捌拾伍
長い長い時が流れたような気がする。
恐らく都の大通りを抜け、ようやく止まった荷車から、朱夏は麻袋のまま再び担ぎ上げられた。
大柄な男の肩にでも乗せられているような不安定な揺れに、朱夏の頭が酔いそうになる。必死に、歯を食いしばって耐えた。
ぎぎぎ、と音を立てて開いた扉から、建物の内に入った空気を感じる。
そっとどこかの椅子らしき物に座らされ、朱夏の身が麻袋から出された。汗で額に貼りついた前髪を掻き上げ、正面に立った櫻花楼の主を睨む。
「……これは、どういうことだ」
朱夏の低い問いかけに、凛慈は困ったように微笑みを浮かべ、下男に何事か命じて下がらせた。
「あのまま本宮におられては、日嗣宮さまの御身が危うかったのです」
「そうだとして、何故其方が私を脱出などさせたのだ?そもそも、ここはどこだ?」
「ここは櫻花楼の持つ、裏の遊郭でございますよ。貴方さまが、一度忍んで来たいと書状をくださった店です」
薄々そうではないかと感じていた朱夏だったが、それでもはっきり言葉にされると落ち着かない気持ちになった。かつて迦陵が過ごしていた違法な遊郭。
「それで、何故私を?」
「何からお話しましょうか」
顎に指を当て、首を傾げた凛慈から微かに伽羅が香った。
「其方……」
「はい?」
「その、香り……」
朱夏の呟きに、凛慈は金色の瞳を見開いた。そして、困ったように眉を下げる。
「どうしたものですかね。まずは、お見せした方が早いか」
「凛慈?」
「ああ。先に喉を潤されますか」
卓の上に置かれていた水差しに、朱夏の視線も向く。確かに喉は乾いている。だが、まだ信用できない相手の勧めるものを、素直に口にしてしまってよいものか。
「今の内に、少しでも口にされていた方がよろしいです。毒など入っていませんよ。信じていただくしかありませんが」
「……」
「では、私が先に飲みましょう。杯も検めていただいて構いません」
そこまで言われては、朱夏も腹を括るしかなかった。そもそも、己を害そうというのなら、これほど手の込んだことをする必要などない。あの本宮の部屋で、丸腰だった朱夏に斬りかかればそれでよかったはずなのだ。
水差しから杯に水を注ぎ、朱夏はぐいっと飲み干した。
豪胆な朱夏に目を丸くし、凛慈は柔らかく微笑んだ。
「それでは、ご案内致します」
「……どこへ」
「貴方さまの救出を、私に請われた方の元へ」
「っ!」
凛慈の言葉に、朱夏は拳を強く握りしめて立ち上がった。櫻花楼にいる誰かが、何故朱夏の救出など頼んだのか。心当たりがまったくなかった。
薄暗い廊下を凛慈の先導で朱夏は進む。
すでに夜の遅い時間なのか、軟禁された後で視界を塞がれて運ばれた朱夏には判断がつかなかった。
人の気配のない廊下に首を傾げる。
「遊郭は、経営していないのか」
「今宵は、大きな政変が起こると情報を掴んでおりましたので。店は閉めております」
「政変……」
仙螺の企みを、この凛慈という男は掴んでいたのか。商人とは情報が命だとは言うが、それにしてもどんな情報網を張り巡らせているのか。
口を噤んだ朱夏を連れ、凛慈は建物の奥の階段を降り始めた。
「……地下か?」
「ええ。地下が一番、冷えますのでね」
「……?」
凛慈の言葉の意味を掴みかね、朱夏は黙って後に続く。
階段を降り、さらに廊下を奥へと進む朱夏の目に、白塗りの扉が見えてきた。扉の側に、先ほど朱夏を担いでいたらしい下男が立っている。
「花は用意できたか」
凛慈の静かな問いかけに、下男が深く頭を下げた。
「この時期の花を、ふんだんに」
「そうか」
足を止めた凛慈が、朱夏に気遣わしげな視線を向けた。何故そんな目で見られるのかわからず、朱夏は首を傾げる。
「何だ?」
「……いえ。では、中へどうぞ」
音を立てて開かれた扉から、朱夏は凛慈に続いて中へ入った。ふわり、と伽羅が香る。
それほど広くないらしい部屋の中央に、深い黄褐色の木で造られた棺が置かれていた。思わず、朱夏の足が止まる。
どくどくと、鼓動が早くなる。この先に足を踏み出すことが、とてつもなく恐ろしく感じた。
「これ、は……」
「最後の機会です。顔を見てやっていただきたい」
体の震えが抑えられない。凛慈は無言で待っている。
唇を噛み、体の横で拳を握りしめて、朱夏は棺に一歩、近づいた。蓋を開けられた棺の内を、震えながら覗き込む。
真っ白な装束を着せられた、薄茶色の髪を一つに束ねられた姿で、眠るように瞳を閉じた迦陵の体がそこにはあった――。




