第十三話「獅子、血に沈む」
夜天を裂いて、二つの影が北へ翔けていた。
一つは、血の霧を織り上げた翼だった。クルエンタが右腕を薙ぐたびに、周囲へ漂っていた深紅の靄がひとりでに寄り集まり、しなやかな羽へと姿を変えていく。「スキルーー戦乙女の飛翔」彼女の背から広がったそれは、羽ばたくというより、夜風そのものを従僕のように従えているように見えた。月光を吸って濡れたように光る羽の一枚一枚が、通り過ぎる雲の腹を薄紅に染めあげ、消えていく。
その斜め後ろを、もう一つの影が追った。オーランドである。かつては白銀の甲冑を纏い、誠と信義の双剣を掲げた勇者。いまは背から蝙蝠を思わせる漆黒の翼を広げ、澄んだ夜気を音もなく切り裂いている。陽の下でも活動できる上位の吸血鬼——公爵級のデイウォーカーとして、彼はこの世界へ生まれ直したのだ。
「母上」
風に紛れて、よく通る声が届いた。かつての清廉さはそのままに、しかしその奥には、以前の彼にはなかった一途な熱が静かに燃えている。
「あの帝国を、本当に作り変えるおつもりですか」
クルエンタは振り返らなかった。紅い双眸は、ただ前方の闇——地平の彼方にわだかまる、獅子の帝国の灯りの群れだけを見据えている。
「作り変えるか。……ええ、そうよ。手駒はひとつでも多いに越したことはないもの」
(それに国をいちいち滅ぼしていたらきりがないわ…)
胸の裡でそう呟いたのは、戦姫ではなく、その皮膚の下にいる少女――慧の声だった。そこに感傷はない。これは自分が選んだ道だから…決して悔いもない。
やがて彼女が唇を開いたとき、こぼれ落ちたのは氷を撫でるように滑らかな声だった。
「レーヴェンガルドは武の国。獅子を掲げ、勇者を戴き、隣の小国を陰から縊り殺してきた、狼のような帝国よ。……ならば、ちょうどいい。牙の使い方というものを教え直してあげる」
オーランドは、それ以上を問わなかった。母がそう言うのなら、それが正しいのだと、彼の胸の奥で何かが疑いもなく頷いている。その頷きが誰の手で植えつけられたものなのか、彼自身は、生涯知ることがない。
――帝都エーレンフェストが、月下に姿を現した。
石造りの城壁が幾重にも都を抱き、その中央に、獅子の像を戴いた白亜の帝城がそびえている。かつては大陸の武を統べた不落の要塞。だが、その堅牢さは、空から舞い降りる災厄の前ではなんの意味も持たなかった。
クルエンタが城の上空で足を止め、片手をそっと下へ差し伸べる。それだけだった。
次の瞬間、都のあちこちで悲鳴が上がった。彼女の影が落ちた区画から順に、地に伏していた無数の血の人形が、赤い霧となって噴き上がったのだ。「死者の館」——先の聖王国で狩り集めた戦士たちの成れの果てが、いまや帝都を内側から締め上げる縄と化していた。衛兵が槍を構える暇もなく、要所という要所が一夜のうちに押さえられていく。
帝城の玉座の間に、クルエンタが降り立ったのは、それからしばらくの後である。
皇帝ヴァルドリック三世は、玉座から腰を浮かせたまま、青ざめて動けずにいた。屈強な近衛たちはことごとく血の人形に組み伏せられ、床には剣が散らばっている。老いた獅子の眼には、屈辱と恐怖と、そしてわずかな諦観とが、複雑に入り混じっていた。
「……貴様が、聖王国を一夜で焼き払ったという、あの魔王か」
絞り出すような声に、クルエンタは薄く微笑んだ。慈悲でも嘲りでもない、値踏みの笑みだった。
「魔王…ね。好きに呼べばいいわ。あなたたちがそう呼ぶことで、少しでも夜が安らかに眠れるのなら」
彼女は玉座へは近づかず、ただ広間の中央に立ったまま、居並ぶ皇族たちへと視線を巡らせた。震える皇妃。血の気を失った公子たち。そして——列の端に、ただ一人、拳を握りしめて彼女を睨み返している若者がいた。
第一皇子ヴィルヘルム。まだ二十歳そこそこの、しかし眼だけは父帝より鋭い青年だった。
(……あの子ね)
慧の思考が、冷ややかに一点へ絞られていく。玉座を継がせるのに都合のいい器。恐怖で膝を折らず、なお立っていられる程度の芯を持っている。傀儡にするには、少しばかり骨があるくらいがちょうどいい。
「あなたに、選ばせてあげる」
クルエンタは、その青年に向けて指を差した。
