玖拾弐
ぽかん、と口を開けた朱夏の表情に、年相応の青年らしさを感じ取った凛慈が笑みを深くした。
「今、何と……?」
ようやく紡がれた言葉に、凛慈は含み笑いを漏らす。
「仙螺の黄駕さまは、第二室さまと同じく派手好きで贅沢な御方。櫻花楼にも、度々足を運ばれておりますよ」
「それ、は……表の店の方に、か?」
「どちらにも」
それは品物を扱う店にも、裏で経営する遊郭にも、黄駕が客として顔を出しているということだ。
思わず、朱夏は膝の上で拳を握りしめた。それが真実ならば、確かにつけ入る隙となりそうだ。
勢い込んで続きを促そうとする朱夏を、烏がそっと諌めた。
「親王さま、お待ちを。まずは、この男の真意を訊かねばなりません」
冷静な言葉に、朱夏もはっとする。確かに助けてくれた相手ではあるが、琉兎との約束は朱夏を宮中から逃がすことだけだったはずだ。今後も味方でいてくれるとは限らない。
前のめりになっていた姿勢を戻し、朱夏は口を開く。
「客の情報など、容易に漏らしていいものではなかろう?」
その問いかけに、凛慈の纏う空気が変わった。
穏やかで掴みどころのない雰囲気だったものが、冷ややかで酷薄なものになる。思わず、烏が身構えたほどだ。
「凛慈?」
「本来ならば、我らもお客様の情報など死んでも漏らしません。我々にも、矜持というものがございますから」
「では、何故?」
しばらく黙した後、凛慈はふふっと小さく笑った。
「この店の女たちを、我々が『花』として扱っているのはご存知ですね?あの方は、その花たちを、傷つけるのですよ」
「傷つける?」
「確かに他のお客様方より大枚をはたいてくださいます。ですが、だから花たちをどのように扱ってもいいだろう、とそう傲慢に振る舞われるのは楼主として苦々しく思っております」
薬草茶を一口飲み、凛慈は目を見開く朱夏にさらに続けた。
「櫻花楼の大切な商品である花たちに、閨事の最中暴力を振るわれるのは、大変遺憾に思います」
「暴力、だと……?」
「一糸纏わぬ姿で碌な抵抗もできぬ女に、殴る蹴る、首を絞めるなどといった行為を平気でなさる。その方が快楽を得られるからという、低俗な理由で」
今ここに黄駕がいたなら、迷わず斬りかかってしまいそうだと朱夏は思った。腸が煮えくり返るとは、こういう気持ちを言うのか。
「いくらお諌めしても、あの方は変わらなかった。だが、権力が集中する仙螺家のご嫡男。出入り禁止にもできず、花たちも泣く泣く従うしかなかった。これまで命を落とした者がいないのは、運がよかっただけです」
「……」
「貴方さまという迦陵の希望を、花たちの希望を。今ここに匿えたことは僥倖でございました。仙螺の謀を潰し、ご嫡男を追い落としてくださるならば、櫻花楼は貴方さまへのご助力を惜しみません」
命を賭した琉兎が繋いでくれた櫻花楼との縁。こうして朱夏を守る盾となろうとは、思いもしなかった。
朱夏の胸の内が、熱く燃えるようだった。
「この店の女たちは、迦陵に希望を与えた貴方さまに、私と同じく感謝しているのです。貴方さまのためならば、仙螺のご嫡男など籠絡してみせるでしょう」
「いや、だが……女たちを利用するのは」
「貴方さまのお優しいお心が痛むと仰せなら。上手くことが成った暁には、迦陵の名誉を回復していただきたい」
きっぱりと言い切った凛慈に、朱夏は驚いた瞳を向ける。
「名誉?」
「このまま仙螺の横暴を許せば、迦陵は今上帝さまに毒を盛った恐ろしい毒婦ということにされてしまいます。櫻花楼に残る花たちも、そういった目で見られ生きにくくなります」
「……っ」
貴人牢に入れられたまま、蓮黄の策略で命を落とした琉兎。凛慈の言うように、このままでは琉兎の評判は地に落ちたままだ。
握った拳に力を込め、朱夏は深く頷いた。
「其方の……其方たちの気持ちはわかった。今の私は何も持たず、何も返せない。だが、恩義には必ず報いると誓おう」
朱夏の宣誓に、ようやく凛慈の雰囲気が和らいだ。
「まずは、仙螺の手から帳簿と目録を取り返すところからですかね」
立ち上がった凛慈に、烏が鋭く尋ねた。
「仙螺の嫡男はいつ来る?」
その問いに、凛慈が口角を引き上げる。
「花たちに文を書かせます。『お慕いする若君さまに、お会いしたくて堪らない』とね。飛んで来ますよ」
「そんなことで?」
首を傾げる朱夏に、凛慈は小馬鹿にしたように続けた。
「来ますね、鼻の下を伸ばして」
「……」
「仙螺のご嫡男を籠絡するまで、日嗣宮さまにはご窮屈な思いをさせますが。この楼で、ゆるりと心身を休め、来たるべき時にお備えください」
そして、凛慈は部屋を出ていった。
残された朱夏は深く息を吐き出す。烏の気遣わしげな視線が心地よい。
椅子の背に凭れ、朱夏は目を閉じた。つかの間の、休息であった。




