捌拾陸
目の前が真っ赤に染まった心地で、朱夏は立ち竦む。
違う。頭の中が真っ白になったようで――いや、違う。
これは、現実か?
目の前に横たわるのは、誰だ――?
一歩も動けない朱夏を、凛慈が痛ましそうに見つめていることにも気づけない。
震える指を棺に伸ばす。伽羅の香木から切り出した木で造られた棺は、朱夏の指先に温かさを伝えてくるようだった。
「……」
ゆっくり、ゆっくりと朱夏の指が迦陵に近づく。顔の側まで何とか動かした指が、ぴたりと止まった。
「……る……ぅ」
零れた呟きを誤魔化したくて、朱夏はそっと、迦陵の頬に触れた。
何の熱も伝わってこない。冷たく、まるで陶器でできた人形のような感触に、朱夏の背を冷たいものが伝う。今にも目を開けて微笑んでくれそうな、穏やかな顔をしているのに。その薄桃色の瞳が、朱夏を見つめることは二度とないのだと、頭の奥が理解した。
「ぁ……あ、ああぁぁぁぁぁっ」
迦陵の肌に傷をつけないように、頬に触れた指を離し朱夏は棺にしがみつく。何故、どうして――。
「琉兎っ、何故……っ!」
名を呼ばないようにと、これまで気をつけてきたことなど忘れ去っていた。
棺の縁に額を押し当て、朱夏は叫び続ける。かつて救えなかった幼い少女。父の元で、幸せに過ごしてくれていると思っていたのに。
最後に会った時、もっと話を聞いてやるべきだったのだ。縋るように、名を呼んでほしいと言われたのに。
「どうして……どうしてっ、琉兎!」
慟哭する朱夏の肩に、遠慮がちに手が置かれた。
「日嗣宮さま、指を痛められます」
静かな声にも答えられなかった。迦陵を、いや琉兎を悼むことを、何故邪魔するのか。
「っ、何故、こんな、ことに……」
嗚咽を堪えながら零れた呟きに、凛慈が答えを返した。
「第二室さまによって罠に嵌められたのでしょう」
「……」
「元より、彼女が亡くなった際には、亡骸はこちらで引き取る契約となっておりました」
凛慈の言葉に朱夏はようやく顔を上げた。虚ろな瞳で、凛慈を見上げる。
「けい、やく……?」
「今上帝さまが、彼女を輿入れさせる条件として、仙螺家からそのように取り決めがあった、と」
「……」
のろのろと頭を振り、朱夏は棺の内に目をやる。
「彼女には、櫻花楼としても随分儲けさせてもらいました。借金を返し終わっても、遊郭に残って幼い者たちの面倒をよく見てくれていました」
朱夏は再び、琉兎の冷たくなった頬に手を伸ばした。そっと、撫でる。
今になって、ようやく触れられるとは、皮肉なことだと頭のどこかで思う。
「予想以上に儲けを出した返礼として、彼女の請いに一度だけ、手を貸すと約束していたのですよ」
「……それが、私の救出か?」
「貴方さまという希望を、私のような男に託すのは不安だったでしょう。それでも、彼女には他に縋る相手がいなかった」
凛慈の言葉が、頭の中を素通りしていくようだった。そこまでして、何故朱夏を救おうなどと思ったのか。
唇を噛む朱夏に、凛慈が続ける。
「輝山家のご当主が不当に捕縛され、貴方さまのお身柄も仙螺が押さえた。彼女にとっては想定外だったでしょう。自分が命を捨てれば、貴方さまはご無事だと思っていたでしょうから」
「何……」
「これは、彼女が私に宛てたものですが、お読みになりますか」
凛慈が懐から書状を取り出すのを、朱夏はぼんやりと眺めた。
受け取ろうとしない朱夏に、凛慈は小さく微笑んで棺の縁に書状を置いた。
「今宵が、最後の別れとなります。私どもは上階におりますから。彼女と二人の時を、どうかお過ごしください」
静かに言い終えて、凛慈が下男を伴って部屋を出ていった。
閉じられた扉を、朱夏はじっと見つめる。ふいっと視線を逸らし、凛慈が置いていった書状に目が止まった。流麗な字で、櫻花楼主さまへ、と綴られている。
「……」
棺の傍らに腰掛け、伽羅が香る木に背を預けて、朱夏は書状を開いてみた。
『これまでわたくしを育て、教え、帝の側室という御位にまで就けていただき、ありがとう存じます。
わたくしは、第二室さまに睨まれ、憎まれ、策略の下この命を終えるようでございます。
日嗣宮さまの足枷になるくらいならば、命を散らすことなど惜しくはございません。
わたくしがこれまで生きてこられたのは、楼主さまと日嗣宮さまのお陰でございます。
幼い時分に幸せな時をくださった、日嗣宮さまの助けと、どうかなっていただけますよう。
楼主さまがお約束くださったわたくしの権利を、日嗣宮さまをお守りすることに使いたく存じます。
どうかどうか、日嗣宮さまをお助けください。お守りください。
わたくしが儚くなっても、あの方には何の傷もつきませんよう、どうぞお力添えを。
櫻花楼に残る花たちが、健やかに生きていけることを願っております』
いつの間にか、朱夏の頬を涙が伝っていた。
拭うこともせず、止まらない涙を流したまま、朱夏は何度も何度も、琉兎が書いた凛慈への文を読み返した。
「……其方。私のことばかりでは、ないか……っ」
立ち上がった朱夏は、棺の縁に手を掛けて琉兎の顔に己の顔を近づけた。
頬に触れ、冷たい唇を親指でなぞる。
「今更、こんな……っ」
物言わぬ琉兎の唇に、朱夏はそっと己の唇を重ねた――。




