第十二話「血の王権」
戦場に満ちていた、濃い血の匂いが、ふいに、一点へと吸い寄せられていくのを、慧は感じた。
まるで、見えざる潮が引くように。廃村の広場に散らばった、おびただしい死と、そこから立ちのぼる無数の残り香。
その一つひとつが、糸に手繰られるようにして、彼女の掌の下——横たわる、一体の亡骸へと、静かに集まっていく。
クルエンタ・フレイヤの白い掌に灯った、血のように紅い紋様が、脈を打つようにぼうぼう…と明滅していた。
「スキル──血の王権」
それは、彼女がこれまで振るってきた、あの血人形を生み出す業とは、根本から位が違う代物だった。名もなき兵の亡骸を、意志なき人形として使役するのが血人形なら、これは——選び抜いた一個の魂に、血をもって高貴なる位を授け、より上位の眷属として、この世に呼び戻す、いわば叙爵の儀式である。
紅い光が、オーランドの蒼白になった体を、優しく包み込んでいく。
止まっていたはずのその体の奥深くで。
とくん…と。
ひとつ脈が打った。
冷え切っていた肌に、内側からじわりと熱が戻ってくる。裂かれた胸の傷が、見えざる手で縫い合わされるように、みるみるうちに塞がっていった。青ざめていた頬に、ほのかな血の色が差す。
死が静かに覆されていく。それは、再生を司る神だけに許された、生と死の理そのものを捻じ曲げる、絶対の権能だった。
やがて。
閉じられていた、その瞼が。
ゆっくりと震えながら開かれた。
最初に彼の瞳に映ったのは、自分を見下ろす、一人の女の姿だった。
血のように赤いドレス。
紅い瞳。
ついさっき、この手で己の命を絶った…あの吸血の女神。
だが——吸血鬼として蘇ったオーランドの目に、もはやかつての敵意はなかった。
彼は、まるで生まれたばかりの雛が、初めて見たものを親と思い定めるように。あるいは、長い旅の果てに、ようやく還るべき場所を見出した者のように。深い深い…安らぎに満ちた眼差しで、その女神を見上げていた。
そして、震える唇を開き彼は言った。
「……ああ、はっきりわかる……」
その声には、確かな敬愛が滲んでいた。
「——我が母上様」
オーランドは、ゆっくりと身を起こすと、その場に、恭しく片膝をついた。かつて誇り高き帝国の勇者であった男が、いま一人の女神の前に、深々と頭を垂れている。
「この命、ふたたび拾っていただいたご恩、生涯……いえ、この二度目の生のすべてをもって、お返しいたします。我が忠誠は、ただ母上おひとりのために」
その言葉に嘘偽りは、微塵もなかった。
彼の中では、すべてがきれいに繋がっていた。自分は誠実ゆえに騙され、無実の女を断じた罪深い男。ならばその罪をどうやって贖えばいいのか。その答えが、いま目の前にいる。自分を斬り、そして、この自分に再びの生を与えたこの御方に、生涯を賭して仕えること。それこそが自らが選び取った、唯一の贖罪の道なのだと——彼は、そう固く信じていた。
その絶対の忠誠は、しかし、彼が自分で選び取ったものではなかった。「サングィス・レイ」によって眷属となった者が、主に対して否応なく抱く、血の絆——彼はそれを、生まれ持った己の意志だと信じて疑わない。
オーランドは生前の記憶も罪の意識も、何ひとつ失ってはいない。無実の主を自らの信じた正義で断じてしまった。悪意ある者たちの巧妙な偽りを、人を疑うことを知らぬ清廉さゆえに信じ込んだ末に。その過ちを彼は今もはっきりと覚えている。
だが——眷属となったいま、その罪の記憶は彼を苛む棘ではなくなっていた。罪深いからこそ、その主に生涯を捧げて贖うのだと。血に刻まれた忠誠が、彼の犯した過ちさえも、母へ仕えるための理由へと、静かに変えてしまっている。彼は己の罪を罪として苦しむことすらもうできないのだ。
「……面を上げなさい」
クルエンタは、静かにそう命じた。
惜しい男が、こうして自分に牙を剥くことなく、忠実な眷属として甦った。ひとまずは上々の首尾だった。慧はその従順ぶりに、内心で小さく頷いた。
