陸
夏の宮に古くから仕える年嵩の侍女に琉兎を湯殿へと案内させ、朱夏は一人深く息を吐き出した。
烏の淹れた甘茶の優雅な香りが、室内に漂う。
「其方は、ああいうことを、知っていたのか?」
零された言葉に、烏は首を傾げる。
「ああいうこと、とは?」
「その……幼い娘が、体を差し出して糧を得るような、ことを」
言いながら、何に対するものかわからない怒りが朱夏の内を襲う。
この四季の国で、人買いなどという商売は禁忌とされているのに。
唇を噛みしめる主君に、烏は痛ましげな目を向けた。
「褒められたことではありませんが、親も縁者もおらず働くことも難儀な者にはあることです。あの娘が言うように、食べなければ生きていけませんから」
「扶養院も、あるだろう?」
親を亡くした孤児や、親類のいない老人を住まわせる国営の施設だ。祖父帝の時代に、きちんと整備されたと朱夏は習った。
「あるにはありますが……」
「何だ?」
「お話すべきか迷うところですが」
そう言って、烏は椅子を回り込み朱夏の前に膝をついた。
「烏?」
「この国に、どれだけの孤児や一人で暮らせぬ老人がいるとお思いです?すべてを収容するほど、扶養院にも余裕はありません」
「だが、四季の国は豊かで、下々に至るまで幸せに暮らしていると……」
揺れる青灰色の瞳に、烏は目を逸らしそうになる。だが、ぐっと堪えた。
「上辺はそうですね」
「上辺?」
「確かに、海に囲まれ四方に外敵など抱えていないこの国は、豊かで幸せな国ではあります。それでも、すべての者を養うほどの国力はない」
「……」
民が治める年貢の上に成り立つ暮らしを、朱夏も理解しているつもりだった。だからこそ、己に救える者は救いたい。
「すべての民を養うとして、その金子はどこから出すのですか?民が納めたものを遣っては、必ず不満というものが出ます」
「同じ、四季の国に暮らす者なのに?」
「自分たちが働いた金を、何故働かぬ者のために遣うのか、と感じる人間はおりましょう」
烏の諭すような口調に、朱夏は思わず溜息を吐いた。己は、まだまだ何もわかっていない。
頭を振って、じっと烏の真っ黒な瞳を見つめる。
「ならば、私はどうすればいいのだろう」
「親王さま?」
「琉兎のような少女一人、私には救えぬのだろうか」
自嘲ぎみな声に烏が眉根を寄せた。あの少女の境遇に、朱夏が責任を感じる必要はないのに。
「先ほど、あの娘は『小父さん』と言いました。つまり、ああいったことをさせている大人が近くにいるということです」
「それで食事を貰える、と言っていたな」
「お調べになりますか?」
しばらく考え込み、朱夏は小さく首を振った。
「それを琉兎が望むかはわからない。まずは、ゆっくり話を聞いてみたい」
「では、親王さまの話相手として、夏の宮に召し上げたことになさいますか」
烏の言葉に、驚いたように朱夏が目を瞠った。
「話相手?」
「年の近い遊び相手を、町へ下りた際に見初められたことになさってはいかがでしょう」
「それは……私が我儘を言ったようではないか?」
首を傾げる主君に烏は吹き出す。
「すでに夏の宮にお連れになったでしょうに。一晩過ごし、話相手として気に入ったことになされば、それほど不自然ではないのでは?」
「……それを、琉兎は望んでくれるだろうか」
不安そうな声に、烏は主君を励ますような言葉を掛けた。
「それは、親王さまの頑張り次第でございましょう。あの娘が、親王さまの話相手としてこの宮に留まってもいいと思えるように、言葉を尽くされませ」
ようやく明るい表情を浮かべた朱夏に安堵し、烏は立ち上がった。
得体の知れない者をこの宮には置いておけない。今夜の内に、あの娘の素性を調べるつもりだった。
天井裏に潜む影の護衛を、今夜は増やしておかなくては。
「烏、ありがとう」
零された一言に目を瞠り、烏は主君を見やった。
「心が軽くなった。隠さずに話してくれたことに、礼を言う」
「勿体ないお言葉です」
烏が深く頭を下げたところで、侍女に連れられた琉兎が湯殿から戻ってきた。
艶やかな薄茶色の髪は少し濡れたまま、毛先から雫が滴っている。
上気した頬はしっとりと潤い、薄桃色の瞳が明かりを受けて揺らめいていた。
成る程、愚かな大人が手をつけたくなるのもわかる美しさであった。




