捌拾
触れられた手首から朱夏の熱が伝わり、迦陵は瞳を閉じた。
零れた言葉は戻らない。名を呼んでと縋り、涙を流してしまった己を迦陵はきつく律することにした。
「……申し訳、ございません。日嗣宮さま」
目を開けて何とか微笑みを浮かべ、朱夏の手から逃れようとする。だが、余計に力を込められ迦陵は戸惑った。
「日嗣宮さま?」
「其方は……私にだけ名を呼ばせるのか?」
「っ!」
射抜くように見下ろされ、迦陵は視線を彷徨わせる。ぐいっと強く引かれ、迦陵の体が椅子から浮いた。
気づけば朱夏の腕の中に囚われていた迦陵は、混乱し身動ぎした。だが、その動きすら許さないというように強く、抱きしめられる。
「……ゃ、お離しくださ……」
「琉兎」
「!!」
朱夏の装束から香る香に、迦陵は眩暈がしそうだった。夏の爽やかさと熱を纏った朱夏の腕の中は、夏勢帝のそれとは違って迦陵に安心を齎した。
だが、このままではいけない。朱夏に、日嗣宮として陽の当たる道を行く彼に、取り返しのつかないことをさせるわけにはいかなかった。
必死に首を振り、迦陵は朱夏の胸に手を当て押し返そうとする。
「い、いけません。お願いですからお離しくだ……」
「其方が、望んだのではないのか?私の心の蓋を外させたのは、其方だろう」
迦陵の細い顎に、朱夏の長い指がかかる。上を向かされた迦陵は、それでも懸命に抵抗した。
「ご正室さまがっ、悲しまれますっ!」
「っ!」
見開いた青灰色の瞳から逃げるように、迦陵は首を振った。
「貴方が名を呼んでくださった。それだけで、今のわたしには十分」
「琉兎……」
「さあ、お離しくださいな、日嗣宮さま」
「……」
力の抜けた朱夏の腕から、迦陵は身を捩って抜け出した。乱れた装束を直し、朱夏に向き直る。
「わたくしは、ここでご沙汰を待ちます。気遣っていただいて、ありがとう存じます」
微笑みを浮かべ再び腰掛けた迦陵を、朱夏は黙って見つめた。第六室としての仮面を被り直したように、朱夏の目には映った。だが、これ以上追求することはできない。迦陵自身が拒絶するならば、己は日嗣宮として一歩離れて接しなくてはならない。
小さく息を漏らし、朱夏は迦陵に背を向けた。
「それでは、失礼する……第六室どの」
迦陵の答えを待たずに、朱夏は部屋を出て扉を閉じた。柔らかな感触が、腕の中にまだ残っているようだった。頭を振って気を引きしめる。これから、第二室派閥とやり合わなくてはならないのだ。感傷的になっている時ではない。
貴人牢の建物の入口へと歩き始めた朱夏の背を、柱の陰から見ている視線があったことには気づかなかった。
ようやく出てきた朱夏の姿に安堵の息を漏らし、文官が恭しく頭を下げた。
「大事ございませんでしたか」
「何も案ずるようなことはない。世話をする侍女がいないから、貴人牢での過ごし方を話して聞かせていただけだ」
「左様でございましたか。それでは、お沙汰が下るまで、こちらの出入りは私どもがきちんと管理致します」
「任せた」
護衛の武官を一人連れて、朱夏は本宮へと戻った。
一人部屋に残った迦陵の元へ、侍女が水を運んできた。
「お世話は、お断りしたのだけど……」
品よく首を傾げた迦陵に、侍女がニタリと笑ってみせた。
「まさか、帝のご寵愛深いご側室さまが、そのご子息とあのような……」
口元に手を当てて微笑む侍女の言葉に、迦陵の顔が蒼白になった。いつから、何を見られていたのか。
「わたくしは、蓮黄さまに命じられて仙螺から参りました。第六室さまがご快適に過ごせるようにとの、蓮黄さまのお優しいお言葉に感動致しましたの」
くすくす笑いながら、呆然とする迦陵の前の卓に、水の杯と上質の紙が置かれた。脇に、筆も置かれる。
朱夏が置いていった杯を、侍女が取り上げるように手に取った。首を傾げ、迦陵から遠ざけるように一歩離れる。
「それと、そちらは仙螺が有する中でも最も優しいお薬ですわ」
「薬……?」
「眠るように旅立てます。罪を犯した者には、この上なく慈悲深いものですわね」
「っ!」
杯の中で、とろりと濁った水が揺れていた。
「こちらの紙は、蓮黄さまがご用意なさった最上級のものですわ。貴方さまの罪をお認めになり、死をもって贖うと一筆賜りたく」
「……っ」
「そうすれば、この場で見たことはわたくしが外に漏らすことはありませんわ」
言外に、朱夏と抱き合っていたことは秘密にしてやると、そう脅されているのだと迦陵は悟った。
「貴方さまがお隠れになれば、我が主が宮中で権勢を振るうことができますもの。今上帝さまもご正室さまもご不在で、仙螺の力はますます大きくなります」
「……」
「冬廉親王さまが、帝の御位にお就きになる日もやって来ることでしょう」
ぺらぺらと囀る侍女に、迦陵は胡乱な瞳を向けた。
「日嗣宮さまは、ご立派なお世継ぎ。貴方の言うような未来は来ないでしょう?」
ぴたりと口を閉じ、侍女は壮絶な表情で迦陵を睨みつけた。
「どうでしょうか。貴方さまがわたくしの言うようにしてくださらなければ、日嗣宮さまは帝のご側室さまと通じていたと、断罪されるかもしれませんわねぇ」
ねっとりと絡みつくような視線に、迦陵は溜息を吐いた。
「わたくしが貴方の言う通りにすれば、日嗣宮さまはご無事でいられるのね?」
「ええ、ええ。わたくしは嘘は申しませんよ」
にこにこと笑う侍女を信じることなど、迦陵には到底できなかった。だが、ここで従わないという選択もできない。
ちらりと筆と杯に目をやり、迦陵は一度強く瞳を閉じた。
脳裏に浮かぶ青灰色の瞳が、優しく見つめる先にいるのは迦陵ではない。花のような姫君だ。
目を開けて、迦陵は卓に置かれた筆を取った――。