「この国を、わたくしの庇護のもとで統べる皇帝になるか。それとも父君や兄弟姉妹ともども、今宵ここで終わるか。……ああ、勘違いしないで。これは慈悲ではないわ。ただの適材適所。統治には統治の才が要り、破壊には破壊の獣が要る。それだけのこと」
ヴィルヘルムの喉が、ごくりと鳴った。誇り高い帝国の皇子として、彼はきっと拒みたかっただろう。だが、その背には、彼を頼りに震える幼い弟妹たちの視線がある。彼はその重さから逃げられる男ではなかった。
「……民に、これ以上、血を流させぬと誓うなら」
搾り出された答えに、クルエンタは満足げに目を細めた。交渉が成った瞬間、彼が最も守りたかったものが、そのまま彼を縛る鎖に変わる。それを慧は静かに見届けていた。
「賢明ね。では――受け取りなさい。新しい血を」
彼女が己の手首を軽く裂き、したたる血の一滴を青年の唇へ落とす。「血の王権」。兵卒を血の人形に変えるヴァルホルが民の業であるなら、これは貴族を叙任する、王の業だった。青年の身体が仰け反り、その瞳の奥に、深紅の焔がぽつりと灯る。公爵級のデイウォーカー——オーランドと同じ格の眷属が、いま帝国の頂に据えられた。
弟妹たちには、それより一段低い夜の血が分け与えられた。彼らは新皇帝を支える下位の吸血鬼として、その血脈ごとクルエンタの手のうちへ収まっていく。統治は新皇帝ヴィルヘルムが担い、武力はオーランドが束ねてクルエンタに従う。役割の境界は、初めから寸分の曖昧さもなく引かれていた。
残されたのは、玉座に座したままの、現皇帝ただ一人である。
「……して儂は」
ヴァルドリック三世の問いに、答えたのはクルエンタではなかった。
「陛下」
静かに歩み出たのは、オーランドだった。かつて帝国が誇った勇者が、いまや漆黒の翼を畳み、腰の一振りの黒い刃へと手をかけている。その刀身は、生前彼が佩いていた誠と信義の双剣ではない。あれはもう、彼の手を離れ、母の宝物庫の奥深くに封じられている。いま彼が握るのは、生まれ直した彼の格にふさわしい夜の刃だった。
「隣国を陰から嗤い、無実の令嬢を処刑台へ送る片棒を担いだ。その責めをどなたかが負わねばなりません。……国が新しく生まれ変わるためには、古い罪を古い王とともに葬らねばならないのです」
その声には、憎しみのかけらもなかった。ただ、粛々と職務を果たす者の、冷えた誠実さだけがあった。皮肉なことに——騙され利用され盾にされて死んだこの男は、いまや誰よりも澄んだ心根のまま、剣を振るう役目を引き受けている。
「恨むなら、儂の不明を恨むがよい」
現皇帝は、最期にわずかに口の端を歪めた。それは笑みだったのかもしれない。長きにわたり狼のように立ち回ってきた男の、しかし一度も自らの手を汚さずにきた男の遅すぎる自嘲だった。
銀光が一度だけ、月明かりを弾いた。
鈍い音が広間に落ち、獅子の帝国を三代にわたって統べた首は、あっけなく玉座の下へと転がった。血だまりが白い床石を伝ってゆっくりと広がっていく。誰も声を上げなかった。
クルエンタはその光景を、感情の読めない瞳で見下ろしていた。
(さて――ここからが本番よ、エリス)
その胸の裡で慧の思考が、ふいに悪戯めいた熱を帯びた。
*
新しい帝国の最初の勅令は、剣ではなく紙で放たれた。
クルエンタはヴィルヘルムの名において、帝国全土と、それに接するすべての国々へ向け、ある「真実」を布告させたのだ。もっとも、その中身は、真実を裏返して仕立て直した、悪意ある贋物だった。
曰く――聖女を騙る大悪女、エリス・フォン・クラインこそが、此度の悲劇のすべての首謀者である。彼女は勇者マーカス・ヴェイルハートを唆して先帝ヴァルドリック三世を弑逆せしめ、帝位そのものを簒奪せんと企てた。だが、その奸計は、賢明なる新皇帝ヴィルヘルムによって未然に打ち砕かれた。さらに――隣の聖王国アルディアを一夜にして滅ぼした恐るべき魔神を、この世に召喚したのもまた、エリス・フォン・クラインその人の仕業であると。
(真実なんて、語り口ひとつでどうとでも化ける。……あなたが私にしてくれたこと、そっくりそのまま、利子をつけてお返ししてあげる)