顔を上げたオーランドの瞳が、じっと女神を見つめる。そして彼は、ふと不思議そうに首を傾げた。
「……母上。あなたの内には、もうひとつの御姿が、おありなのですね」
「——?」
慧は内心でどきりとした。
(……こいつ、まさか)
「うまく言葉にはできません。ですが、母上の血を分けていただいた、この身だからでしょうか。血の繋がりを通して、確かに感じ取れるのです。荒ぶる戦の女神の御姿。そして、その奥にもう一人——静かで穢れなき令嬢の御姿。そのどちらもが、まぎれもなく我が母上ただお一人であられると。理屈ではなく、ただそう強く伝わってくるのです」
その言葉に慧は、しばし言葉を失った。
クルエンタ・フレイヤとエレオノーラ。
荒ぶる神と儚い令嬢。
二つの姿を持ちながら、その内側にいるのは、その二人をつなげる意識——柊慧という元日本人の存在。
それは彼女が心の奥底に抱えてきた、他の誰にも理解されるはずのない真実だった。それを、この蘇ったばかりの眷属は、血の繋がりを頼りに、まっすぐ言い当ててみせた。どちらも本物で、どちらも同じ一人なのだと。
(……そっか。あなたにはそれを感じとれるのね)
初めてだった。自分という存在のありようを、理解してくれる者に出会ったのは。慧の胸に、じんわりと、あたたかい何かが灯った。この従順な眷属を、ただの「使える駒」ではなく、少しだけ特別な存在のように感じはじめている自分に、彼女は気づいていた。
さてと…慧は気持ちを切り替えた。
まだ、やるべきことが残っている。彼女は地に転がったままの…二振りの神滅剣へと視線を移した。
誠と信義の双剣。
この神をも殺しうる恐るべき刃をこのまま放置しておくわけにはいかない。
(この剣はたぶん……持ち主が死んだら、また次の誰かを「勇者」に選ぶと思うのよね。だとしたら、このままにしておくのは危険すぎるわ)
新たな勇者を生み出させない。その芽を今、摘んでおく。慧が双剣に手をかざすと、剣は抵抗する間もなくあっけなく、彼女のアイテムボックスへと収められていった。
担い手を失ったばかりの無防備な神剣。この最初の一本を封じるのは、まだ拍子抜けするほどたやすかった。
(……よし。これでひとまず一本)
だが、彼女はまだ知らない。この神剣が実は十二本で一つの存在であり、一本を封じられたこの瞬間にその情報が、残る十一本へと共有さたことを。次にこの手が神剣を封じようとするとき、剣が明確な意志を持って、抗ってくるであろうことを。だが、それはまだ少し先の話だった。
残る後そして——もう一つ、彼女には、近いうちに片づけておきたいことがあった。
残る後始末を慧は、手際よく片付けていった。
まず、蘇ったオーランドの強化である。彼女は、アイテムボックスの奥深くに、長らく死蔵していた品々を惜しげもなく取り出した。ゲーム内で勿体ないからと使わずじまいで貯め込んでいた、貴重なアイテムの数々。やり込んだプレイヤーだけが持つ、莫大な資産である。
(アイテムなんて、使ってこそ意味があるものね。ここぞって時のために、取っておいたんだから)
それらを彼女は、この新たな眷属へと惜しみなく注ぎ込んだ。もとより公爵級として蘇り、生前の技量を完全に受け継いだ吸血鬼オーランドが、さらに、規格外の強化を施されていく。
だが、慧の思いつきは、それだけでは終わらなかった。
「そういえば……この世界の勇者って、種族クラスを無視して、どんな装備でも扱えたのよね」
ふと、戦いの最中に思い知らされた、あの理不尽を思い出す。神話級も、創世級も、本来なら種族が「神族」でなければ装備できない。それが、ゲーム『Regenesis Fantasy Online』の揺るがぬ決まりだった。
だが、この世界の勇者は、その理をあっさりと踏み越えていた。
(もしかして……元勇者だったこいつも同じなんじゃ?)
