玖拾肆
宮廷からほど近い場所に、仙螺は大きな屋敷を構えていた。
奥まった主人の部屋に、父のご機嫌伺いと称して入り込んだ黄駕は、手にした書面をにやついて眺めていた。つき従う小姓が、壁際に控えてじっとしている。
「見てみろ。櫻花の舎利が、この私に会いたいと文を寄越してきたぞ。こんなことは初めてではないか?」
にやにやと笑み崩れ、日も高い内から酒を呷って上機嫌の黄駕に小姓は何も答えなかった。肯定しても否定しても、言葉を挟めば主君の機嫌は悪くなるからだ。
気配を消して立っている小姓など気にも留めず、黄駕は盃に残った酒を飲み干し立ち上がった。
「これからは仙螺の時代だからな。女どもも、この私にすり寄ってくるのだろう。おおらかに受け入れる私の、何と優しいことか」
ふらついた足取りで、黄駕は父の部屋から出ていった。上座に座った父には、一言の挨拶もなく。
残された仙螺の大臣は、深く溜息を吐き出した。
嫡男と娘の甘言に乗り、目の上のたん瘤であった輝山の大臣を捕縛した時には、年甲斐もなく胸が高鳴った。だが、徐々に大臣の内に言いようのない不安が浮かんでいた。
国庫の帳簿を偽造するなど、大罪である。宝物殿の目録を不当に輝山の大臣の机へ隠したのも、現状目撃していた者が見つかっていないだけの話である。
今上帝の容態も気にかかる。仙螺の大臣は、当主であるというのに、黄駕と蓮黄の企みのすべては知らされていなかった。
宮中から忽然と姿を消した日嗣宮も、どこにいるのか。何故、己の嫡男はあれほど呑気に構えていられるのか。
いずれ仙螺の罪が明るみになれば、一族もろとも処罰されるかもしれないというのに。
遊郭の女などに入れ揚げて、このような重大時に市井に下りていくなど、大臣には信じられなかった。
だが、正面切ってそんなことも言えず、ただ屋敷の奥で悶々と過ごす仙螺の大臣であった。
櫻花楼が経営する遊郭の裏手に、高貴な身分を隠す覆い布がされた輿が静かに停められた。遊郭が開くのは日が沈んでからである。このような昼間に、表口は開いていない。
己のように高貴で、金に糸目をつけない太い客ならば、こうして裏口から入れてもらえるのだと黄駕は心から信じていた。店が融通を利かせてくれるのは、それだけ己を尊重しているのだ、と。
実際には、仙螺の嫡男が通っていることをあまり大々的に知らしめたくない凛慈の機転である。酒を飲んで暴れるような黄駕を、他の客が通ってくる時間帯に鉢合わせさせたくなかったのだ。
店の裏口で、凛慈は静かに頭を下げた。黄駕がふんぞり返って輿を降りてくる。一応、お忍びという自覚はあるのか、頭には頭巾を被り口元を布で隠している。
「いらせられませ、若君」
慇懃に言葉を掛けた凛慈へ鷹揚に頷き、黄駕は櫻花楼に足を踏み入れた。
これまでつれない態度を取られ続けた舎利が、ようやく己に靡くような文を書いてきたのだ。今宵はどうやって責めてやろうかと想像し、布で隠した口元がだらしなく歪んでいる。
そんな客の様子には気づかない振りをし、凛慈はゆるゆると舎利の部屋まで黄駕を案内する。
ふと、黄駕の足が止まった。
「待て」
「……はい?」
先導していた凛慈も足を止め、振り返って目を伏せた。客の顔を直視するのは、作法知らずとされる。
「私は舎利に会いに来たのだぞ。いつもは最上階の、一番いい部屋に通されていただろう。どこへ向かっている?」
二階の廊下を奥へと進んでいたことが、黄駕の機嫌を下降させたようだ。萎縮しているような表情を作って、凛慈が頭を下げる。
「申し訳ございませぬ。ただ今、最上階の部屋は修繕の最中でございます」
「修繕だと?」
「はい。先日酒に酔って暴れた御方がおられまして。扉と壁の一部が剥がれましてございます。職人に修繕を依頼しております」
凛慈の説明に、黄駕は鼻を鳴らした。
「何と無粋な客がいたものだな」
「ですから、今宵は当楼の花の部屋へと、ご案内致します」
「部屋?舎利の?」
振り返って歩き始めた凛慈の後を、黄駕も素直に続く。
「左様でございます。若君と二人、心ゆくまで愛し合うため、己の個室でお会いしたいそうでございますよ」
「そうかそうか。可愛いことを言うものだな」
覆い布で隠しきれないやに下がった顔が、廊下の薄明かりを受けている。
すっかり気をよくした黄駕は、裏口で輿から降りた際に、凛慈に言われるがまま武器の類をすべて店に預けていた。護衛も連れずにここまで来た黄駕は、櫻花楼中の女たちから見られていることに、いっさい気づかなかった――。




