捌拾肆
烏が去った室内に、朱夏の息遣いだけが響く。
再び座り直し、朱夏は烏が戻るのを待った。ただじっと待つだけの時間は、朱夏の精神を削っていく。
ふと顔を上げ、室内を見回す。ほのかに、伽羅が香ったような気がした。腕の中で震えていた、細い体。
頭を振って、朱夏は立ち上がった。何故、今この時に思い出してしまったのか。
どんどんと大きな音を立てて扉が叩かれた。はっと朱夏は身構える。
襲撃だとしても反撃できるように構えたまま、静かに尋ねた。
「……誰だ」
「日嗣宮さま、そちらにおいでですか」
どこかで聞いたような声だが、朱夏は咄嗟に思い出せなかった。
「名乗れ。誰だ」
「……櫻花楼の凛慈でございます」
「凛慈?」
出てきた意外な名乗りに、朱夏の体から一瞬力が抜ける。何故、櫻花楼の楼主がここに?
そっと歩み寄り、閉ざされた扉越しに声を掛けた。
「何の用だ。何故ここにいる」
「まずは、扉を蹴破ります。お離れください」
凛慈の思惑が掴めないまま、朱夏は一歩後ろに下がった。同時に、どんっ、と大きな音を立てて扉が外から破られた。
重厚な扉が床に落ちる様子を呆然と眺め、朱夏は押し入ってきた男に視線を向ける。
「……何故」
「詳しいお話は後ほど。ひとまず脱出なさってください」
「待て。何を言って……」
近づこうとする凛慈から逃れるように、朱夏はさらに一歩下がった。だが、相手の動きの方が早い。
気づけば眼前に迫られ、凛慈が手にしていた大きな麻袋を頭から被せられた。商人と侮ったつもりはなかったのに。がっしりした体躯の凛慈に、麻袋で包まれたまま抱え上げられたのが感覚でわかった。
視界を塞がれ、荷のように担がれて朱夏はもがいた。このまま刺されでもしたら、すべてが終わる。
「大人しくなさってくださいよ。このまま、宮中を抜けますから」
「っ、離せ……!」
「あまり聞き分けがないと、気絶させますよ」
「……」
麻袋入りの朱夏を担いだまま、凛慈が歩きだした。揺れる感覚に、朱夏の判断が鈍る。
このまま、どこへ連れて行かれるのか。宮中を抜けるとは、どういう意味なのか。
今尋ねても、答えは返ってこないと理解した朱夏は、気を失わないようにきつく唇を噛みしめた。
どさり、と何かの上に乗せられ、朱夏の体が横向きになる。すぐに響いてきたがらがらという音と伝わる振動に、荷車か何かで己が運ばれているようだと朱夏は感じた。ばさりと大きな布を掛けられたような音もした。
進む荷車が一度止まったらしく、遮られた視界の向こうで誰かの声が聞こえる。
「櫻花楼でございます。奥宮で廃棄となりましたお品を、引き取って戻るところでございます」
「許可証は?」
「こちらに」
どうやら本宮の門で、番をする衛士と凛慈が話しているようだ。じっと、朱夏は息を潜める。
「荷検めは……」
「よろしいのですか?こちらは、第二室さまからの廃棄品ですが。ご覧になるのは、およしになった方が」
「……第二室さまか。仙螺家に睨まれるのは、な」
考え込む門番に、凛慈はするりと近寄ってその手に小さな巾着を握らせた。
「貴方さまは、しっかり荷を検め、正しく私どもを通したのです。こちらは、ご出世の足しになさってください」
じゃらり、と重たい巾着に、門番の頬が緩む。
「そうだな。許可証もあることだし、さっさと通れ」
「ありがたく。お勤めご苦労さまでございます」
慇懃に頭を下げた凛慈が、荷車を引かせている下男に目配せした。
がらがらと再び荷車が動き出し、朱夏は詰めていた息を吐き出した。
何がどうなっているのかわからない。だが、本宮の門番に何かを握らせてまで朱夏を逃がそうと、凛慈はしているようだ。想定以上の何事かが、起きているのだと朱夏にもわかった。
烏は、追ってこれるだろうか。軟禁されていた部屋に己の姿がなければ、探し回るかもしれない。
何とか、連絡を取り合う方法を探さねばならなかった。
揺れる荷車の上で、麻袋に包まれたまま朱夏は必死に頭を動かした。




