……! 舐めるな――ッ!!」
傲慢のルシフェルが機械の翼を盾のように広げ、必死にその緋色の豪雨を防ごうとする。だが、一本一本が必殺の威を帯びた緋槍は、彼の誇る漆黒の装甲をいともたやすく貫き抉り、無残に砕いていった。
憤怒のイグニスは真正面からその弾幕を浴び、幾度となく巨躯を吹き飛ばされながらも、その都度、砕けた身を即座に再結合させ、獣めいた咆哮を上げて辛うじて耐え凌ぐ。
嫉妬のレヴィアは身を捩り、蛇のようにしなやかにうねってどうにか致命の槍だけは躱していく。それでもその白い肌のあちこちが、掠める緋槍に深々と幾筋も裂かれていった。
それでも、緋槍の雨はいささかも衰えを見せはしなかった。一本を辛うじて防げば、その一瞬の隙間を縫って三本が容赦なく突き込まれてくる。三本を躱しきったと思えば今度は頭上から十本が牙を剥いて襲いかかる。まるで空そのものが無数の牙を持ち、逃げ惑う獲物を骨の髄まで貪り尽くそうとしているかのようだった。
ルシフェルの傲慢な美貌が堪えがたい屈辱と苦痛にぐしゃりと歪む。イグニスの重装甲が爆ぜては再生し、再生してはまた爆ぜる。レヴィアの艶やかなドレスは見つめる間に鮮血にぬめり、無残に裂けていった。誇り高きはずの三体の魔王がなすすべもなく、緋色の檻の中でただみっともなくもがき続けるほかない。
空が緋色に燃えあがる。
降りしきる終焉の豪雨の下で、三体の魔王はただなすすべもなく打ちのめされ続けた。防いでも防いでも緋槍は尽きることなく降り注ぎ、その身を、その矜持を容赦なく削り取っていく。
そのあまりにも一方的な蹂躙を、オーランドは少し離れた宙から息を詰めて見つめていた。これが――これこそが、自分が「母上」と仰ぐ御方の真の力なのか。あの神々しい黄金の輝きの前では、魔王ですらもはやただの的に過ぎないのだ。
畏敬の念がじわじわと彼の胸の奥を熱く満たしていく。それと同時に、あの御方に仕える者として恥じぬだけの働きを自分もまた必ずや示さねばならぬ――そんな静かな、けれど揺るぎない決意の光が、彼の澄んだ双眸に確かに灯った。
(――ああ、もう。この分ならあらかた終わりね)
その圧倒的な光景を黄金の神威の只中から見下ろしながら、彼女は内心でひとつ小さく息をついた。魔王種はもう一体を残すのみ。魔王三体とてこれだけの深手を負わせておけば、あとはどうとでも料理できる。あまりにもあっけない幕引きだ。かつて神々を相手取ったあの死闘に比べれば、こんなものほんの児戯にも等しい――
――と。そう、たかを括ったまさにその瞬間のことだった。
ふつりと。
まるで張り詰めていた糸でも不意に断ち切られたかのように、彼女の全身を覆っていたあの荘厳な黄金の輝きが掻き消えた。
背に広がっていた巨大な金色の翼が、さらさらと光の粒子となって崩れ散っていく。全身からあれほど絶え間なく溢れ出していた黄金の波動が、嘘のようにすうっと引いていった。神の座へと押し上げてくれていたあの途方もない力が――まるで握った指の間から零れ落ちる砂のように、みるみるうちに失われていく。後に残されたのは、ただ戦闘用の鎧を纏っただけのいつもの深紅の女神。そのぽつねんとした姿だけであった。
「……え?」
クルエンタの常なら酷薄なはずの美貌に、初めて素の…間の抜けた表情がぽかんと浮かぶ。
「……う、うそでしょー? もう解けちゃったの……? まだぜんぜん、こんな、始まったばっかりなのに……??」
慌てて己の両手を見つめ、翼のあったはずの背を幾度も振り返る。だが、あの黄金の力はもうどこを探してもありはしなかった。
(な、なんでよ!? ゲームだったらまだたっぷり効果時間はあるはずなのに……! こんな一瞬で『スキルーー終焉』が切れてしまうだなんて、そんなのありえない――)
ゲームの中では当たり前だったはずの常識と、この見知らぬ世界の理とのあまりにも決定的な食い違い。その残酷すぎる事実を、彼女はよりにもよってこの最悪の戦場のど真ん中で、生まれて初めて思い知らされたのだった。
背筋を冷たいものが、つう…と伝う。
だが、頭の片隅ではすでに、慧の思考が猛烈な速度で回転を始めていた。
『終焉』があっさりと尽きてしまった以上、次にそれが使用可能になるまでには、それなりの時間がかかるはずだ。つまり、今の自分はあの絶大な神威を失った。しかも目の前には、手負いとはいえ、まだ三体の魔王と一体の魔王種がしぶとく生き残っている。
最悪のタイミングだった。よりにもよって、なぜこの局面で切れてしまうのか。
慧は喉元までせり上がってくる焦燥を、奥歯でぐっと噛み殺した。
――そして。その致命的とも思える綻びを……
地に伏していたはずの魔王たちが、むざむざと見逃すはずはなかった。
第十六話 了
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