第十一話「盾と裏切り」
時が伸びた。
あるいは、そう感じられただけか。けれど確かにその一瞬、世界のすべてが水底に沈んだように緩慢に流れた。
戦場を満たしていた喧騒が遠のいていく。剣戟の音も兵たちのどよめきも、綿を詰めたようにくぐもって聞こえた。ただ、慧自身の心臓の鼓動だけが、やけに大きく耳の奥で脈打っている。
突き出された白い拳。
その先で、オーランドの瞳が見開かれていた。だが、そこにあったのは恐怖ではない。己の死を悟った者の静かな諦観。そして——最後まで守るべきものを守ろうとした、悔いなき澄んだ光だった。
躱せない。
彼自身、誰よりも早くそう悟っていた。渾身の斬撃を逆手に取られ、がら空きになった胸。この体勢では、もう何をどうしても、あの一撃は防げない。
勇者は静かに、己の最期を受け入れようとしていた。
——だがその刹那、誰も予想しなかった影が動いた。
どんっ…と、背後からオーランドを突き飛ばした者がいた。
マーカスだった。
あれほど傍観していた卑劣な勇者が、この瞬間にだけ、目にも留まらぬ速さで駆け寄っていた。むろん救うためではない。彼はオーランドを、伸びきったクルエンタの拳の軌道上へと力任せに押し込んだ。
肉盾として——その先を狙って。
「——なっ」
体勢を崩したオーランドが、無防備なまま前へつんのめる。突き出された拳の真正面へ。避ける間などなかった。ドシュッ、鈍い音がした。
鋭い爪を備えた貫手が、勇者の胸を——その心臓を、深々と刺し貫いていた。
「……ぁ」
オーランドの口から、小さく息が漏れる。
その刹那こそ、マーカスの狙いだった。肉盾ごと女神の手は塞がり、体勢は伸びきる。この隙に、危険を冒さず大金星を掠め取る——それが卑劣漢の絵図だった。
(もらったぜ、魔王の首ィーー!!)
鎖鎌〈ハーヴェスト〉の刃が、うなりを上げて女神の首へ迫る。
クルエンタの姿がぶれた。首も胴も致命の一撃は躱しきる。だが——貫手で伸びきった左腕までは、逃がしきれなかった。
神滅の刃がその肘から先を、あっさりと斬り飛ばした。
「——ぐうッ!?」
初めて、女神の喉から苦悶が漏れた。焼けるような激痛が、断たれた腕を走り抜ける。
「——ちィッ、届いたが仕留めきれねえか! この化け物がぁ!!」
だが、マーカスに深追いする度胸はない。一太刀の戦果に満足し盾を蹴って、脱兎のごとく後方へ逃げ去っていく。
残されたクルエンタは、断面を見下ろす。再生を司る神たる自分の腕が塞がらない。「神滅の力」が傷に残り、再生を阻んでいるのだ。
(なるほど、これが神滅剣。斬られた傷は再生させない……厄介ね)
「でも——だったら……」
激痛の中でも、慧の判断は氷のように速い。残る右手の爪に血を凝らせ刃を成す。そして神滅に侵された左腕を、ためらいなく肩の付け根から斬り落とした。クルエンタは苦悶の表情を見せる。
「ぐーーーっ!!」
侵された部位ごと捨て、神滅の残らぬ清浄な断面さえ作れば——。その傷口から、みるみる新たな腕が再生する。数瞬の後には白く滑らかな左腕が、何事もなかったようにそこにあった。
「はぁはぁ、こうすればいいだけの話」
クルエンタ——慧は逃げ去る背を、冷ややかに見送っていた。
「——まさか味方を盾にして、不意打ちで腕を奪って逃げる…か。あんな勇者がいるなんてね…」
人の醜さの底を見せつけられた思いだった。この手を血に染めさせた張本人である自分が、まるでこの男の凶行に加担させられたかのような、不快な感触だけが残る。
足元では、貫かれたオーランドの体が、ぐらりと傾いだ。
誠と信義の双剣が、その手から力なく滑り落ちる。からん…と乾いた音を立てて、二振りの神滅剣が、血に濡れた地面に転がった。
オーランドは、ゆっくりと、膝から崩れ落ちていった。
慧はとっさに倒れゆくその体を、片腕で支えていた。
なぜそうしたのか。自分でもわからなかった。敵をそれもたった今自分が手にかけた敵を、抱きとめるなど、どうかしている。けれど体が勝手に動いていた。
この誠実な男をあの汚れた地面に、無造作に打ち捨てることが——どうしてもできなかったのだ。
腕の中でオーランドの瞳が、揺れていた。
