玖拾
黙々と、烏が毒見した朝餉を朱夏は口に運ぶ。
温かな汁物が、疲弊した朱夏の全身に染み渡っていくようだった。湯気の向こうから、凛慈が優しく微笑みかけている。何故、ああして微笑むのか。凛慈とは、これまで数えるほどしか顔を合わせたことはない。
疑問が顔に出ていたのか、凛慈が一つ頷いた。
「私は、貴方さまに感謝しているのですよ」
最後の一口を咀嚼し終えた朱夏は、匙を置いて首を傾げた。口直しの茶を烏が淹れ、朱夏の前に差し出す。
「感謝、とは?」
「今朝も申し上げました。彼女は……敢えて迦陵と呼びますか。迦陵は、貴方さまとの出会いがあったからこそ、生きてこられた」
「……」
「櫻花楼で、一番の売れっ妓となって。数多の客を取るようになって。それでも、心を壊すことなく凛と立っていました」
朱夏の脳裏で微笑む、薄桃色の瞳の嫋やかな女人。逝ってしまった後になって、どれだけ朱夏を想ってくれていたのかを知った。
「この櫻花楼に生きる女たちは、他に生きる術も生きる場所もない者たちです」
「……」
「ここで生きていくしかないのなら、せめて迦陵のように、己の身代を己で買い戻せるほど稼ぎたい。そして高貴な方に見初められ、幸せな未来を夢見てここを出て行きたい」
「だが、彼女は……」
言いかけて、朱夏は口を噤んだ。己自身で買い戻せるほど稼いでいたのなら、何故父の側室になどなったのか。
「貴方さまのお側に、いたかったのでしょう」
静かな声に朱夏は顔を上げた。瞳を見開いた朱夏に、凛慈が続ける。
「櫻花楼を出る時、彼女は晴れやかに微笑んでいました。ここに残る女たちに、悲しい顔など見せられないから。彼女たちの希望となれるように、精一杯着飾って胸を張って出て行きました」
「……っ」
朱夏はきつく唇を噛んだ。それほどの思いをして宮廷にやって来た彼女に、己は冷たくすることしかできなかったのではないか。
「借金を返し終えた後、迦陵は稼ぎのほとんどを、櫻花楼に連れられて来る女子たちの世話のために遣っていました」
「え……?」
「櫻花楼のように金利で儲けを出そうというのでなく。いつか大人になって返してくれればいいからと、利子も何も取らずに、ただ彼女たちの世話や教育に充てていました」
大きく目を見開いた朱夏の背後で、同じように烏が目を瞠っていた。
「私どもとしては、女たちの教育の手間が省けた程度のことです。だが、驚くほど従順に店のしきたりに従う彼女たちは、迦陵以前の女たちよりも格段によい客を掴まえるようになりました」
「……」
「櫻花楼として、儲けはそれまでの三倍以上です。当然、迦陵にもよい待遇を与えようとしました」
凛慈の言葉に朱夏は頷く。所属する場に利益を出したのなら、高待遇は当然のことのように思えた。
「ですが、迦陵は首を振って。貰った幸せを返しているだけだから、と」
「貰った、幸せ……」
「ですから、迦陵には金がほとんどかからなかった。そして、櫻花楼にいる女たちは、その迦陵を慕っていた。それがすべて、貴方さまとの出会いによるものなのですから。感謝している、とそう申し上げました」
ゆるゆると、朱夏は力なく首を振った。語られたのはすべて、琉兎の人柄によるものだろう。己はただ、身勝手に夏の宮に連れ帰り、食事や菓子を与えただけだ。
「その迦陵からの、最期の頼みです。何としても、貴方さまを救わねばならなかった」
はっ、と朱夏は顔を上げた。真剣な表情を浮かべた凛慈と視線がぶつかる。
「胸を張れるような商売をしていない私ですがね。それでも、店が大きくなる一助となった彼女に、恩義をまったく感じないほど人非人ではありませんよ」
「……今の私には何も返せないが」
「それはいずれ、貴方さまが正しき場所にお戻りになられた時に。今は出世払いということにして差し上げますよ」
悪戯っぽく言われ、朱夏はようやく口元を緩めた。
「済まぬ。昨夜の話を聞くはずであったのにな」
「いいえ。私も、迦陵の話をこうして貴方さまとできて、よかったと思いますよ」
そして、凛慈は朱夏の背後に控える烏に目を向けた。
「さて。籠宮や奥宮については、探れましたか?」
先刻までの柔らかい雰囲気を消し去って、凛慈はじっと烏を見つめていた。