これは、慧があの聖都で思い知った理屈の、そっくりな裏返しだった。新聞が繰り返し刷り込んだ「悪女エレオノーラ」の物語は、たった一人の無実を、国じゅうの"常識"へと変えてしまっていた。人は自分の目で見たことよりも、幾度も繰り返し語られた物語のほうを信じるのである。ならば、最も声高に最も執拗に語られた物語こそが、この世界の真実になる。
エリスとマーカスの両名には、レーヴェンガルド帝国の名において、莫大な懸賞金が懸けられた。生死を問わぬその賞金額は、一介の傭兵が三代遊んで暮らせるほどのものである。そしてクルエンタは、その触れを、単に高札に掲げるだけでは満足しなかった。彼女は無数のビラを刷らせ、血の人形の使い魔たちに持たせ、街道という街道、宿場という宿場、市場の壁へと、虱潰しに貼り出させたのだ。噂は、火に油を注がれたように、大陸を駆けめぐった。
――そしてその噂は当然、身を潜めていた当の二人の耳にも届く。
うらぶれた辺境の宿の一室で、色褪せたビラを握りしめたエリスの手が、わなわなと震えていた。
「……なんで」
声が、裏返っていた。
「なんで、わたしが懸賞金をかけられる立場になるのよ! これじゃまるで犯罪者じゃない! ねえ、おかしいでしょう!? わたしは聖女なのよ! この世界のヒロインなのよ、主人公なのよ、ここはわたしの世界なのよ!」
彼女は、両手でテーブルを叩き、床にビラを叩きつけ、それでも足りずに踏みつけた。前世で幾百時間と費やして攻略しきったはずの、優しくて都合のいい乙女ゲームの世界。その世界が、いまや彼女に一切の温情を示さず、ただ冷酷な狩り場として牙を剥いている。その現実が、彼女にはどうしても呑み込めなかった。
その姿を部屋の隅で、マーカスは黙って眺めていた。
鎖鎌を弄ぶ指先だけが、退屈そうに動いている。彼は心のどこかで、この女と手を組んだことを静かに悔いはじめていた。あのとき、逃げる最中でこの聖女の言葉に乗らなければ――こんな面倒事に巻き込まれることもなかったはずだ。
(……まだ慌てる場面じゃねえ)
だが、彼の胸中には、まだ余裕という名の冷たい計算が残っていた。
(いざとなりゃ、この女を囮にして逃げりゃいい。追っ手がこいつに群がってる隙に、俺ひとりだけ、するりと抜ける。……一人なら、いくらでも逃げおおせるさ。世界の果てまでな)
喚き散らす聖女を横目に、勇者はそっと、逃走路の算段を頭の中で描きなおしていた。共犯者の絆など、この男には端から存在しなかったのだ。
*
――同じ頃、地上のいかなる国の版図にも記されぬ、暗黒の大地。
魔族国。太陽の光さえ遠慮がちに翳るその地の最奥に、荒々しい黒曜石で組み上げられた玉座の間があった。天井は闇に溶けて見えず、左右にはずらりと、格の異なる十一の玉座が並んでいる。そこに座す者たちの威圧だけで、空気そのものが、ずしりと重く粘つくようだった。
その一角へ、しずしずと進み出た小柄な影があった。魔王種ベラフィア。戦を得手とせぬ代わりに、あらゆる存在の情報を八割方まで写し取る、模倣の異能を持つ娘である。
「――ご報告申し上げます」
彼女は恭しく膝を折り、あの日、聖王国の戦場で自らの目に焼きつけたすべてを、淡々と語りはじめた。
レーヴェンガルド帝国のあっけないほどの敗北。誠実で名を馳せた勇者オーランドの死。そして金に転んだ勇者マーカスの味方を盾にした裏切り。聖女エリスの逃亡。報告が一つ進むごとに、玉座の間の空気が、目に見えぬ圧で軋んでいく。
「そして――これは、あくまでこの身の見立てにございますが」
ベラフィアは、そこで一拍、言葉を溜めた。
「聖王国滅亡、此度のレーヴェンガルド帝国の返り討ち、それらを成した謎の存在。あれは……御前におられる魔王の方々の類ではございませぬ。おそらくは、天秤の外に立つ〈魔神〉。世界の理そのものを踏み越えた、桁外れの存在かと……」
ざわり…と。十一の玉座が、それぞれの流儀でその報告に応じた。
最上段で常に宙に浮いたまま、地を踏むことすら傲慢と嗤う〈傲慢の魔王〉ルシフェル・ゼニスは、漆黒の機械翼を微かに鳴らし、銀の髪の下で唇を吊り上げた。
「神か。……ほう。羽虫ばかりのこの世で、勇者以外に墜としがいのある高さだ」
その隣で、蛇鱗のドレスを纏い片目に黒い眼帯をあてた〈嫉妬の魔王〉レヴィア・カインは、うっとりと、そして憎々しげに舌なめずりをする。
「魔神? ……なにそれ。わたしより優れているものが、この世にまだ在るというの。だめ。壊さなきゃ。奪って真似て、そのうえで壊さなきゃ……許せない」