急速に光を失っていくその目は、けれど、まだ必死に何かを問いかけようとしていた。なぜ味方に。なぜ自分は。その声にならない問いが、慧には痛いほど伝わってきた。
(……教えてあげる。あんたが死ぬ前に)
クルエンタ・フレイヤの権能は、血から記憶を読むだけではない。指定した相手へ己の血を介して、その記憶を見せることもできる。かつて聖都で、エネオノーラの血から読み取った記憶を——慧はいまも胸の奥に、はっきりと抱いていた。
彼女は、己の指先を軽く裂き、滲んだ深紅の血を、そっとオーランドの唇へと含ませた。
そして——見せた。
彼が、決して知ることのなかった、すべての真実を。エレオノーラ自身がその目で見てその身で味わった記憶を、そっくりそのまま。
流れ込んできた光景に、オーランドの薄れかけていた意識が、大きく揺さぶられた。
それは他人事の説明ではなかった。彼は——エレオノーラの目を通して、そのすべてを追体験させられていた。
己の知らぬところで組み上げられていく、偽りの罪状。信じていた者たちが、ひとり、またひとりと、冷たく背を向けていく光景。弁明の言葉さえ封じられ、罪人として指をさされる屈辱。
——恨むでもなく、喚くでもなく、ただ静かに、理不尽な死を牢獄の中で受け入れるしかなかった孤独。誰か一人でも、無実を信じてくれたなら…と願いながら、最後まで誰も声を上げてはくれなかった、あの深い絶望。
そのすべてを……
オーランドは悟った。
自分が「悪女」と信じて憎んだのは、稀代の悪女などではなかった。何一つ罪を犯していない、ただ、陥れられただけの、哀れな一人の女だったのだ。
そして自分は——その正義をその誠実を、まるごと自国とエリスに利用されていた。
最初から最後まで…ずっと騙され続けていた。
共に戦った戦友の言葉だからと、疑うことすらしなかったあの盲信。あれこそが取り返しのつかぬ過ちだったのだ。
あれほど信じた「正義」は偽りだった。この手が断罪に加担した相手は、罪なき者だった。
誠実であろうとしたその一念が、彼を無実の魂を貶める側へと立たせていた。
「……そん、な……おれ、は……なんてことを……」
乾いた唇から掠れた声が、絞り出される。その双眸に、底の見えぬ絶望が広がっていく。誠実であろうとすればするほど、彼はより深く騙されていたのだ。信じるという美徳が、そのまま罪なき者を貶める凶器へとすり替えられていた。
これほど残酷な真実が、これほど惨い裏切りが、どこにあるだろうか。
だが……
その絶望の底で、彼の瞳にもう一つ別の光が灯った。
激しい憎悪の炎だった。
それは自分を騙した者たちへの怒りであり、そして何より——たった今、自分を盾にして恥知らずにも逃げ延びた、あの卑劣な男への燃え盛るような憎しみだった。
「……マー、カス……ッ」
震える指が宙を掻いた。あの男を掴もうとするかのように。だが、その手は虚しく空を切り力なく落ちる。
誠実に生きた男が、その生涯の最後に抱いたのは、皮肉にも…あまりにも激しい憎しみだった。守るべきと信じたものは偽りで、背中を預けるべき同じ勇者には、その背を刺された。彼の信じた誠も信義も、すべてが裏切られた果ての……死。
悲劇の円環が静かに閉じていく。
「……せめて、彼女に……謝罪を……」
それが勇者オーランドの最期の言葉だった。
自分が加担してしまった無実の魂へ。誠実な男は、死の淵にあってなお、その罪を悔い詫びようとした。憎悪に燃えながらも、その最後の最後に彼が求めたのは、復讐ではなく贖罪だった。
どこまでもこの男は、誠実だったのだ。だからこそ、その死はなおのこと哀れだった。
その一言を残して彼の瞳から、ふつりと光が消えた。腕の中の体から、すう…と力が抜けていく。強張っていた指が、ゆっくりとほどけ宙を掻いていた手が静かに落ちた。
慧はしばらく、その亡骸を無言で見下ろしていた。
その表情は、いつものように静かだった。感情をあらわにはしない。けれど、亡骸を支える腕には、いつになく、そっと労わるような優しさが滲んでいた。あの太刀筋にわずかな軋みを乗せたときと同じだ。彼女はこの男の死を、ただの一つの死として処理してはいなかった。していられなかった、と言うべきかもしれない。
