玖拾伍
さらり、と衣擦れの音をさせて舎利が立ち上がった。
櫻花楼で一番の売れっ妓である彼女の部屋は、店でも最も広い二間続きの個室である。
扉を開いて入ってきた黄駕が顔の布を外し、にやついた顔を舎利の前に晒した。ゆったりと長椅子に近づいてくる黄駕に、舎利は極上の笑みを浮かべてみせた。
「ようこそ、いらせられませ。若君」
「よせ。お前には、我が名を呼ぶ許しを与えたはずだ」
大股に舎利に歩み寄り、性急に抱き寄せようとした腕の中からするりと抜け、舎利は微笑んだまま軽く首を傾げてみせた。
「まだ、二人きりではありませんもの」
くすくす笑って凛慈に目を向けた舎利の言葉で、黄駕は扉側の凛慈に鋭い視線を投げた。
「さっさと下がれ」
「これは失礼致しました。それでは、櫻花楼での夢のひとときを」
客に対する決まり文句を口にし、凛慈は静かに扉を閉めて消えていった。
待ちかねたと言うように、今度こそ黄駕が舎利の細い体を抱きしめる。
「さあ、邪魔者は消えたぞ」
そのまま唇を重ねてこようとする黄駕の胸に手を置いて、舎利は首を横に振った。
「まあまあ、せっかちであられること。まずは酒など召し上がって、お話致しましょう?」
舎利が首を傾げる度に、蠱惑的な香りが黄駕の鼻腔を擽る。伽羅のような伝統的な香ではなく、舎利が自身で調合したという花のような甘い香りだ。
「話など、抱き合っていてもできるだろう」
言いながら、黄駕の手は舎利の腰紐に伸びている。しゅるりと結び目を解かれ、舎利の真っ白な肌が黄駕の前に晒された。
「以前につけてやった痕は消えたようだな。今日はまた、新たに刻んでやろう」
首筋から胸元にかけて、玉のような肌を楽しむように撫でる黄駕は、舌なめずりしながら舎利の肌に顔を寄せた。
頬を染めてみせ、恥じらうように頭を振ってみせながら、舎利は黄駕を長椅子へと誘導する。酒と肴を乗せた膳が用意されていた。
黄駕の肩を軽く押し、長椅子に腰掛けさせた舎利は、その足を跨ぐように座り黄駕に身を擦り寄せた。
「意地の悪いことを仰せですわね。こうしてまたお会いできたことを祝って、盃を合わせたいと思っておりますのに」
拗ねてみせる舎利に、黄駕の顔がますます緩む。これまで幾度となく通って肌を合わせたが、黄駕に酌をするだけだった舎利が乾杯したいと言ったことに気分がよくなった。
腰を抱き寄せ細い背を撫でながら、黄駕は頷いてみせた。
「お前がそれほど言うのなら、一緒に飲んでやらんこともない。明日の朝までの金子は、楼主に払ってあるからな。時はたっぷりある」
「まあ、嬉しい」
黄駕の胸板に指を沿わせ、舎利は一度その膝の上から降りた。長椅子に並んで座り、用意された盃に酒を注ぐ。
「これは、楼主が黄駕さまのために特別に用意した、外国渡りのお酒ですわ。お口に合うとよろしいのだけど」
「ほう。殊勝な楼主だな。だが、私は舌が肥えているぞ」
からかうような黄駕の声色に、舎利は腰をくねらせる。
「黄駕さまのお口に合えば、楼主も自信を持って店でお出しできますもの。ですが、櫻花楼の評判を下げるのは悲しいことですから、美味でなければ正直におっしゃって」
黄駕の耳元に唇を寄せ、舎利は囁いてみせた。自分から近づいた舎利にさらに気をよくし、黄駕は素直に盃を手に取った。空いた手で、舎利の腰を引き寄せる。
とろりと白濁した酒が揺れている。香りを嗅いでみても、おかしな物が入っている様子はなかった。
一つ頷き、黄駕は一息に酒を飲み干した。その動きを、腰を抱き寄せられたまま舎利がじっと見つめている。
盃を卓に戻し、黄駕ははあっ、と息を吐いた。酒臭い息が、すぐ近くにいる舎利のもとまで届く。
「いかが?」
「うむ。随分酒精が強いようだが、悪くないな」
「まあ、よかった。では、わたくしもいただいても?」
両手を合わせて喜んでみせた舎利は、己の分の盃に酒を注ごうとした。その手を、黄駕が力強く掴む。
「黄駕さま?」
「この私が、注いでやろう」
強い酒で顔を赤くした黄駕が、酒の入った瓶を手にする。少し首を傾げ、紅を差して艶やかな唇で舎利は笑みを作った。
「光栄ですわ。黄駕さまに注いでいただいたお酒だなんて、きっと極上の美酒でございましょうね」
舎利の盃になみなみと酒を注ぎ、ついでに己の盃にも注いだ黄駕が、かちりと盃を合わせた。
「お前はあまり飲まないと思っていたがな」
「ふふっ。これまで、自分の気持ちに素直になれなかっただけですの。だって、そうでしょう?わたくしは、所詮貴方さまに買われる女なのです。お慕いしたとて、辛くなるだけ」
酒を一口含み、舎利は瞳を潤ませて黄駕を見上げる。
「ですが、近頃朋輩が亡くなりまして……。自分の心を打ち明けないままに儚くなるなど、より辛いことだと思うようになりましたの」
盃を卓に戻した舎利は、黄駕の肩にそっと頭を乗せた。ぴくり、と黄駕の肩が跳ねる。
「こうして、ともにお酒を飲んで、朝まで愛されて。それだけで、幸せなことですわ」
すっかり上機嫌になり、舎利の肌に顔を埋めた黄駕が意識を保っていられたのは、三杯目の盃を空にしたところまでだった。