試してみる価値はある。慧はアイテムボックスの奥から、死蔵していた神話級の装備を取り出すと、それを、蘇ったばかりの眷属へと差し出した。
半信半疑だった。吸血鬼となったいま、オーランドの種族はもはや勇者ではない。ゲームの理に従うなら装備できるはずがない。
ところが……
オーランドがそれらを手に取った瞬間、装備はまるで最初から彼のものであったかのように、するりと馴染んだ。
「……装備、できちゃったよー」
クルエンタは、思わず涙目になった。勇者でなくなってなお…種族の枷を無視して神話級を扱う。この世界の勇者の規格外ぶりは、蘇った眷属にすら受け継がれているらしかった。
「ズルいよー反則だよーーめちゃくちゃだよーーー」
自分がどれだけゲーム内では装備できないことで、苦労させられたのかを慧は思い出して…いじけそうになっていた。
まず、一対の双剣。
長剣『審判の断罪者』。
漆黒の結晶の刀身に、刃の縁だけが血のように深紅に脈打ち、白銀の獣骨の柄には、開かれた翼を象った鍔が備わっている。斬りつけた相手が直前に放ったスキルや魔法を打ち消し、さらに相手の回避を先読みして、刃の軌道を強制的に収束させる一振りだ。
対をなす短剣は、『誓約の守護』。
霞のように揺らめく半透明の刀身が、蒼い冷光を放っている。構えている限り、その身の周りに、あらゆる干渉を遮断する結界を張り続ける、守りの刃である。
攻めの断罪者と、守りの守護。誠と信義を掲げた、かつての双剣を思わせる、攻防一対の得物だった。
そして、その身を包むのは鎧『黄昏の王の外套』。
深い群青の軽装のプレートに、金の装飾。背には、彼がかつて背負っていた誓いの名残のように、擦り切れた古い赤マントが結ばれている。追い詰められてなお攻めに転じたその瞬間、受けた傷を力へと変え、速さを跳ね上げる——彼の生き様そのものを映したような、一領だった。
その一つひとつが、神代の断片とも呼ぶべき、途方もない業物である。
オーランドは、授けられたそれらを、静かに見つめていた。彼にも、わかった。これらが、決して尋常な品ではないことが。かつて勇者として無数の武具を見てきた彼だからこそ、その価値の底知れなさが、痛いほど理解できたのだ。
「……このような、身に余るものまで」
その声は、わずかに震えていた。
「母上は、この愚かな私に、これほどの力を、お授けくださるのですか」
彼は、双剣を固く握りしめ、深く頭を垂れた。感激がその全身から滲み出ている。
「この命に代えても。頂いたこの力、母上のためだけに振るうとお誓いいたします」
慧はその大仰なまでの忠義に、ほんの少しだけ肩をすくめた。
「そんな大層なものでもないんだけどね。使わずに眠らせておくよりはずっといい…か」
もっとも、それを口に出してこの生真面目な眷属の感激に水を差すような無粋を、彼女はしなかった。
彼はもはや、生前の勇者であった頃をも遥かに凌ぐ、破格の存在へと生まれ変わろうとしていた。
力の奔流を身の内に受け止めながら、オーランドは静かに立ち上がった。昼の陽光が、その身に燦々と降り注いでいる。
本来、吸血の眷属にとって、陽の光は忌むべき天敵のはずだった。だが、彼の体はその光を浴びてなお、揺らぐことも焼かれることもない。
デイウォーカー——昼をも歩む、選ばれし上位の眷属。母たる女神から授かった血が、いかに高貴なものであるかの何よりの証だった。彼は自らの掌に漲る、生前とは比較にならぬほどの力を確かめると、その力のすべてを捧げるべき主の傍らへと音もなく寄り添った。
そして——もう一つ、彼女には近いうちに片づけておきたいことがあった。
(私がログアウトしたときのエレオノーラの肉体。あれはまだ、処刑された時のままでボロボロなのよね。あのままじゃ令嬢の姿に戻ったとき、何かと不便だわ)
慧の脳裏に浮かんでいたのは、アイテムボックスに死蔵してあるエリクサーだった。あらゆる傷を癒す、極めて希少な万能薬。使えばなくなる、有限の切り札だ。吸血神となってからは、傷らしい傷も負わず、使う機会もないまま、しまい込んでいた。
だが、あれを使うなら今ではない。この身がクルエンタである限り、いくらエリクサーを呷ったところで、癒えるのはこの女神の体だけ。傷ついたエレオノーラの肉体を治すには、安全な場所までしりぞき、ログアウトして令嬢の姿に戻った上で、その手で飲まねば意味がないのだ。
(戦のあとの、お楽しみってところね)
この先ずっと付き合っていく体だ。惜しくはあるが、あのアイテムを使う価値はある。慧は、そう心づもりだけを済ませ、ひとまず思考の隅へと置いた。
その頃、戦場はもはや体を成していなかった。
支柱たる勇者オーランドを失い、頼みの綱のもう一人の勇者は、我先にと逃げ出した。指揮系統は完全に寸断され、統率を失った帝国の大軍は、ただ恐怖に駆られるだけの、無様な敗残兵の群れと化していた。
「逃げろ、逃げろ——ッ!」
「あんな化け物に、勝てるわけがない!」
武器を旗を誇りすらもかなぐり捨てて、兵たちは、我先にと敗走していく。数千の軍勢の崩壊は、始まってしまえば、驚くほどあっけなかった。
その逃げ惑う人波の渦の中。