(……あんたは悪くなかったとは…思わない。因果応報、贖罪は受けたと思うわ)
胸の奥でそっと…そう呟く。声には出さなかった。出せば飲み下したはずの何かが、また込み上げてきそうだったから。彼女は、ただ…そっとこと切れた勇者の見開かれたままの瞼を、指先で閉じてやった。
勇者オーランド討死。
その事実は、稲妻のように戦場を駆け巡った。
帝国軍の心臓が止まった。
軍全体の支柱であり誰もが仰ぎ見た…あの勇者があっけなく倒れた。
しかも味方であるはずのもう一人の勇者に盾にされて。
その光景を目撃した兵たちの間に、瞬く間に恐慌が伝染していく。指揮系統は寸断され士気は、音を立てて崩れ落ちた。
「た……退けェ! もう駄目だ! あんなの勝てるものか——!」
誰かが叫び、それを合図に堰を切ったように、兵たちが逃げ惑いはじめる。整然としていた大軍は、もはや恐怖に駆られただけの烏合の衆でしかなかった。数千の軍勢の瓦解は、あまりにもあっけなかった。
そして——後方の白馬の上。
聖女エリスの…あの得意満面だった顔が、完全に凍りついていた。彼女が信じて疑わなかった勝利のシナリオ。
(うそ……嘘よ。だって勇者様が、二人もいたのよ……!? それなのにこんな……こんなあっさりと……!?)
無敵のキャラクターだったはずの勇者は、一人は死に一人は逃げた。この世界の主人公は自分なのだという、その揺るぎない確信に初めて、決定的な亀裂が走った。がたがたと手綱を握る手が震えだす。
血の気の失せた顔で、彼女はただ…呆然と崩れゆく味方と、あの女を…見つめることしかできなかった。
逃げなければ……
その本能だけが、麻痺しかけた頭の中で、警鐘のように鳴り響いていた。
だが…どこへ?
誰を頼って……!?
ちらりと彼女の視界の端を、我先にと逃げていく、もう一人の勇者の背中がよぎった。あの味方を売って逃げた卑劣な男の背が。
——エリスの凍りついた思考の片隅で、何か抜け目のない算段が、かすかに芽吹きかけたのは、この時だったのかもしれない。
喧騒と悲鳴と逃げ惑う足音の渦。
その中心でクルエンタは、静かに事切れたオーランドの亡骸を地に横たえた。
そして、その亡骸をじっと見下ろす。
誠実に生き無残に裏切られて死んだ一人の男。その死に顔には、断末魔の絶望と憎悪の痕が、まだ色濃く残っている。だが、慧の目にはそれとは別の何かが、映っていた。
(……少し惜しい男が、死んじゃったな)
これほどの武とこれほどの誠実。それがくだらない悪意と、卑劣な同僚のせいでここで潰えてしまう。あまりにももったいない。心底そう思った。
……と同時に慧の胸の内で、もう一つ静かな決意のようなものが、形を成しつつあった。
この男の無念を、このまま地に埋もれさせていいのか。誠実に生きて騙され利用され、挙句の果てに味方に売られて死んだ。そんな理不尽な結末のまま、彼を朽ちさせてしまって、いいのか。
——否。
それはあまりに報われなさすぎる。
そして慧には、その理不尽を覆すだけの力があった。彼女は無から兵を生み出す、あの血人形とはわけが違う。
再生を司る女神。
死体さえあれば、それをより高位の眷属として、この世に呼び戻すことができる。生前の記憶も、その卓越した技量も何一つ損なうことなく。
ならば。
この惜しい男を——このまま、ただの屍として、朽ちさせる手はない。彼が果たせなかった贖罪も、あの卑劣な男への意趣返しも、すべては生き返ってから、ゆっくりと果たせばいい。
慧は静かにオーランドの亡骸へと片手をかざした。
「——あなたを使ってあげる。これからは私のため、自身の復讐のために生きなさい」
その呟きとともに。
彼女の白い掌に、ぼう…と血のように紅い紋様が、妖しく灯りはじめた。
崩れゆく帝国軍の喧騒も遠ざかる聖女の悲鳴も、いまや彼女の耳には届いていない。ただ目の前に横たわる、一人の哀れな勇者を新たな眷属としてーーこの世に呼び戻すために。
血の王権を司る女神の…静かな儀式が始まろうとしていた。
第十一話 了
最後まで読んでいただきありがとうございましたm(_ _)m
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