玖拾陸
しっかりと英気を養った朱夏が、凛慈に促されて最上階から降りてきた。薄明かりの廊下を、烏を供に進む。
二階の最奥の扉の前で、凛慈の足が止まった。
「ここか?」
「ええ。すでに身動きできないように封じてありますが、意識はまだはっきりとは戻っていないでしょう」
「実に鮮やかだな。黄駕を、こうも容易く手中に収めるとは」
感嘆したような朱夏の言葉に笑みだけで答え、凛慈は扉を開いた。
花の香りが漂う部屋の中央で、きっちり装束を着込んだ舎利が立って待っていた。朱夏の姿を視界に映し、深々と頭を下げる。
「日嗣宮さま、これは舎利と申します。今、この楼で一番の売れっ妓でございますよ」
凛慈の紹介に、舎利が静かに頭を上げた。じっと見つめられ、その視線の強さに朱夏は首を傾げる。
「朱夏だ。よろしく頼む」
「……舎利と申します。日嗣宮さまには、お初にお目もじ致します」
柔らかい声と口調に、密かな毒を感じて朱夏は戸惑った。
「何か、私に言いたいことがあるのなら……」
「いえ。わたくしのような女が、日嗣宮さまの御前に立ちますこと、光栄に思いますわ」
「……」
突き放すような言葉に、朱夏は思わず足を踏み出した。背後で、烏の制止の声が響く。
「親王さまっ」
敢えて無視し、朱夏は舎利の目の前で足を止めた。朱夏より頭二つ分ほど低い位置にある舎利の顔を、真っ直ぐに覗き込んだ。
「何か、ご不興を買いましたか」
「其方の瞳は、死者を悼む目をしているな」
「っ!」
瞳を丸くした舎利に、朱夏は眉を下げた。
「凛慈から聞いている。其方も、彼女を慕っていたと」
「……」
「其方に面倒をかけたことを、詫びたい。無力な私に手を貸してくれて、礼を言う」
はっきりと言い切った朱夏に、舎利が演技でなく驚いた表情を浮かべる。
「何、を……高貴な方が、そのような……」
「他の者は知らぬ。上に立つ者が、容易に頭を下げてはならぬのもわかっている。だが、私のために危険を冒してくれた者に、礼を尽くすこともできぬようでは人とは言えぬ」
「……」
しばらく押し黙ったままだった舎利が、堪えきれないというように小さく吹き出した。そのまま、悪戯そうな視線を凛慈に向ける。
「楼主さま。このお人は何なんだい」
言葉を崩した舎利に驚く朱夏の背後から、凛慈の穏やかな声が飛んでくる。
「だから言ったろう。俺は、この親王さまに賭ける、と」
こちらへ近寄ろうとしていた烏の足が止まった。鋭い視線で凛慈を睨む。
「貴様、親王さまを何だと……」
「よせ、烏。今の我らは、手を貸してもらっている身なのだ」
「……っ」
悔しげな表情を何とか抑え込んで、烏が口を噤んだ。
舎利に向き直り、朱夏は再び口を開く。
「それが、其方の地なのか?取り繕わずに話してくれると、嬉しく思う」
「変わった親王さまでございますねぇ。さすが、迦陵姐さんが見込んだ男、ってことかしら」
「其方は……琉兎と親しかったのか?」
長椅子を示され、朱夏は腰を下ろした。ここで呑気に話している時ではないのだろう。だが、櫻花楼での琉兎を知る者から、話を聞いてみたかった。
「あたしにとっては、命の恩人です」
驚きに目を瞠った朱夏に、舎利は優しく微笑んでみせた。
「辛いお勤めだけど、あたしたちはここでしか生きられない。そんなあたしたちに、迦陵姐さんはたくさんのことを教えてくれた」
「そうか」
「誰かを愛することも、誰かに愛されることもないあたしたちを、迦陵姐さんだけが愛してくれた。その迦陵姐さんが、命を懸けたお相手だ。助けようと思うのは当然のこと」
だから、礼を言われるようなことではない、とその表情が語っていた。
面映ゆくなった朱夏は、軽く咳払いして凛慈に視線を向ける。酒瓶を持って歩いてくるところだった。
朱夏の目の前で、凛慈が酒瓶を卓に置き蓋を開けた。ふわり、と強い酒精の香りが漂った。
「これは、外国由来の薬を強い酒に溶かしたものです。あまり、香りを吸い過ぎませんよう」
「外国の薬?どのような」
「意識を混濁させ、こちらの問いかけに素直に答えるようになる薬、とでも申しましょうか」
凛慈の説明に朱夏は目を剥いた。
「そのような薬があるのか」
「この国では、まだ手に入る場所は櫻花楼しかないでしょうね。ですので、仙螺の人間にも気づかれない」
「それを、黄駕に盛ったのか」
納得したように頷く朱夏に、凛慈が笑みを深くした。部屋の奥の扉を指す。
「あちらに、仙螺の若君は拘束してあります。薬と酒で、深く酩酊したようなよい気分で眠っているでしょう」
「では、その状態の黄駕に、輝山を陥れた証拠の在処を尋ねるのだな」
「尋問は、私どもで致しますか?それとも、親王さまが?」
挑戦的な瞳をした凛慈に、朱夏は苦笑した。
「私が行う」
「親王さまっ!」
飛んできた叫びを無視し、朱夏は凛慈から視線を逸らさずに答えた。
「何もかも、其方たちに甘えることなどできない。場を貸してくれ、黄駕を捕らえてくれただけで十分だ」
唇を引き結び、朱夏は立ち上がった。