全身から溶岩を溢れさせる巨人、〈憤怒の魔王〉イグニス・ブラッドは、仮面の奥で獣めいた唸りを漏らすだけで、言葉すら持たなかった。ただその足元で、黒曜石の床がぶすぶすと焦げていく。
棺桶じみた鎧の中で寝言を漏らす〈怠惰の魔王〉ベルフェ・スリープ。
全身を金銀珠玉で飾り立てた守銭奴、〈強欲の魔王〉マモン・ゴールド。
状況次第で男にも女にもなる絶美の〈色欲の魔王〉アスモ・デウス。
他人の顔を被って自らを増やしていく、顔なき〈虚飾の魔王〉ヴァニタス・ミラー。
絶えず雨を降らせ、己を討つ英雄を厭世的に待ちわびる〈憂鬱の魔王〉トリステ・レイン。
錆びついた鎧の底に底知れぬ暴力を秘めた軍人、〈暴虐の魔王〉テュラン・ノア。
そして――輪郭さえおぼろな影として末席に佇み、触れたものを世界から丸ごと消し去る、〈虚無の魔王〉ニヒル・ゼロ。
あらゆる属性を喰らい尽くす〈暴食の魔王〉ベルゼ・ガストが、退屈そうに牙を鳴らして、初めて口を開いた。
「神だろうが魔神だろうが、腹の中に収めちまえば同じことだ。……なあ、そうだろ?」
十一の異形がそれぞれの欲と狂気を燻らせ、静かに殺気を練りあげていく。その凄まじい圧の中心――最奥の、一段高い漆黒の玉座に、その者は座していた。
真魔皇リネージュ・アイン。
魔王たちを統べる、魔族の皇。その姿は、灯りの下でさえ細部が定かでない。ただ、彼が身じろぎ一つするだけで、居並ぶ十一の魔王が、揃って口を噤む。それだけで、格の違いは明らかだった。彼が持つ権能〈魔王の系譜〉は、恐るべきものだった。統べる魔王のいずれが討たれようと、その瞬間、無数の魔王種の中から、即座に新たな魔王が生まれ落ちる。玉座は決して欠けることがない。討たれても討たれても湧いてくる。それこそが魔族という種の底知れぬ悪夢であった。
「――面白い」
その一言は低く、しかし玉座の間の隅々にまで、水が染み込むように行きわたった。
「理の外から来た未知の存在が、我らの隣で暴れているという。……ならば、こちらも礼を尽くさねばなるまい。試させてもらおう。あれが真に〈魔神〉であるのか、それとも、いささか思い上がっただけの偽物か」
リネージュ・アインの、輪郭の定かならぬ視線が、十一の玉座を、ゆるりと撫でていく。
「全員でかかるには及ばぬ。各々には各々の戦線があり、盤面を空けるわけにはいかぬ。――故に、選ぶ」
その視線が、まず最上段で待ちかねていた傲慢に据えられた。
「ルシフェル。神を墜とす牙が欲しいと申すなら、その傲慢、存分に試すがいい」
次いで、憎悪に身を捩る嫉妬へ。
「レヴィア。奪い、真似ることがそなたの業だ。あれの力を写し取れるものなら、写し取ってみせよ」
最後に言葉なき業火の巨人へ。
「イグニス。理屈は要らぬ。ただ、焼き尽くせ」
名を呼ばれた三体の魔王が、それぞれの流儀で嗤い唸り、殺意を漲らせる。そこへリネージュ・アインは、静かに付け加えた。
「この三体に、随行の魔王種を六体つける。露払いと、囮と消耗の見極めに使え」
そして、いまだ膝を折ったままのベラフィアへ、その視線が向いた。
「――ベラフィア。そなたは戦うな。ただ見よ。あの魔神が、いかにして牙を剥き、いかにして倒れるか。その一部始終を余さず写し取って持ち帰れ。それがそなたに与える役目だ」
「……仰せのままに」
べラフィアは、深く頭を垂れた。伏せた面の下で、しかしその瞳の奥には、忠実な報告者のものとは違う、別の熱がひそかに揺れていた。あの女神の力を、この目で見極め模倣し、いつか丸ごと己のものへと写し取る――胸の裡で、密やかな野心が静かに、しかし確かに鎌首をもたげはじめていた。
こうして暗黒の大地から、三体の魔王と六体の魔王種、そして一人の観測者が、血の女神めがけて動き出す。
――嵐は、まだその序曲を奏ではじめたばかりだった。
第十三話 了
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まだまだ未熟な作品ですが、少しでも「先が読みたい」「今後に期待!」と思っていただけましたら、下の【☆☆☆☆☆】をタップして評価や、ブックマークをしていただけると飛び上がって喜びます。