泥にまみれになって髪を振り乱した聖女エリスが、必死の形相で一人の男の腕を、がしりと掴んでいた。
勇者マーカス。
あの味方を盾にして逃げた卑劣な男である。
「ちょっと、あんた! 勇者なんでしょう!? だったら、あたしを守りなさいよ! あたしを無事に逃がすの! いいわね!?」
なりふり構わぬ、その剣幕。清らかな聖女の仮面など、とうにかなぐり捨てていた。
マーカスは露骨に、ちっと舌打ちをした。
「けっ。厄介なのに掴まれちまったな。……だが、まあいい」
彼は掴まれた腕を振り払いもせず、その濁った目で、素早くエリスを値踏みした。この聖女にはまだ、使い道がある。歌の聖女の加護は逃走にも、その先の再起にも役に立つはず。それに見立てでは、この女は悪知恵だけはよく回ると思える……
「あんたのその口の上手さとおれの腕。組んでやってもいいぜ! ただし——お互い、あくまで利用し合うだけだ。妙な期待はするなよ!」
「上等よ。あたしだって、あんたみたいなゲスを、信用なんかしないわ」
こうしてこの場に、一組の醜い共犯が生まれた。
互いに相手をこれっぽっちも信じてなどいない。ただ、生き延びるという、その一点でだけ利害が一致した——救いようのないゲスの二人組。
だが、彼らは知る由もなかった。この身勝手な結びつきが、いずれどちらか一方が、もう一方を平然と切り捨てる日へと、繋がっていくことを。今回マーカスが、オーランドにそうしたように。
その因果がいつか巡り…自らへと返ってくることを。
逃げていく、二人の背中。
そのみっともない後ろ姿を。
クルエンタ・フレイヤは、新たに従えた眷属を傍らに侍らせ、静かに見送っていた。
追わなかった。
今はまだ……
数千の敗残兵に紛れて逃げる二人を、ここで無理に追い立てる必要はない。あの二人がこれから何を企み、どう足掻くのか。それを見届けてやるのも、一興だと思った。
彼女の紅い瞳が、遠ざかる聖女の背を冷ややかに捉えている。
(エレオノーラを、あんなにも無残に陥れて。聖王国をあんなにもめちゃくちゃにして。それで自分だけは、逃げ切れるとでも思ってるの)
慧の唇が、ゆっくりと弧を描いた。
「——逃がさないわよ」
その静かな宣告は、喧騒の中に消え誰の耳にも届かなかった。
けれど、それは確かに始まりの合図だった。逃げた聖女エリスと、卑劣な勇者マーカス。
この二人を世界の果てまでも追い詰める、長い長い狩りの——幕が開けたのだった。
——だが、この戦場で女神の力に目を留めていたのは、逃げ惑う帝国兵たちだけではなかった。
敗走する兵の群れ。その中に一人の若い兵士がいた。周囲の者たちと同じように恐怖に顔を歪め、我先にと逃げている。誰の目にもごくありふれた、名もなき一兵卒にしか映らない。だが、その姿は仮のものだった。
ベラフィア。
いずれ魔王の座を継ぐ資格を持つ魔王種の一人である。彼女の権能は、取り込んだ相手の情報を、その八割までも、本物と見分けがつかぬほどに再現する。この兵士の姿もまた、そうして被った偽りの皮にすぎなかった。
今日、彼女がこの軍に紛れ込んでいたのは、ただの偵察のためだった。近ごろ活発なレーヴェンガルド帝国。その軍事の動きを内側から探る。それだけの地味な任務のはずだった。
次期魔王候補とはいえ、ベラフィア自身は己が戦い向きの性分でないことを、よく理解していた。だからこそ無理に先頭を争わず二番手、三番手…の位置にあえて甘んじてきた。目立たず生き延び機を待つ。それが彼女の流儀だった。
その慎重な彼女が、いま逃げる足をわずかに緩めていた。
視線の先には…クルエンタがいた。
(……なに、あれ)
ひと目見た瞬間に、彼女は理解していた。あれは魔王などという枠に、到底収まる存在ではない。魔王種として、頂点に連なる血を持つ自分だからこそわかる。
あの底知れなさは、自分たちが仰ぐ魔王たちすら、遥かに上回っている。並の魔王であれば戦っていたかもしれない。
だが、ベラフィアの思考は、まるで別の方向へと動きはじめていた。
(もし……あの力が、本物なら)
彼女の権能は相手を取り込み、その力を再現する。
ならば——あの女神の力すら我が物にできるのではないか。もしそれが叶えば…自分は魔王をも超える存在へと至れる。真魔皇にも他の魔王にも、もう誰にも頭を垂れる必要はなくなる。
(誰にも従わなくていい……)
その甘美な想像にベラフィアの胸は、静かに高鳴った。
むろん、あの力が本物かどうか…確かめねばならない。手を出す前にその力量を、正確に測る必要がある。
彼女は逃げる群れに紛れながら、密かに決意を固めていた。この目で見たことを、真魔皇様に報告しよう。
そして——魔王を幾体か、あれにぶつけてみよう。あれがどれほどの存在なのか、その底をまずは測るために。
新たな災いの芽が、こうして静かに動きはじめていた。クルエンタがまだ知る由もない場所で……
第十二話 了
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました!
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